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モルトモルテ Molto Morte 其の悟⑤


【主な登場人物】

チホ 千葉に住む女性吸血者。24歳。日本吸血者協会会員。世良彌堂せらみどうと二人で吸血者の奇病・イトマキ症の謎を追っている。

世良彌堂(せらみどう) 日英ハーフの吸血少年。12歳にしか見えない24歳。日本吸血者協会には所属していない「野良吸のらきゅう」。

理科斜架蜘蛛網(リカシャカ、クモアミ) チホと一緒に暮らしている双子の吸血姉妹。日本吸血者協会会員。見た目は10歳、実年齢は100歳以上。イトマキ症で繭になっている。

歌野潮里(うたのしおり) チホが住むマンションの隣の部屋に監禁されていた高校生。死後、浮遊霊となりチホと友達になる。電気があると立体映像化する。

沼崎六一郎(ぬまざきろくいちろう) 東京都杉並区でチホの実家が経営する風呂なしアパートに住むサバイバリスト。ブログで世界の危機を発信。47歳。

冴(サエ) 一時期、チホと暮らしていた女性吸血者。イトマキ症で闘病中。

枠林(わくばやし) チホのマンションの管理人。宇宙生命体・ヒトノエに寄生されている身長193センチの老人。

ドンビ SES(土食症候群)患者のこと。ゾンビのように動き回る。チホの父親も元気に闘病中。

霧輿龍次郎(きりこしりゅうじろう) 日本吸血者協会理事長。




10. 白糸お蚕様しらいとおかいこさま鬱血織り姫うっけつおりひめ


 チホと冴は五号棟と六号棟の間にある芝生のベンチに腰かけていた。
「冴に会ったら、これだけは訊こうと思っていた。何で何も言わずに消えたの?」
「シニハタ……あんた、やっぱ容赦ないわ」
 冴は得意の呆れ顔で言った。
「病人にいきなり核心突くとか」
 芝生に一か所だけタンポポが咲いていた。モンシロチョウやその他の蝶がそこを目指して飛んでくる。
「昔話とかする気はないの?」
 冴は縋るような目でチホを見た。
「ないよ」
 チホは視線を外して海のほうを見た。海は六号棟の屋根の上に薄く見えるだけだった。
「昔話ったって、わたしたち一年も一緒に住んでないもんね、考えたら」
「そうだよ。で、何で消えたの?」
「じゃあさ、世間話」
 冴はチホの耳に口を寄せ、声を殺して言った。
「大きな声じゃ言えないけど、ここさ……建てる時……出たんだって」
「何が出たって?」
 思わせぶりな口調が鬱陶しい。チホはぶっきらぼうに訊き返した。
「鎧や甲、あと……シャレコウベ」
「何だ、そんなものか。で、消えた理由は?」
「シニハタには、さ。やっぱ、見えちゃってるわけ?」
「何が? いや、わかるけど。ここにはいない。電車の中には結構……」
「いたの? 江ノ電に?」
「生きてる人と死んでる人が半々くらい。でも、鎧の人はいなかった。今風の服着てちゃんと周りに溶け込んでいた。鎌倉の霊はさすが洗練されてる感じ、って話そらすな」
 冴は一頻り笑うと、黙り込んでしまった。
 問い詰めても無駄だと思い、チホも黙って海を見ていた。
 線のようにか細い海もよく見れば奥行きがあった。
 あれでも一応太平洋だ。
「あの双子が怖かった」
 冴は冴はチホのほうは見ずに言った。彼女もじっと海を見詰めていた。
「理科斜架さんと蜘蛛網さんが?」
「怖かったよ。全部お見通しって感じで」
「わたし知ってた。冴が実年齢と違うって。嘘ついてるって。別に気にする嘘じゃないよ」
 最初は理科斜架と蜘蛛網をペアレンツに、チホと冴はチルドレンになって四人で暮らす計画だった。
 しかし、顔合わせの次の日に冴は消えた。電話にも出なかった。事故にあったのかと思い、チホは心配した。
