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モルトモルテ Molto Morte 其の糾⑨


【主な登場人物】

チホ 千葉に住む女性吸血者。24歳。右手の握力は推定600キログラム。世良彌堂せらみどうと二人で吸血者の奇病・イトマキ症の謎を追っている。

世良彌堂(せらみどう) 日英ハーフの吸血少年。12歳にしか見えない24歳。視力は推定15~20。24人の彼女から血をもらっている吸血ジゴロ。

理科斜架蜘蛛網(リカシャカ、クモアミ) チホと一緒に暮らしている双子の吸血姉妹。見た目は10歳、実年齢は100歳以上。イトマキ症で繭になっている。

歌野潮里(うたのしおり) チホが住むマンションの隣の部屋に監禁されていた高校生。死後、浮遊霊となりチホと友達になる。電気があると立体映像化する。電位差を使って強烈なダウンバースト「カミカゼ」を起こせる。

沼崎六一郎(ぬまざきろくいちろう) 東京都杉並区でチホの実家が経営する風呂なしアパートに住むサバイバリスト。ブログで世界の危機を発信。47歳。

ドンビ SES(土食症候群)患者のこと。ゾンビのように動き回る。チホの父親も元気に闘病中。

霧輿龍次郎(きりこしりゅうじろう) 日本吸血者協会理事長。元薩摩藩士、吉井友実よしいともざねと同一人物。




27. 鬱血織り姫うっけつおりひめ血色悪い王子けっしょくわるいおうじ


 試してみましょうか、と言って吉井はナイフを取り出した。
 チホが軽く身構えると、吉井は手を上げて他意がないことを示した。
 テーブルの上にあったウィスキーでナイフの先を消毒すると、吉井は平然と左手の指先に切っ先を突き刺した。
 無表情の吉井が指先を二人の前に差し出すと、小さな切傷から透明なジェル状の物質が染み出してきた。
「これは線虫が出す粘液です。ぼくの体の中には毎朝飲む血液のほかに血は一滴もありません。代わりにこの粘液が充満しており、その中をミクロな線虫たちが泳ぎ回っているというわけです。即ちぼくは線虫たちにとって〝歩く市営プール〟なのです」
「上手いこと言ってるんじゃないわよ。そんな重大なことを軽く言わないでよ」
 チホは吉井の胸倉を掴みそうになった。その手が右手であることに気づくと、拳を握って耐えた。
「お怒りはご尤もですが、これがこの世の真実なのですよ」
 吉井はいつか理事長室で見せた謝罪モードで受け流した。
「何で今まで隠してたのよ。みんな困ってるのに。繭になっちゃった人たちに何て言うつもり?」
「真実とは残酷なものです。知ったからといってどうなるものでもない。それなら、知らないほうがいい。知らなくていいことを目の前から隠してあげるのも、優しさというものではないでしょうか」
 吉井は悪びれる様子もなかった。
「優しいという字を知っていますか? 人偏に憂い、と書きますね。人は憂いをたくさん持つほど人に優しくなれるようです(1)。吸血者はどうでしょうか。りっしん偏に血と書いても、うれいです。ぼくは、真実よりも誰も気づかないように嘯かれる血塗れの優しい嘘を信じたい(2)
「話にならない……ちょっと、彌堂君も何か言ってやってよ」
    チホは促すが、世良彌堂の〈万物を丸裸にする目セラミッド・アイ〉は一点に注がれたまま微動もしなかった。
 吉井の指先を睨む世良彌堂の顔はどこか寂しげだ。
 きっとメグミンのことを思い出してしまったのだとチホは察した。
 吉井によれば、若い女性の場合は月経で確かめられる。
 それ以外は採血してみるしかない。
 病気にならない吸血者が自分の血を見る機会は稀だ。
「確かにおれは自分の血を見たことがない」
