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連載「『公共』と法のつながり」第2回 「契約」の成立と拘束力について考える

筆者 

大正大学名誉教授 吉田俊弘(よしだ・としひろ)
【略歴】
東京都立高校教諭(公民科)、筑波大学附属駒場中高等学校教諭(社会科・公民科)、大正大学教授を経て、現在は早稲田大学、東京大学、東京都立大学、東京経済大学、法政大学において非常勤講師を務める。
近著は、横大道聡=吉田俊弘『憲法のリテラシー――問いから始める15のレッスン』(有斐閣、2022年)、文科省検定済教科書『公共』(教育図書、2023年)の監修・執筆にも携わる。


 読者の皆さん、はじめまして。
 高等学校公民科に新設された「公共」の教科書をひもといてみると、多くのページに法に関連する事項が出てきます。そこで、これから数回にわたり、「公共」と法とのつながりを意識しながら、どのような点に注意しながら学んでいくとよいのか、考えていく予定です。これから「公共」の授業づくりにチャレンジしようとする先生方はもちろんですが、法の世界に興味を持ってくださった高校生にも読んでいただけたら幸いです。

【1】「契約」はいつ成立するか:「契約」の成立と拘束力

 第1回では、「契約」教育の内容や方法、基本的な考え方について解説しました。第2回では、「契約」に関する法的な知識や概念を取り上げ、考えてみたいと思います。
  最初に、契約はいつ成立するのか、図解してみましょう。

図(筆者作成)

 契約について、民法は522条1項で、次のように規定しています。

「契約は、契約の内容を示してその締結を申し入れる意思表示(以下「申込み」という。)に対して相手方が承諾したときに成立する」

 民法上、契約は、「申込み」「承諾」という2つの意思表示(註1)によって成立します。の例では、Aがパソコンを「売るよ」と申し込み、Bが「買うよ」と承諾していますから、このようなときに契約は成立したということができますね。ポイントは、一方の意思表示だけでは契約が成立せず、売買契約の場合は、「売りたい」と「買いたい」という意思が合致していなければならない、ということです。

 民法は、当事者の意思による自治を基本に考えていますから、判断力のある成年者が自身の自由な意思で契約を結んだ以上、双方はその合意について守らなければならない義務を負うことになります。これを「契約の拘束力」(註2)といいます。上のにあるように、民法や法律の世界では、一般的に自ら行うべき義務を「債務」といい、契約の相手に行ってもらえる権利を「債権」と呼んでいます。契約に拘束力があるというのは、国家がその契約を法的に保障することを意味します。もし契約の相手方が契約内容を果たさないとき、債権者は、裁判所の力を借りて債務者に対して契約内容の履行(契約内容どおりに実行すること)を求めたり、逆に契約を解除したりすることができます。また、相手方が契約内容を履行せず(債務不履行)、何らかの損害が生じた場合には、損害賠償を請求することができるのです。

【2】意思表示と「契約」主体の能力:未成年・意思の不存在・意思表示の欠陥(キズ)

 ここまで契約を結ぶ際の意思表示は、自由な意思に基づいて行われることが大切だと述べてきました。そのため、自由な意思といえるためには、契約する主体が自由に意思を形成し、人に伝えることができる能力が必要となります。しかし、当事者がそのような意思を十分に備えていない場合にはどのように対応したらよいでしょうか。

 実は、民法という法律は、このような事態に備え、そのような能力が十分でない人をあらかじめ類型化し、保護者をつけることにより保護する仕組みをとっています。例えば、成長して意思能力を備えていたとしても、知識や経験の乏しい未成年者が契約を結ぶときには法定代理人(通常は両親)の同意が必要であり、同意のない行為は取り消すことができると定めています(民法5条)。また、成年者であっても判断能力が不十分な人には成年後見人をつけるなどの保護する仕組みが定められています(民法7条以下)。