 吸血者協会に問い合わせると、驚いたことに冴はすでにチホとの「フレンズ」解消手続を終えていた。
「一言あってもよかったんじゃない」チホは冴のほうを向いた。
「その一言がわたしを壊す」冴もチホを見た。
「シニハタには悪かったけど、ああするしかなかった」
 チホは見詰め合う冴の険しい表情に言葉を失った。今まで見たことがない顔。これはチホが知らない彼女だ。
「わたしは時間から逃げていた。時間にとっ捕まらないことだけ考えてきた。だから、止まった時間の上にでんと座っている人を見ると、不安になる」
「だったら、なおさら言ってほしかった。ファミリーはやめにして、あのまま二人で住んでもよかった」
「ダメだよ。シニハタ、あの双子が気に入っていた。双子もシニハタと暮らしたがっていた。これからのことを考れば、嘘つきのわたしより正直な双子のほうがシニハタのためになる。わたしが一抜けるしかなかった」
 冴は険しいままの顔をチホから海へ反した。
「時間がどうとかって、そんなに大切なこと?」
「時間は本質的だよ。吸血者の人生とは畢竟ひっきょう、時間とどうつき合うか、に尽きる。あの双子は時間と向き合っていた。踏み止まって時間と闘っていた。何十年も。それだけ自分たちに自信があるんだ。わたしは時間から逃げた。逃げ足が速かったからね。立ち止まったら、一瞬で古ぼけてしまう。逃げるしかない。逃げ切れなかったけど」
「話してくれたらよかったのに」
 チホは冴の横顔を見詰めた。病人にあるまじきふっくらとした美肌だ。テラスで見た少年と同様の若返りの症状に思えた。
「話すことなんかできない。誰にも話したことがない。これについてだけは言わないのがわたしの生きる条件だったから。言ったらわたしが壊れる。時間の歯車に押し潰されてしまう」
「壊れてないよ。壊れてないじゃん」
 冴がチホを見た。今度は目一杯やさしい目だった。
「わたし、幾つに見える?」
「言っていいの? 昭和生まれだよね。妙に昔のこと詳しいし、変に難しい言葉が混じるし、ギャグもときどきわからなくてオリジナルすぎる。うちのお母さんより余裕で上かも。昭和の……きっと戦争の前だよね」
 冴が笑った。
「そうか。うまくやってきたつもりだったけどバレバレだったか。でも、昭和は嬉しいな」
「えっ、ええとその前は、大正だっけ? 大正なの?」
「慶応三年」冴は自慢げな笑みを浮かべている。
「そうよ、わたしは慶応の女」
「慶応? 学生だったの?」
 冴はそばまで飛んできた蝶に導かれるままにまた海のほうへ視線を移した。
瓦解の年なの。たぶん理科斜架さんたちと変わらないと思う。それだけに、突きつけられちゃうのよ。どこまで逃げるつもりなのよってね」
 昭和も大正も明治も、冴は全部生きてきた。
 時代時代の女の子をやってきた。
 ホップステップ、ジャンプはなくて、またホップステップ、水切りみたいに時間の頂を跳ねて、時間の底へ沈まないように生きたのだという。
女工からスタートして、モガもカフェーの女給もレナウン娘もお立ち台も、あといろいろ変わりすぎて忘れちゃったけど、終わりそうになったらまた別のに飛びついて、今日までやってきた」
「ジョコウ? 昔の慶応の女子高? それって、すごいんじゃないの?」
「わたしにとって血とファッションは同じもの」
 冴は構わずつづけた。
「血が常に新鮮であるように、身に着ける服も時代を吹く風じゃないといけない。流行は血行なの。止まったらそこで終わり。あとは、古ぼけるだけ。そんな精神で八十年間、洋品店の住み込み、百貨店の売り子、ハウスマヌカン、ショップ店員をやってきた。時代の女の子たちに服を勧めて、自分も時代の服を着てきた。でも、今思えばカッコ悪い生き方だった。どれもこれも表面をなぞっただけで、結局自分のスタイルを見つけられなかった。一つのスタイルを極めるのが怖かった。変化しない自分をあるがままに認めるのが無理だった」