 世良彌堂は寂しげな表情のまま言った。
「だが、何故言い切れる? おれも貴様と同じ状態にあると」
「顔ですよ」
「顔?」
「鏡をごらんなさい、気がつきませんか? 陶器のような肌、というものじゃない。君の肌はもはや青磁や白磁の部類。その目はサファイアで作った義眼ですか? 君の造型はもう人間離れしています」
 吉井によれば、肉体が線虫に完全に乗っ取られた吸血者は典型化、単純化、大衆化の道を歩む。
 表情も行動も三つのボタンから選んだように極端なものになっていく。
 余計な要素が消されて、本質が最適化していく。
 線虫がローコストで維持し易い人物へと精錬されるのだという。
「おかげでぼくは、絵に描いたような不良中年のちょいワルオヤジというわけです。前はもっと陰影の濃い深みのある人物だったのですがね……」
 吉井はつづけた。
 人体組織と入れ替えが完了したμ吸血線虫の群体に人間の意識は必要ないはずだ。
 μ吸血線虫が完全に人体を乗っ取ってしまわないのは、そこに彼らの利益があるからだ。
 μ吸血線虫は「人間性」を利用しているのかもしれない。
「例えば、赤十字社と吸血者協会という人道的な搾取のシステムで人類から広く薄く血液を集めさせるとかね」
「その変な虫が血を吸うための道具なの? わたしたちって……」
 チホはまだ信じたくなかった。
「そうなりましょうな。吸血者は人類に寄生し、μ線虫は吸血者に寄生する。そして、人類も地球に寄生している、と言ったのは、『寄生獣きせいじゅう』の広川市長でしたか。その地球も宇宙の何かに寄生しているのかもしれない」
 吉井はつづけた。
「何者かに寄生し何者かに寄生される。持ちつ持たれつではなく、奪い奪われどこまでも、それが救いのない残酷な宇宙の真理なのかもしれませんね」
 秘密を暴露してさっぱりしたのだろう。吉井の表情は晴れ晴れとしていた。
「おれがすでに死んでいる……シロアリに食われた樹木のように、おれの体はすでに線虫どもに乗っ取られていて、おれの意識のみ残されている……」
 世良彌堂も納得がいかないようだ。
「その意識も糸を吐くまでの命です。今回のイトマキ症の大流行は過去二回とは規模が違います。これも仮説ですが、μ吸血線虫の生存戦略に何らかの方針転換が起きた可能性があります。このまま人類と共にあっても先がないと判断したのでしょうか。仮説が正解でないことを祈るばかりです」
 吉井のさわやかな笑顔に、その祈りは見えない。
「もはやどうでもいいことだが、一応訊いておく」
 世良彌堂が力を振り絞るようにして吉井を睨んだ。
「貴様が繭を集めているのは何故だ? まさか金儲けのためとも思えんが」
「もちろん、金ではありません。むしろ、逆です。繭で金儲けを企むやつらが今後必ず出てきます。繭を原料に医薬品、高級化粧品、サプリメント、オーガニックTシャツ、何でも出来ますからね。先手を打ったのです。繭を集めて保管する財団が間もなく発足します。また赤十字と協会のような、世界的ないい仕組みができますよ。μ吸血線虫が小躍りして大喜びするようなシステムがね」
「貴様はクソ線虫どもの奴隷だな」世良彌堂は吐き捨てた。
「せめて、優秀な、をつけてくださいよ」
 ちょいワルの面目が立ったとばかり、不敵に微笑む吉井。
「ぼくに言わせるなら君だって、単独でシステムを構築してしまった驚嘆すべき奴隷の一人です」
 チホは睨み合う世良彌堂と吉井をぼんやりと見ていた。
 今まで曖昧にしていたことがこれではっきりしてしまった。理科斜架リカシャカ蜘蛛網クモアミのことだ。
 二人の病気をパソコンの更新に準えるのもプリンターの目詰まりで説明するのももう通用しない。
