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連載「『公共』と法のつながり」第4回 正義の女神は目隠しを外すか?――「契約自由の原則」の修正について考える

筆者 

大正大学名誉教授 吉田俊弘(よしだ・としひろ)
【略歴】
東京都立高校教諭(公民科)、筑波大学附属駒場中高等学校教諭(社会科・公民科)、大正大学教授を経て、現在は早稲田大学、東京大学、東京都立大学、東京経済大学、法政大学において非常勤講師を務める。
近著は、横大道聡=吉田俊弘『憲法のリテラシー――問いから始める15のレッスン』(有斐閣、2022年)、文科省検定済教科書『公共』(教育図書、2023年)の監修・執筆にも携わる。


【1】はじめに:正義の女神の“目隠し”を手がかりに

  突然ですが、皆さんは、秤と正義の剣を持つ正義の女神(「テミス神」とも呼ばれます)を知っていますか。

正義の女神の写真(目隠しのあるもの) 

正義の女神の写真(目隠しのあるもの) 
 Wikimedia Commons user TheBernFiles. - 投稿者自身による著作物, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1343192による

正義の女神の写真(目隠しのないもの)

正義の女神の写真(目隠しのないもの)
Mylius - 投稿者自身による著作物, GFDL 1.2, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14856016による

 ここに紹介した正義の女神像(やそれに類するもの)は、どこかで見たことがあるでしょう。女神が手に持つ秤は、「正義」を意味し剣は、法を貫徹する「力」を象徴しているといわれます。19世紀ドイツの法学者、イェーリングは、その著『権利のための闘争』(1872年)において「秤を伴わない剣は裸の実力を、剣を伴わない秤は法の無力を意味する」(註1)と述べ、2つの要素は表裏一体であり、正義の女神が剣をとる力と、秤を操る技とのバランスがとれている場合にのみ、完全な権利=法状態が実現される、と指摘しています。力強さに加え、深くて味わいのある言葉です。

 でも、今回ここで注目してほしいのは、秤と剣というわけではないのです。2つの写真を見比べて何か気づいたことはありませんか。…そうです。目隠しをしている女神と目隠しをしていない女神がいることなのです。正義の女神の目隠しの有無をめぐっては、その歴史的な経緯もあり、すでに多くの人が論じていますから、詳細は、そちらに譲る(註2)ことにして、今回は、正義の女神の“目隠し”に着目しながら、前回の予告通り、「契約自由の原則」の修正と変容、その現代的な課題について取り組んでいきたいと思います(註3)。

【2】合理的・対等な「ひと」が結ぶ契約:“正義の女神は目隠しをする”

 1枚目の画像の女神は目隠しをしています。なぜでしょうか。
 いくつかの文献を調べてみると、「外見で人を裁いてはならない」というのがその理由としてあげられています。人は往々にしてどんな人物かを外見で判断してしまうことがありますから、目隠しをすることで、外見によらず、すべての人を法の前に平等に扱う、というのは正義の理念に適った考え方といえるでしょう。ここから更に進んで、目隠しに象徴される意味として、法律の「一般的確実性」、すなわち、法律は画一的に適用されなければならず、人や事物の個別的な特殊性には目をつぶるという意味として捉える論者もいるようです(註4)。目隠しをする理由としてはそれぞれ合理的な根拠になると考えられますが、皆さんはいかがでしょうか。

 さて、ここで「契約」の学習をおさらいしてみますと、私たち一人ひとりの意思や意思表示の意義を理解することが大切なポイントとなっていました。「契約」の学習において意思や意思表示に注目するのは、近代市民社会では契約の当事者は自由かつ理性的な存在であり、合理的な判断能力を持つ人が対等・平等な立場で交渉し自らの意思で契約を結ぶことが想定されていたからです。近代市民社会が打ち立てた、自由で平等な市民という人間像こそ、近代民法において登場する普遍的・抽象的な「ひと」であり、その関係を規律するのが「契約」ということになります。ここでは、すべての「ひと」は、身分や職業によって差別されることなく、等しく権利義務の主体となる資格を有し、自由かつ理性的な意思決定によって契約を結び、安全に取引をしていくことが想定されています。