 他方で、一般の成年者であっても、契約当事者の内心(真意)と表示が異なっている場合や意思表示に欠陥(キズ)がみられる事態が生じたら、私たちはどのように対処したらよいでしょうか。このようなとき、そのまま意思表示の通り契約の効力を認めてよいかどうか問題になるケースがあります。例えば、あるお店の店員Aがパソコンの価格について、「代金10万円で売る」と書くべきところを「1万円で売る」と書き間違えて契約を結んだような場合、そのお店は契約に拘束されなければならないのでしょうか。このとき、店員Aは、パソコンを10万円で売る意思はあるが、1万円で売る意思はなかったわけですから、表示された通りの意思が存在しないことになります。Aは、本人の内心(真意)と表示に不一致があるのにそのことに気付いていません。民法では、このような思い違いのことを錯誤〔さくご〕といい、契約の重要な部分について錯誤があるときには取り消すことができると定めています(民法95条)。

 そのほか、意思表示に欠陥(キズ)がある場合も、同様の問題が発生します。例えば、詐欺にあった場合や強迫(民法では刑法の「脅迫」罪ではなく「強迫」と書きます)によって契約を結んでしまった場合、合意が成立しているのだから従わなければならないでしょうか。詐欺の場合は、買った人は購入する意思はあるのですが、その意思は騙されたことによって誤った認識の上に成り立っています。また、強迫の場合も、買った人は商品を購入する意思はあるものの、その意思は無理やり強制された意思に基づいているということができます。錯誤の場合は、意思が存在しないケースでしたが、詐欺や強迫は、意思はあるけれど意思の形成過程に欠陥(キズ)があるケースです。民法は、このような場合も、意思表示に欠陥(キズ)があることに着目して取り消すことを認めています(民法96条)。

 ここまでのところをまとめると、平等な個人と個人は、自由な意思でお互いの社会生活関係を自治的につくることができる、というのが「私的自治」のベースにある考えです。契約は、個人と個人の意思表示の一致によって成立するものですから、意思能力の不十分な人や知識や経験が乏しい人のためには保護者をつけていますし、成年者であっても自由な意思が存在しないケースや意思表示に欠陥(キズ)がある場合に備え、その契約を取り消すことができると定めているのです。いずれも、私的自治が行われるための前提を確保するための仕組みであるということができます。だからもし契約をしたけれども「何かおかしいぞ」と感じたときは、自由な意思がきちんと確保されているかどうか見直してみることが大切です。

【3】「契約自由の原則」の限界:「公序良俗」と“認められない契約”

 さて、最後に「契約自由の原則」といっても、そこには限界があるということを取り上げてみましょう。近代市民社会は、自由で平等、独立した個人が、自由な意思に基づき他者との合意である「契約」によって社会関係を規律することを想定しています。しかし、自由であるからといって、どんな契約も認められるわけではありません。例えば、賭博や人身売買、殺人などの犯罪行為を依頼し、それを引き受けるような契約は当事者同士が合意したとしても成立するのでしょうか。

 この点、民法は、「公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする」(民法90条)と定めており、法の禁止する犯罪行為や法律上明確に規定されていないとしても社会的に認めるべきでない契約については「公序良俗」に反し無効であると規定しています。民法学者の河上正二さん(東京大学名誉教授・東北大学名誉教授)は、契約の内容は、民法90条にいう「公の秩序又は善良の風俗(公序良俗)」という最外部に引かれた土俵の中で当事者によって自由に形成されると述べています(註3)。

 「契約自由の原則」を考える時、このような視点から契約の内容を考察することができるのですね。最近話題となっている「闇バイト」にみられるように、略奪、強盗などを目的とした雇用契約は有効に成立するものでしょうか。皆さんも考えてみてください。

【4】海賊契約にサインする?:法よりも「契約」を選ぶ? ウェンディの決断

 映画に出てくる契約のシーンといえば、第1回で紹介した「千と千尋の神隠し」に出てくる千尋と湯婆婆との雇用契約が有名ですが、ディズニーアニメ映画「ピーター・パン」(1953年公開)の海賊契約もよく知られているのではないでしょうか。