 線虫によって最適化され、線虫に乗り捨てられてしまった二人の生命はすでに燃え尽きているのだ。
 真実を隠すことが優しさだと言う吉井は欺瞞に満ちた男だが、真実を求めながらどこかで直面することを避けたかったのはチホも同じだ。
 この三か月間、駆け回って結局手の中に残ったのは羽化することのない二つの繭だけだった。
 役目を終えた吉井はデッキチェアに戻って次のビールを開けていた。
「一つ言い忘れていました。刺客が来ます」
「何が来るって?」世良彌堂が声を荒げた。
「し・か・く。刺客が来ます」
「何だと……貴様、おれたちを殺す気か?」
「殺されるのは、主にぼくです。ぼくがぼくを殺すのです。協会理事長、霧輿龍次郎として、トップシークレットを口外した吉井友実よしいともざねは殺さざるをえません。お二人も早く逃げないと、おや……遅かったかな」
 吉井はデッキチェアの上に乗って、額に手をあて背伸びをした。
「おお、来た来た」
 世良彌堂も湖岸へ目をやった。ボートを出した船着き場の方角だ。
 チホもそちらを見たが、木々に阻まれて何も見えない。
「小型のリバーカヤックだな……あれでこちらへ上陸する気か……何者だ? 中学生くらいにしか見えんが」
 日本吸血者協会公認の暗殺者アサシンの一人だという。吸血者協会及び赤十字にとって望ましくない人物はこうして駆除されるらしい。
映画監督と結婚したバレリーナの……ほら、シャル・ウィ・ダンスの……ほら」
 珍しくど忘れしている世良彌堂。刀を背負った草刈民代くさかりたみよが若返った感じのきりりとした少女がパドルを繰ってこの島へ向かってくると言いたいようだ。
「妙だな……あの女、おれを睨んでいる……この距離で目が合うわけがないのだが……」
 湖に浮かぶ少女の目から木々の隙間を通して木漏れ日のように殺気が伝わってくるという。
「彼女、目はいいですよ。フィジカルもすごい。九十九里浜を自分の庭のようにして修業したといいますから。五歳から小刀で近所の犬猫を斬り始め、小学生時代は出会い系サイトで呼び寄せた変態どもを辻斬り、今では立派な趣味と実益を兼ねた殺し屋稼業です。面影が坂本君の永遠の許嫁いいなずけさな殿にちょっと似ているでしょう? ぼくを殺すに相応しい人ですよ」
「何だか知らないけど、その依頼ってキャンセルできないの?」チホは吉井に言った。
「無理です。一度引き受けた依頼は絶対です。すいません。もう助かりません。本当にすいません。この島にいる者は皆殺しです」笑顔で答える吉井。
 スマホを取り出し、110番通報しようとするチホ。
「もしや、千葉県警ですか? 通報すれば一応動くでしょうが、至極ゆっくりやって来るでしょうね。パトカーが着いた頃には、すべて終わっていますよ。ここだけの話ですが、県警も彼女のお得意さんなのです」
「何よ。他人事みたいに」
 そう言いながら、チホもどこか他人事みたいな気がしていた。理科斜架と蜘蛛網をもうこちら側へ連れ戻せないとわかった以上、自分もこちらにいようとあちらへ行こうと同じような気がしていた。
「お二人には悪いが、ぼくはとても満足です。これでやっと肩の荷が降ろせます。ぼくの明治維新、吸血者革命が完結です」
 吉井友実はサングラスをかけ直し、デッキチェアに寝そべってまたキリンの一番搾りを飲み始めた。曲はいつの間にか矢沢永吉やざわえいきち時間よ止まれ」に変わっていた。
「勝手に自己完結していろ! この、クソオヤジ」
 世良彌堂が怒鳴った。
「そうやって国産ビールを飲みながら司馬遼太郎しばりょうたろうの日本昔話でも読み耽ってろ!」
「彌堂君……」
 世良彌堂の小さな体が大股でチホの元から離れていく。
「どうするの? 逃げるの?」
「迎え撃つ!」