 万一、契約の解釈や履行をめぐって紛争が起こったとしても、身分や外見によって解決のあり方が変わるようでは安定した取引はできません。「ひと」は対等・平等であるとの理念に立つならば、法律を画一的に適用することが公平の理念に適うことになります。“正義の女神は目隠しをする”と比喩されるのは、こうした法律の公平性を象徴的にあらわしているということができるのです(註5)。

【3】契約の当事者は合理的で対等なのか:「契約自由の原則」の現実

 ところが、経済の発展とともに契約をめぐってさまざまな問題が起こってきますと「契約自由の原則」に対して疑問の声が次々と寄せられるようになりました。現実の生身の人間は、先にあげた理念的なモデルとして括れるほどに合理的かつ理性的な存在ではないからです。儲け話があると聞けば、熟慮することなく飛びついてしまったり、契約内容をよく理解しないまま契約書にサインしてしまったりすることはよくあることです。このようなとき、儲け話に乗ってしまったのは「自己責任」だから仕方がないというべきなのでしょうか。それとも、人間が必ずしも合理的な存在ではないことをふまえ、事業者に対して何らかの規制をかける必要があるのでしょうか。この点は、いろいろと考える余地がありそうです。

 また、「契約自由の原則」のもとでは、契約当事者が対等・平等な立場で契約を締結すると述べてきましたが、現実の社会をよく見ると、本当に対等・平等なのかと疑問の声が上がりはじめたのです。確かに、契約の交渉の現場を注意して見ると、当事者が対等・平等であるというのはあくまで理念にすぎず、現実の社会では当事者間の力の差は歴然としているというのが実態ではないでしょうか。

 使用者(雇主)と被用者(労働者)、賃貸人(貸主)と賃借人(借主)の関係では、使用者 (雇主)や賃貸人(貸主)の力が強く、契約交渉における力量には大きな格差が存在します。労働者は賃金を得るために使用者から提示された厳しい労働条件を不本意ながら受け入れざるを得なくなっていますし、借主は住む部屋のため家賃などで不利な条件を受け入れざるを得なくなっているというケースは少なくないはずです。

 事業者(企業)と消費者との関係も同様です。両者には交渉力だけでなく、契約をめぐる情報量・判断能力にも大きな格差が存在します。現にスーパーなどでの買い物は商品や代金が定型化されていますから、レジで商品の価格を値切って個別に交渉している人の姿を見かけることはありません。当事者が一から交渉をして契約内容を個々別々に取り決めるということは通常の買い物では考えられなくなっているのです。電力会社やガス供給会社との契約でも契約内容は画一化されており、消費者一人ひとりが個別に契約の問題点を指摘し、それを修正しながら契約に合意することは事実上不可能です。もちろん、消費者は、契約内容に不満があれば「契約しない」という選択をすることができます。しかし、契約をしなかったら、電気やガスが使えなくなり、大変な不便を強いられることになりかねません。これでは、本当の意味で契約の自由が認められているとはいえないでしょう。事業者と消費者の関係をみれば明らかなように、契約当事者の地位には大きな格差があり、現実には消費者側に契約内容の決定権はないともいえるのです。

【4】契約当事者の格差は広がり多様化した:“正義の女神は目隠しを外す”

 そこで、正義の女神が再び登場してきます。
 目隠しをした女神であれば、「ひと」が置かれているそれぞれの特殊な事情を考慮するよりも、互いに対等・平等な「ひと」の契約を公平に裁くことが大切だと考えることでしょう。そこにみられる公平は、契約当事者の実態に即して判断するよりも、形式的・論理的に法を一律に適用する方が合理的であることを意味します。

 しかし、これでは、契約当事者でありながら、不利益を受け困っている労働者や借家人、消費者の権利・利益を守ることはできません。このような事態に対処するためには、形式的に公平の理念を貫くよりも、もっと現実を直視し、労働者や借家人、消費者などの不利益の実態を認識する必要があるのです。