 海賊に捕まったウェンディたちが、「フック船長の手下になれ」と迫られる…、このシーンでは、フック船長の手に海賊契約にサインさせるための羽ペンが握られています。海賊といえば、略奪や誘拐を平気で繰り返すアウトロー(無法者)ですよね。刑法も民法も、法という法を完全に無視する、この無法者の集団が海賊になるための契約書にサインしろ!!と激しく迫る、その矛盾・滑稽さに思わず吹き出してしまった人もいるでしょう。逆に、日本の「闇バイト」を連想し「ぎょっ」とした人もいるかもしません。あるいは、こんなエピソードを通して、契約を重視するアメリカ社会の伝統に感心した人もいるかもしれませんね。いずれにしても、この契約をめぐる象徴的なシーンをどのように受け止めたかは人それぞれであり、多様な見方が成立するのは歓迎するところです

 しかし、「言うことを聞かないと、海に突き落とすぞ!!」と脅されているにもかかわらず、「私たちは海賊にはなりません」と力強く拒絶するウェンディの毅然とした姿勢に拍手を送った人がたくさんいたのは間違いないことでしょう。そう、「契約自由の原則」には、“契約するかしないかの自由”、“誰を契約相手とするかの自由”が含まれているのですね。ウェンディの意思はこんなところにも表れています。

 今回は、「契約」が、①個人と個人の、意思表示の合致によって成立すること、②意思表示に問題がある場合にはどのように考えたらよいか、③「公序良俗」に反する契約は無効であることなどを学んできました。また、「契約の拘束力」をめぐっては(註2)で補足の説明を加えました。「契約はなぜ守らなければならないのか」という問題を考えるときの手掛かりになると思い、加筆しています。
 次回は、これまでの復習を兼ねて演習問題を用意しました。ぜひチャレンジしてみてください。

【註】

  1.  意思表示については様々な解釈があります。本稿では【2】も含め、深入りせずに紹介をします。興味がある方は、佐久間毅ほか『民法Ⅰ総則〔第2版補訂版〕』(有斐閣、2020年)第7章など、「民法総則」の書籍を参照してみてください。

  2.  ここでいう「契約の拘束力」は、「自らの意思で結んだ契約は守らなければならない」という自由な「意思」を根拠としています。このほかに、「契約の拘束力」の根拠として「信頼」をあげる論者もいます。つまり、「意思表示によって相手に『契約は守られるはずだ』という信頼を与えた者はそれに忠実でなければならない」というのです。いずれも納得がいく考えですね。注意してほしいのは、これら「意思」と「信頼」は、互いに対立するものではなく、これら2つが相互に補完し合って成り立っている、ということです。このことを説く論考として福本知行=金沢法友会「契約と消費者保護に関わる法教育の研究と実践」金沢法学59巻1号(2016年)202頁以下(とくに207頁)がありますので、参考にしてください。福本さんらの論考に従い、契約の拘束力の根拠をこのように掘り下げて考察してみますと、①自由な意思で契約を結んだとはいえない場合や、②契約の相手方に「契約は守られるはずだ」という信頼を与える基礎が欠けている場合には、契約の拘束力の前提が崩れてしまいますから、そのような契約を正当化することはできなくなる可能性が生まれます(福本=金沢法友会・前掲210頁参照)。福本さんらは、契約の拘束力の根拠を理解することは、逆に契約の拘束力が否定されるべき場合を理解することにもつながると述べ、「守らなければならないはずの契約を守らなくてもよい場合があるか、あるとすればなぜ守らなくてもよいのか、といった問いを考える際にも、『意思』と『信頼』は有力な道具となりうる」(208頁)と指摘しています。「契約」の基礎的な考え方を身に付けるうえで大切な指摘です。

  3.  河上正二『民法学入門――民法総則講義・序論』(日本評論社、2004年)59頁。

【連載テーマ予定】

Ⅰ 「契約」の基礎
Ⅱ 「契約」の応用:消費者契約と労働契約を中心に
Ⅲ 「刑事法と刑事手続」の基礎と問題提起
Ⅳ 「憲法」:「公共」の憲法学習の特徴と教材づくり
Ⅴ 「校則」:身近なルールから法の教育へ

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