(1)1981年、著作権問題のため発売直後に廃盤となったLPレコード『タモリ3 戦後日本歌謡史』収録のドラマ「金玉先生」より。
(2)尾崎豊「存在」より。


28. 血戦ニザエモン島


「はい。潮里だけど。あ、チホ。どうしたの?」
「え、殺し屋? うん、わかった」
「あ、そこ、ダメだよ。だって、電気がない」
「電気だよ、電気! 電波とは違うの。電線が通ってないと行けないんだ、あたし。スマホの電池じゃ、これが精一杯なの」
「そう。そういうことだから。殺し屋はチホがやっつけて。うん、応援してる」
「うん、わかった。じゃあね。またね。早く帰って来て。じゃあね」


「彌堂君。今日は、カミカゼは吹かないって」
 青白い少女の画像が画面の奥へ吸い込まれるようにして消えた。チホはスマホを切ってポケットに入れた。
「大丈夫だ。銃と刀なら銃が勝つ」
「銃じゃないんだけど。ただのお弾きだよ」
 灌木の林を抜け二人は上陸地点まで戻ってきた。
 チホと世良彌堂は砂地に乗り上げたボートの横に並んで立っていた。
 暗殺者のカヌーはそこから三十メートルほど沖に浮いている。チホにも少女の顔がやっと見えた。
 さっきスマホで見たバレリーナに似た感じのポニーテールの少女が、カマキリのような目でじっとこちらを睨んでいた。
 湖面にはチホたちが渡った時にはなかった細波さざなみが立ち、水面を吹き渡る一陣の風にカヌーがちゃぽちゃぽと揺れていた。
 少女剣士はパドルで漕いで、風に押し戻された分を補い同じ距離を保っている。
「プロだな」と世良彌堂。
「飛び道具を警戒しているようだ」
 顔立ちは綺麗なのに表情が乏しい少女だ。
 チホはまたスマホを取り出し(千葉 殺し屋 中学生)で検索してみた。
 すると、沖の仏頂面と同じ顔の画像が出てきた。
週末アサシン 代々木松絵よよぎまつえちゃん」といってすでに18人も殺していた。
 土日だけ午後九時まで〝仕事〟をしている女の子で、名目は一応「映画撮影」となっているが、千葉から一歩でも外に出れば即逮捕されてしまう要注意危険人物のようだ。
 得意技は「袈裟斬けさぎり」。
「でも、まだ子供じゃない。話せばわかるんじゃないかな」
「おまえはプロフェッショナルというものを知らない」
 チホは沖に向かって呼びかけてみた。
 すいませーん。
 わたしたちー、関係ないのでー、吉井さんだけにしてくれませんかー?