 法を取り扱う正義の女神が目隠しを外すときがついにやってきたのです。女神が目隠しをとり、社会の実情をしっかりと見つめ真実を見抜くこと、個々の契約の実情に応じて判断することは法の正義に適った行為であるということができるでしょう。正義の女神が、「公序良俗」(民法90条)や「信義則(信義誠実の原則)」(民法1条2項)などの基本的理念・基本原則をまとめた条項を用いて個々人や個別の紛争ごとに公平に適った具体的な妥当性のある解決策をはかるようになった(註6)のは、このような事情が背景にあるのです。

 それでもなお、従来の法秩序の枠内で問題が解決しないときは、不当な契約から社会的弱者や消費者の権利・利益を確保するための立法による解決が必要となります。従来、契約をめぐる紛争の解決は、対等な当事者同士の関係を規律する民法という一般法が適用されてきたのですが、それでも適切な解決が望めないときには問題が起こっている領域ごとに特別法を制定し、それによる問題解決が図られるようになってきているのです。労働契約の適正化のために労働契約法がつくられましたし、不安定な借地人や借家人の地位を保護するためには借地借家法がつくられました。また、事業者と消費者との間の情報や交渉力の格差を是正するために消費者契約法が制定されたのは、そのような取り組みの具体的あらわれということができます。

 それでは、ここまでの内容をまとめてみましょう。少し入り組んだ話をしてきましたので、学習内容の整理のために、下記のように図解してみました。

 下の図は、契約の当事者が、普遍的・理念的な「ひと」から使用者と労働者、家主と借主、事業者と消費者などへ分化し多様化したことをふまえ、それぞれの主体に合わせた個別具体的な取り扱いが必要となったことをあらわしています。契約関係の法としては、地域・人・事項に関係なく広く適用される一般法としての民法のほかに、特定の地域・人・事項にのみ適用される特別法が制定されたことに注意してください。

図 近代市民社会の変容と法

【5】おわりに

 私たちは「人はみな同じなのだから平等に扱われるべきだ」と考えることが多いのではないでしょうか。確かに人が「同じ」であれば平等に扱ってほしいというのは当然の要求といえるでしょう。しかし、現実の生身の人は、決して「同じ」ではありません。すでに見てきたように、契約の当事者である労働者や消費者は、契約関係の相手方(使用者や事業者)と同じ人でありながら構造的には弱者として位置付けられる関係になっています。「公共」の学習を進める時には、このような視点を学習の中に位置づけていくことができるのです。

 そんなとき、法をつかさどる正義の女神は、この現実にどのように向き合えばよいのでしょうか。人は同じなのだから異なる取り扱いを認めるべきではないと考えるべきでしょうか。それとも、現実の差異を考慮せずに均一に扱うことはかえって不合理な結果を生じさせることになりかねないと考え、現実の差異に応じた取り扱いを認めるべきでしょうか。これは、形式的平等実質的平等との考え方の違いにも行きつく大変難しい問題です。社会的・構造的な差別によって不利益を受けている集団(女性や人種的マイノリティなど)に対して一定の範囲で特別な機会を提供し実質的な機会均等を実現しようとするアファーマティブ・アクションの評価にも通ずる議論にもなりそうですね。

 今回は、「ものの見方・考え方」を重視する「公共」の学習を念頭に置いて、正義の女神の目隠しを手がかりに「契約自由の原則」の修正問題にチャレンジしてみました。近代市民法の想定した「理念としての平等」と現実に存在する「格差」の問題を前にして、人間と法(契約)の関係をどのように調整していくことが望まれるのでしょうか。
 
次回は、雇用契約(労働契約)などを教材として、この調整問題に取り組んでいきたいと思います。

 【註】

  1.  イェーリング著(村上淳一訳)『権利のための闘争』(岩波文庫、1982年)29~30頁。この本は古典(1872年の作品)ですが、読めば読むほど新しい発見ができる一冊です。法と教育という観点でいうならば、次の一節を紹介しておきましょう。「外国から敬意を払われ、国内的に安定した国たらんとする国家にとって、国民の権利感覚にも増して貴重な、保護育成すべき宝はない。国民の権利感覚の涵養を図ることは、国民に対する政治教育の最高の、最も重要な課題の一つなのである。国民各個人の健全で力強い権利感覚は、国家にとって、自己の力の最も豊かな源泉であり、対内的・対外的存立の最も確実な保障物である 。〔108頁〕……歴史はいつでも、大声ではっきりと、こう教えているのだ。国民の力は国民の権利感覚の力にほかならず、国民の権利感覚の涵養が国家の健康と力の涵養を意味する、と。ここで涵養というのは、むろん学校の授業で行なわれる理論教育のことではなく、生活のあらゆる面で正義の原則を実践することである 。〔110頁〕」