「わからないな。わたしはそこまで服とか文化とかと、自分を結びつけられない」
「それはまだ時間が動いている人の感覚」
 冴は諭すように言った。
「時間が止まったら服は皮膚になるんだよ。ヘアースタイルと服の新陳代謝で時間を出し抜かないと、たちまち追い越されて皺だらけのお婆さん……この感じ、わからないよね」
「だって服は服、文化は文化、自分は自分でしょう? 替えたい気分になったら替える。それでよくない?」
「この平成生まれめ。シニハタはおきゃんでシックな簡単服で一生すごせそうだよ」
「簡単服……ユニクロみたいな?」
「そうしておこう。たぶん違うけど」
 チホと冴は見詰め合って笑った。
 不意に冴が咳き込んだ。
 チホから顔を背けた冴の口から白い糸が勢いよく飛び出した。
 チホは冴の背中を擦ろうと左手を伸ばした。
 冴が拒んだ。
 冴は断続的に口から糸を溢れ出しながら、薄いグリーンの病院服のポケットを探って、携帯用の吸引器を取り出した。テラスで少年が使っていたものと同じだ。
 吸引口を口に当ててスイッチを押すと、冴が紡いだ糸がす
るすると吸い込まれていった。
「看護師さん、呼んでこようか?」
「平気。汚いから、ちょっと離れていて」
「別に大丈夫だよ。感染らないし」
 理科斜架や蜘蛛網と同じ症状だった。
 イトマキ症が伝染病なのかどうか、確かな答えはない。チホは双子からさんざん糸を吹きつけられ、その繭と一緒に暮らして、まだ平気なのだから今さらという感じだ。
「本当に嫌になる。自分が糸を吹くなんて」
 発作が治まった。冴は器具を口から外した。
「今まで着捨ててきた服の呪いかと思った。流行を追いつづけて、たどり着いたのが、この服だよ。まあこれも、最先端の吸血者ファッションと言えなくもないけど」
「似合ってるよ、冴。病院のパンフレットのモデルより似合ってる。皮肉じゃなくて」
「わたしも、繭になっちゃおうかな。中途半端はもう嫌。この状態で永遠なんて耐えられない」
「治るよ。冴も理科斜架さんも蜘蛛網さんも」
 冴はベンチから立ち上がった。
「治りませんわ、きっと治りませんわ」
「冴……」
 何か始まった。
 今度は何? チホはびくびくしながら冴を見守る。
「あああ、吸血者はなぜ生きるのでしょう! 死にたいわ! 一日も一刻も早く死にたいわ! 生きるなら二人で! ね、シニハタ!」(1)
 チホを見下ろす冴。その目は笑っていた。
 ライフ・イズ・ブラッディーノーフューチャー。
「劇団冴。そういうのが全然わからない。いつのギャグ? 吸血者ジョークってやつですか?」
 チャイムが鳴った。
「面会時間は終わり。わたし、病棟に戻るね。西機千穂さん、会えてよかった」
「シニハタでいいよ。また来るね」
「もう来ないで」冴は目を伏せた。
「え」
「治ったら、会おう。買い物行こうよ。行ったことないでしょう? わたしたち」
 冴は満面の笑みを浮かべて言った。
「シニハタらしいコーディネイト考えてあげる。ユニクロで」
「わかった。何でユニクロなの?」
 別れ際、冴はチホの目を見て手を差し出した。チホはその手を握った。思わず握り潰してしまいそうだった。
「そう言えば、冴って体のどこが強いんだっけ?」
「秘密。今度会うまで考えておいて」悪戯っぽく笑った。
 冴の手は意外と暖かだった。
 よく考えたら握手するのも初めてだ。
「何年たってても会おうよ。百年後でも会おう」
 チホは病棟へ帰る冴に手を振った。
「ユニクロ、まだあるといいね」
 冴も笑顔で手を振って返した。
「だから、何でユニクロなの?」