 返事を待っていると、チホたちの手前の波打ち際に何か刺さった。見ると、棒状の手裏剣だった。
 チホは思わずあとずさりした。
「それが答だ。闘うしかない」
「マジで……」
「いいか。やつを島へ上陸させるわけにはいかない。やつが水の上にいる間がこちらの勝機。弾は十分にあるな?」
「釣りのオモリ、多めには買ったけど」
「よし。撃て。いや、待て」
 世良彌堂がチホの腕の中へ身を滑り込ませてきた。
「おれが照準になる」
「ちょっと……触んないでよ」
 中腰になった世良彌堂の細いうしろ首が、ちょうどチホの胸の間に収まっていた。柔らかい金髪がチホの顎の下をくすぐった。
「いいから、腕を貸せ」世良彌堂はチホの左手を〈万物を丸裸にする目セラミッド・アイ〉の高さに据えた。
「もっと力を抜け。よし。とりあえず一発撃ってみろ」
「撃つの? 撃てばいいの?」
 チホは深呼吸した。
 あの子は殺し屋で、自分を殺そうとしている。撃たなければ、殺される。
 このまま殺されてもいいような気もした。
 いや、ダメダメ。刀で斬られるのは痛い。痛いのは嫌だ。
 撃っていいんだ。撃っていい。
 チホは指あてを着けた右の人差指を親指に引っかけて、ナス型オモリ6号を弾いた。
 左手の上から鉛玉が消え、カヌーの左横数メートルの水面に、小魚が跳ねたようにぱしゃぱしゃぱしゃと飛沫が上がった。
 少女剣士は乱れた水面を一瞥して、またこちらを睨んだ。
「無理だよ。遠すぎる」
 チホは次の鉛玉をてのひらに載せながら言った。
「わかった。中指と薬指の間の溝で狙うのだな。よし」
 そう言うと、世良彌堂はチホの左手を下から掴んで小刻みに動かした。
「ここだ。撃ってみろ。今すぐ!」
 チホは言われるままに二弾目を弾いた。
 少女剣士がパドルを顔の前に立てた。
 こーん、と音がした。
 パドルの陰から少女の顔が半分だけ現れた。片目でこちらを睨んでいた。
「あんな化け物を陸へ上げるわけにはいかない。チホ、連続発射だ。是が非でもやつを沈める」
 世良彌堂に促されるまま、チホは左手に鉛玉を縦に三つ並べた。
 世良彌堂が叫ぶ。
 本日天気曇天ナレドモ波低シ。チ砲、斉射三連。撃テ!(1)
 一発目はカヌーの舳先をかすった。
 二発目はカヌーの上を越えて水面へ刺さった。
 三発目は、また、こーんとパドルで受けられた。
「急げ。次だ。撃て。どんどん撃て。おれが狙う。おまえは何も考えず撃ちまくれ」
 パドルを操り後退するカヌー目がけ、チホは指を弾きつづけた。
 そのうち一発がどこかに当たったらしく、沖のほうで(うっ……)という少女のカワイイ呻き声が響いた。
 今だ! 逃すな。撃て。撃て。撃て。
 