  2.   たとえば、石井彦壽「〔講演〕『正義の女神』と『自由の女神』の不思議な関係」東北ローレビュー1巻(2014年)45頁以下を参照してください。なお、この論稿は、秤と剣の関係だけでなく、正義の女神が目隠しをするに至った経緯やその後の展開について詳しく解説してくれています。なお、こちらの文献はインターネットでも読むことができます。https://tohoku.repo.nii.ac.jp/records/129632

  3.   正義の女神の“目隠し”という比喩に着目して「契約の自由の原則」の修正・変容に迫ってみようという本稿のアイデアは、片山直也「契約自由の原則・私的自治の原則」法学セミナー643号(2008年)20頁以下から着想を得ました。市民社会の変容が「契約自由の原則」の見直しや新法の制定にもつながっていること、また、この点が民法の前提とする「人間像」の転換と対応していることが的確に指摘されています。

  4.   石井・前掲48頁以下。石井さんの解説によると、女神の目隠しは、本文中に紹介した「外見で人を裁いてはならない」という大原則や「法の一般的確実性」を象徴するだけでなく、司法権の限界、私的な知見に基づいて判断してはならないという原則、民事の弁論主義、刑事の起訴状一本主義などもあらわしているとのことです。

  5.   片山・前掲22頁。

  6.   本稿では、市民社会の変容と「契約自由の原則」の修正に触れながら、「目隠しをする女神」と「目隠しを外す女神」を対比的に紹介しました。この2つの女神の比喩は片山・前掲22頁で取り上げられています。今回、普遍的・抽象的な「ひと」と人の“多様化”を取り上げましたが、現代社会において派生する「ひと」とその“多様化”をめぐる問題については、なお深く考える問題が潜んでいるようです。たとえば、「高齢者が金融取引の詐欺被害にあった」というようなニュースは聞いたことがあるでしょう。そこで、高齢者を守るために、「ひと」一般から「高齢者」という社会的弱者を一律に取り出し、「高齢者」には高度な知識を必要とする金融商品を販売しないというルールをつくることは妥当でしょうか。この問題は、「高齢者」の保護に資するのか、それとも誰にでも開かれているはずの市場から「高齢者」を排除することにつながるのか、簡単には解決できない論点を提示しているように思います。こうして、「契約」の学習を進めていったら、いつのまにか、「人とは何か」「平等とは何か」という根本的な問題を考えることになってしまいました。難しいですが、なかなか奥が深いテーマであることに気付いていただけたら、今回はそれで十分ではないかと思います。これらの論点についてもっと知りたいと思ったら、平野裕之「『ひと』からみる『民法の意思表示』」法学セミナー566号(2002年)2頁以下、および宍戸常寿=石川博康編『法学入門』(有斐閣、2021年)245~246頁の「人の分化」「人の範疇化」〔齋藤哲志執筆〕の項目を参照してください。なお、ここで例示した高齢者の金融商品の取引のケースは、宍戸=石川編・前掲169~170頁の「適合性原則」〔松元暢子執筆〕、246頁の「人の範疇化」〔齋藤執筆〕の記述を参照し教材用にアレンジしたものです。「公共」の授業で用いる教材づくりには苦労がつきものですが、法学の入門書などに紹介されている事例に着想を得て問いをつくったり考えたりすることは楽しみにもなります。


【連載テーマ予定】

Ⅰ 「契約」の基礎  〔連載第1回~第3回〕
Ⅱ 「契約」の応用:消費者契約と労働契約を中心に
Ⅲ 「刑事法と刑事手続」の基礎と問題提起
Ⅳ 「憲法」:「公共」の憲法学習の特徴と教材づくり
Ⅴ 「校則」:身近なルールから法の教育へ

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