***


 世良彌堂の調査によれば、注射針やアンプルの空瓶など、鎌倉のイトマキ症専門病院の医療廃棄物は、一番下の八号棟に集められ、業者が裏口から車に詰め込み持ち去って行った。
 不思議な点は、その中に「糸」が含まれていないことだ。患者が吐き出した糸や繭はすべて回収され別の場所に保管されていた。
 温度と湿度が一定に保たれた特別の部屋だ。
「あんなもの、脱脂綿や何かと一緒にゴミ箱に捨てればいいのに……おかしいとは思わないか?」世良彌堂は言った。
「研究のためじゃないの。病原菌を調べたり」チホは答えた。
「いや、それなら、サンプルとして患者ごとにきちんと密閉容器に保管するはずだ。それが、一緒くたにされているということは……」
「あとでまとめて捨てるんでしょう」
「おまえには想像力というものがないな」
 聖蹟ヶ丘、つつじヶ丘、上水、めじろ台……花が咲き、鳥が歌う京王電鉄にも多摩霊園がある。鎌倉からの帰り、チホは湘南新宿ラインで新宿まで上り、京王線に乗り換えた。
 チホは桜がつく駅で降りた。
「おかしいとは思わないのか?」拘る世良彌堂。
「おかしいよ」チホは立ち止まり、世良彌堂のほうへ向き直った。
「そうだろう」頷く世良彌堂。
「あんた、何でついてくるの?」
「うん? おれのことは気にするな」
「家までついてくる気?」
「一つ庶民の生活というものを見ておこうと思ってな」
 ウェービーな金髪を掻き上げキャスケットを被り直す世良彌堂。
 せっかく東京の西まで来たので、チホは実家へ立ち寄ることにした。実家まで行くのは二年ぶりか三年ぶり。外では家族と会っていた。前回は、父を見舞いに駒込の病院でだった。
「あれか?」
 首都高の下を潜ってスーパーの前に差しかかった時、世良彌堂が呟いた。
「あの西機工務店という看板がおまえの家なのか?」
「看板? 看板なんかないでしょう」
「家の前にあるだろう」
 確かに、この坂を真っすぐ下りて行けばチホの実家なのだが、まだ五、六百メートルも先だった。
「見えるの? ここから?」
「ああ、錆びた釘の頭までな」
「そうか。彌堂君て、目なんだ」
 チホは合点が行った。世良彌堂は鎌倉の病院を調べると言っておきながら、施設内を歩き回ったわけではなかった。ずっとテラスにいたというのだ。あそこから人や物の動きを観察して、あとは洞察を巡らせていたという。
「おまえはあの病人と長々と見つめ合っていたな。そういう趣味なのか?」
「はあ?」
「ずいぶんと艶めかしかったぞ。愛の形は様々だ。隠すことはない」遠くを見るような目をしてうそぶく世良彌堂。
「あんた、馬鹿じゃないの。ただの友情だよ」
「友情。愛情と薄情の間にある便利な言葉だ」
「あんた、友だちいなさそう」
「ふん。財と高貴だけが友だちさ」(2)
 父の仕事場だった土間の入口には板が打ちつけられ、出入りできなくなっていた。
 チホは家の玄関の引戸を開けた。
「お母さん。いる?」
 チホはまだ三和土たたきに突っ立っている世良彌堂に言った。
「ちゃんと、靴脱ぐのよ」
「ふん。これが庶民の暮らしか……」
「お、お母さん!」
「どうした?」
 居間のちゃぶ台に母親が倒れていた。チホは駆け寄った。
「お母さん、お母さん」チホは母親を抱き起こした。
「チホ。お父さんは?」母親は目を閉じたままぼんやりとした調子で言った。
「お母さん、しっかりして」
「お父さんは、あれよね。ほら、あそこに。あら?」目を覚ました母親は、不思議そうにチホを見上げている。
「お母さん……」母親は寝ぼけていた。ただのうたた寝らしい。
「ごめんなさい。あなたが来るって電話があったから、お買い物に行こうと思っていたけど、やめにして待ってたのよ。そうしたら、寝ちゃったみたい。本当、ごめんなさい。あら? そちらの、……は?」
 母親はチホのうしろに隠れるようにして立っている世良彌堂にやっと気づいた。
「この子、協会から預っている外国の子供。ベビーシッターのバイトなの」
「ベッ……」世良彌堂がチホを睨む。
「もうベビーじゃないわよ。ねえ?」
 母親が腰を曲げて世良彌堂の顔を覗き込む。
「日本語まったくわからないから、話しかけても無駄よ」
 チホは世良彌堂の視線をかわした。
「男の子よね。それにしても、まあ、可愛い子だこと。あらあら、髪の毛が……ちょっと帽子脱いでくれる? まあ、本当に金色でくりんくりんだ。睫毛も、まあ、長くて金色」
 チホの母親に頻りに微笑みかけられ、首を傾げながらぎこちなく微笑み返す世良彌堂。それでいい、とチホは頷いた。