世良彌堂が吼える。
 チホも応えて撃ちまくった。
 少女剣士がバランスを崩した。
 カヌーが大きく揺れ、ひっくり返った。
 競技用カヌーは平らな船底を空へ向けていた。
「やった! やったの?」
「まだだ。気を抜くな。やつの頭が水面に現れたら、迷わずに撃て。それでけりがつく」
 ひっくり返ったカヌーの向こうに何か浮かび上がった。
 チホが弾くと、ボスッと当たった。
「うん? 救命胴衣か……」
 世良彌堂が舌打ちした。
 水面にはひっくり返ったカヌーと脱ぎ捨てられたオレンジ色のライフジャケットが浮かんでいる。
 二人は水面を見渡した。
 波間に少女剣士の頭が現れないか待った。
「撃て」
「え、どこ?」
「いいから、撃て」
 撃った。
 世良彌堂に預けた左手の先、五メートルくらいの水面に弾はズッと刺さった。
「そこ?……近くない?」
 水面が大きく盛り上がった。
 水飛沫の中から、何かが飛んで来た。
 回転しながら飛んで来たのは、ダブルブレイドのパドルだった。
 世良彌堂は屈み、チホは跳び退いた。
 パドルが二人の間を割るようにして、湖岸の砂地へ落ちた。
 その時にはもう、白いジャージ姿の少女剣士が浅瀬に生えた葦を掻き分け岸へ向かって猛ダッシュしていた。
 すでに白刃しらはを手にしている。
「チホ、逃げろ!」
 世良彌堂が叫んだ。
 チホは島の奥へ向かって走った。
 同じ方向へ走っていたと思った世良彌堂は岸に沿って逃げていた。
 それをびしょ濡れの少女剣士が追いかけている。
     脚は彼女のほうが早い。
「彌堂君、危ない!」
 少女剣士が振りかぶった太刀で背後から世良彌堂を袈裟切りにした。
 空に向かって片手を伸ばし、膝を突いて倒れ込む世良彌堂。
 更に斬りつけようとする少女剣士。
 チホは弾いた。ナス型オモリ6号は、キンッと太刀で受けられた。
 チホは間を詰めながらつづけて弾いた。キンッとまた受けられたが、三発目が肩に当たった。
 少女剣士は顔をしかめ、チホに刀を向けたままじりじりと後退する。
 チホは左手を少女剣士に向け、いつでも弾けるように右手を構えたまま、倒れた世良彌堂へ駆け寄った。
「彌堂君、大丈夫!? 彌堂君!」
「平気だ」
 歪んだ顔で見上げる世良彌堂。
 チホは悔やんだ。現実感に乏しい自分の対応がこの事態を招いてしまった。
「歩ける?」
「肩を貸せ」
 世良彌堂に抱きつかせたまま、チホは少女剣士から目を離さずにあとずさると灌木の陰に回り込んだ。
「やつはどこだ?」世良彌堂は仰向けになったまま言った。
「向こうの茂みに隠れている」
「襲ってこないか?」
「この距離なら、わたし一人でも当たる。今、一発当たったし」
「そうか。弾はまだあるか?」
「あと一袋」
「じゃあ、おれを置いて逃げろ。あのボートで逃げろ。忘れるな、右一漕ぎにつき左三漕ぎだぞ」
 何言ってるの? とチホが睨むと、世良彌堂はチホを見上げて首を横に振った。
「おれはもうダメだ。見ろ」
 世良彌堂は背中にあてていた手を抜いて見せた。
 てのひらがジェル状の物質でべっとりと濡れていた。先ほど吉井が見せたものと同じμ吸血線虫の粘液だ。
「この体も遠からず、イトマキの症状が始まるのだろう。おれに未来はない。おまえにはまだ時間がある。おれが食い止めている間に逃げるのだ」
「あの子はわたしがやっつけるよ」
「無理だ。向こうは子供でもプロのはしくれだ」
 世良彌堂はチホを説得した。
 二人ここに残れば共倒れになる。
 おまえは生き残っておれの女たちにおれの最期を伝えてくれ。そして、おれの葬式を上げてくれ。
 そうだな、三回忌も七回忌もいらない。一回限りの会費制立食パーティーでいい。できるだけライトなやつを頼む。
 おれのことをまだ信じている女たちに教えてやってくれ。あいつは最低の詐欺師野郎だったと。
 物分かりのいい女たちのことだ。後半はきっと、おれの悪口大会になる。みんなでおれをけなしまくって、それっきり忘れてほしい。
「彌堂君」
 チホの目から透明な液体が零れ落ちて、世良彌堂の陶器の肌に当たって弾けた。
「そうだ。ここへ来る途中、おまえの弾丸バレットになりそうな石を拾っていたのだ。これも使え。できるだけ撃ちまくって、その隙に逃げるのだ……」
 世良彌堂はパーカーの右ポケットから掴み出した小石をチホの手に落とした。
「これは死んだメグミンを除くすべての女のリストだ。うん? これは何だ? ……いつの間にこんなものが」
 左ポケットから抜き出したてのひらに、折り畳んだ女性たちのリストと小さな紙切れが載っていた。
「チホ、おまえのスマホを貸せ。今すぐ!」


(1)本日天気晴朗ナレドモ浪高シ



29. 4 1 1


 沼崎はスタンドアローン中のノートパソコンを開き、過去に書いた文章をチェックした。
 旧サイト〈ドはドンビド〉と現在執筆中の非公開ブログ〈白昼の生存者〉に目を通していった。
 予想した通り「裏日本大震災」に関する記述は一度も出てこない。
 震災のちょうど一年後に開設された旧サイトに、地震と津波に関する記述がないのだ。
 仮にもサバイバルを主題としたブログで、史上最悪の原発事故に触れないのも不自然すぎる。
 文章が改竄されているに違いない。
 沼崎は八つの7つ道具を収めたナップサックを背負い、アパートの外へ出た。
 大きな老人に尾行されていないか、びくびくしながら通りを歩いた。
 薄暗い路地から急に老婆が飛び出して来ないか気が気ではなかった。
 沼崎は商店街の外れにある区役所の分室へ入った。
 すでに利用時間はすぎており業務は終了していたが、部屋の隅にパソコンが一台置かれ、閉館時間までは自由に使えるのだった。
 パソコンの前に保育所の帰りらしい小さな子供を連れた二人の女性がいた。
 沼崎は女性たちのすぐうしろに立った。
 沼崎の頬は無精髭で汚れ、充血した目は瞬きを忘れていた。
 女性たちが子供を連れてそそくさと出て行った。
 パソコンで検索を開始する沼崎。
「2010.4.11」「裏日本大震災」「日本海大津波」「死者・行方不明者3万人」「5基爆発」「若狭湾永久封鎖」
 出てくるわ出てくるわ、三年前の震災と事故の情報はテキストも映像もとめどもなかった。
 自分の頭だけ操作しても、これでは意味がない。
 インターネットは広大すぎてツチノコ星人(仮)の実力をもってしてもコントロールは無理のようだ。
(都民沼崎……)
 声が聴こえたような気がして、沼崎は検索する手を止め、背後を振り返った。
 閉館まであと十五分足らずの分室の中には自分しかいない。
 ツチノコ星人(仮)に見つからないうちに早く調査を終わらせてしまおう。
 おそらく三年前の411は彼らの地球侵略と関係があるに違いない。
 あれは彼らが引き起こした人工地震の可能性もある。
 沼崎はGoogleにキーワードをどんどん打ち込んでいった。
 裏日本大震災……佐渡島西方沖を震源とする世界記録タイのマグニチュード9・5の大地震とそれにつづく日本海大津波で新潟から九州北部にかけて2万8千人を超える人命が失われ、約50万戸が全半壊、更に若狭湾に点在する原子力発電所のうち5基が爆発。
 四国と九州南部を除く西日本一帯が高濃度の放射能に汚染され、特に汚染が激しい山陰地方には広大な立ち入り制限区域が設けられ、出雲大社も鳥取砂丘も観光目的で訪れることは半永久的に不可能になってしまった。
 関東は雨に混じって若干の放射性物質が降っただけで大きな災難を逃れはしたが、一時的に自然放射線の倍近い値も出ていた。
 沼崎は佐渡島の被災状況を調べ始めた。
「裏日本大震災」の次に故郷の村の名前を打ち込み、クリックしようとした指が、沼崎の意に反して止まった。
 やめろ、と心の中で何者かが叫んでいた。
 これもツチノコ星人(仮)の催眠暗示の力なのか。
 それとも、別の理由で見ないほうがいいのだろうか。
 もしかすると、故郷は震災で壊滅して、この世から消えているのではないか。
 ここまで「佐渡島」という文字があまり出て来ないのがかえって異様な気がした。
 沼崎は強い抵抗を感じながらもEnterキーを押した。
 不思議なことに震源に最も近い佐渡島は、外海府そとかいふで崖が崩れ一部の集落が陸の孤島となるなどはあったが、地震による死者もなく津波の被害も免れていた。
 風向きがよかったのか、放射線量の値も低いらしい。
 これだけの災害が起きたにもかかわらず、故郷はほぼ無傷だった。
 そのことに沼崎はショックを受けた。
 沼崎は自分の反応に戸惑っていた。
 本来なら胸を撫で下ろすべき情報に何故か胸騒ぎしか感じないのだった。
 封印が解けた瞬間だった。
 封印された過去というやつはどこかが綻びるとその破れ目から次から次へと幾らでも湧いて出てくるようだ。(1)
 五年前のことである。
 突然、母親から電話が来た。
 十年は帰って来るな、と罵られてからちょうど十年目のことだった。
 伯父の具合が悪いという。
 過去のことは水に流すので一度見舞いに来い、と言われた。
 その時、自分はまた懲りもせずに別のプロジェクトに頭を突っ込んでいた。
 家族を、故郷を見返す計画を進めている最中だった。
 惨めな自分のまま、家族と再会し、伯父を見舞う屈辱は認められない。
 母親の願いを断った。再起を賭けたプロジェクトが頓挫して間もなく、故郷から黒い縁取りの葉書が来た。
 伯父の葬儀にも遂に帰らなかった。
 伯父の死からちょうど一年後、一周忌のその日に大震災は起きた。
 震災に紛れて実家へ帰り、家族と和解、被災した村人たちのケアにあたり、あわよくば過去を清算する。
 震災発生直後そんなことを夢想したのだ。
 やがて被害の全貌が明らかとなり、夢想はもろくも破れた。
 沼崎の目に、部屋の中に充満している大量の物資が、被災地に三年経った今も積み上げられている瓦礫の画像とダブって見えた。
 歪な形状と歪んだ名称のサバイバルガジェットが、ネットの扇動家によって喧伝されている汚染地帯の植物、昆虫、鳥類、魚類、そして子供たちのミュータント化現象の陰画に思えた。
 サイトとブログの数十万字に及ぶ虚言と妄言は、自己嫌悪と自己肯定が打ち消し合い膨れ上がった自尊心の産物だ。
 沼崎はパソコンのモニターの前で凍りついていた。
 分室の戸締りに来た警備員がその肩に手を置いて揺すぶっていた。
 分室を出て、商店街を歩き、〈にしはた荘〉へ帰る沼崎。 
 階段を上がり、鍵を差し込むと手応えがない。
 これは闇の組織の仕業ではない。
 自分がドアを開けたまま外へ飛び出しただけだった。
 闇の組織を望む自分がいるだけで、闇の組織も実はないのかもしれない。
 部屋に入り、沼崎はまた万年床に並べられたサバイバルガジェットの前に座り込んだ。
 沼崎はすべてを把握した。
 ツチノコ星人(仮)が実際にいようといるまいとこの件に彼らは関係ない。
    記憶を書き換えていたのは、3万人と50万戸と5基を生贄に、故郷との関係を修復しようとしたあの日の自分自身だったのだ。

(つづく)
 

(1)
「青春の残滓ざんしというやつはどこかがほころびるとその破れめから次から次へといくらでも湧いて出てくる。」
(筒井康隆の短編『鍵』より冒頭の一節)
 筒井作品の中では最恐の話だと思う。
 特に若い時に何かやらかした人は心して読むといい。



その8

その10


早稲田文学会が発行していたフリーペーパー「WB」
文芸誌「早稲田文学」(第10次)は、2007年から約15年間にわたって「文学」を活性化させる様々な試みを行ってきた。付録にDVDをつけたり、雑誌のサイズを何度も変更したり、このフリーペーパーの発行もその一環だ。10時間連続公開シンポジウムという無茶な企画もあった。私のような海のものとも山のものとも言えない書き手に場を与えたのも、ひとえに「文学」を活性化させるため少しでも異質なものを放り込みたかっただけかもしれない。評論家宇野常寛がいみじくも「文壇のキューバ」と呼んだ早稲田文学。芥川賞、世界デビューなど純文学作家のプロデュースにかけては目覚ましい成果もあったが、カストロ議長の教授解任、学内外の訴訟合戦、弟子たちの沈黙……その最後はまさにソビエト連邦の崩壊のようなすさまじさだった。これは早稲田文学に限った話ではなく、大げさに言えば近代文学の終わりに起きた出来事だったと思う。近代社会が終われば、近代的な文学も終わる。1891年(明治24年)創刊の日本で最も歴史の古い文芸誌で「崩壊」が起きたのは、まことに象徴的だった。個人と社会の葛藤。個人と家族の葛藤。世界の中で確立すべきアイデンティティをめぐる物語。文学が得意としてきた分野では今別のメディアが幅を利かせている。かつて時代の先端を走っていた文学は、時代から取り残され、ようやく変化に気がつき、やがて元居た場所へ戻っていく。神話。民話。説話。稗史。豊かな土地ではないかもしれないが、そこに文学の種は残っている。純文学、SF、ミステリー、ホラーをごちゃまぜにして、ハイテク中世へ向かっていくかに見える現代社会へ投げかけた本作の方向性は間違っていなかったはずだ。読者に伝わらなかったとすれば、それは筆者の才能の乏しさゆえのこと。【 第10次「早稲田文学」休刊のご報告】のメールを読みながらそんなことを考えていた。


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