「で、お父さんは? どこ?」チホは母親に尋ねた。
「お父さんは、庭よ」
 チホは母親に促されるまま、奥の部屋へ向かった。世良彌堂はうしろからちょこちょこついてきた。
 すでに棟つづきの〈にしはた荘〉の内部に入ってしまっているのだが、一階部分は壁がぶち抜かれており、ここもまだ西機家なのだった。母親が中庭に面した磨りガラスの引戸を開けた。
「おい……」世良彌堂が小さく呟いた。「盆踊りにはまだ早すぎるぞ」
 チホも目を疑った。
 鉄塔の下で、一、二、三……五人がゆっくりと動いていたからだ。
「こいつは傑作だ」世良彌堂が鼻で笑う。「庶民どもがポーレチケのリズムに弾んでやがる」
 五人はそれぞれ動作は違うがスピードは同じくらい。確かに前衛的な舞踏のようにも見える。
「シッ」
 チホは母親には見えないようにして、世良彌堂を左肘で突いた。
「今度何か言ったら、で行くから」
「右だと……何のことだ?」
「あの人、篠さんだよね?」
 世良彌堂は無視して、チホは母親のほうを向いて訊いた。
 チホは空をじっと見上げている額の広い頭の毛がぽやぽやした男を指さした。
 近所の人で駅前商店街にある「シノ理容室」の店主だ。
「篠さんは、ね。本当、最近なのよ。急に来たみたいで」
 頬に手をあて溜め息をつく母親。
「みんな、ドン……SASなの?」
「SES。そう。ドンビなのよ。困ったわね。こんなに増えちゃって」と母親。
 発病した人は、一先ずここに収容しようと、町内会の臨時総会で決まったのだという。
「土も、ほら、まとめて購入したほうが安上がりだし。交代制でお世話もできるし、わたしもこれが一番いいと思うのよ」母親はつづけた。
「病院がね、もうちょっときちんと対応してくれたらいいんだけど、ほら、ドンビだと追い出されちゃうでしょう。仕方ないのよ。病院じゃ治らない病気だから。あなたの時もそうだったじゃない。お医者さんも病院も肝腎な病気には本当に無力で。ねえ?」
 ちょっと、びっくりしちゃった? と世良彌堂の顔を覗き込む母親。顔を顰めて小さく舌打ちしていた世良彌堂が慌てて表情を緩めた。
「あれ? お父さんは?」父親の姿が見えない。チホは肝腎なところに気づいた。
「お父さんはね、最近、調子がいいのよ」と、土間のほうを指さす母親。
 チホは窓から首を伸ばし、父の仕事場に目を凝らした。戸が開け放たれた土間の奥に座り込んでいる人影があった。
「お父さん、何やってるの?」チホは呼びかけた。「お父さん!」
「お父さん!」母親も声を合わせた。「ほら、チホですよ」
 呼びかけに父親が反応を示した。
 父親の顔は確かにこちらを向いているのだが、目は床を見ている。床には板切れが転がっていた。父親は作業中のようだ。
「お父さん、それ何? 何作ってるの?」チホはまた呼びかけた。
 父親は顔をこちらへ向けたまま、板切れに紙やすりをかけ始めた。三人はしばらくの間その作業を見守っていた。
「四、五日前だったの。動きがいつもと違って、何か探しているようだったから、危なくなさそうな道具を置いてみたの。そうしたら、急に作業が始まって……きっと記憶が戻ってきているのよ。いい土があってね、あれが効いたと思うのよ」
 母親はちょっと待っててね、と居間のほうへ戻って行った。
「庶民がこんなことになっていたとはな」
 腕組みをして中庭の人々を眺めていた世良彌堂がチホを見上げた。
「ふん。人間もあとがないな」
「ないかもね」チホも世良彌堂を見下ろした。
「おまえ薄情だな。あれ、実の父親だろう?」
「いずれこうなることはわかっていた。それが少し早く来ただけ」チホはまた窓の外へ視線を移した。
「どう生きようと周りの人間はどんどん消えていく。最後に残るのは自分。吸血者の宿命だよ。吸血者じゃなかったとしても、父よりは長生きすると思うけど」
「ふん。庶民にしては達観だ」世良彌堂は一瞬にやりと笑ったが、すぐに真顔に戻った。
 イトマキ症の出現はこうした吸血者特有の人生観に変更を迫るかもしれない。
 理科斜架と蜘蛛網がずっと繭のままで治らなかったら? 冴だってこのまま病状が進めば繭になってしまうだろう。
 チホ自身もいつ罹るかわからない。人としてただこの世に生きる永遠だって持て余すことは、理科斜架、蜘蛛網、冴を見ればわかる。
 繭の中の永遠なんて、想像もつかなかった。
 ライフ・イズ・ブラッディーノーフューチャー。
「うん? ライフ・イズ・ショートだろう?」(3)
 チホと世良彌堂は鉄塔の下で蠢く人々をじっと見詰めていた。
「ほら」母親が戻ってきた。「この土ね、牡蠣カキの貝殻の粉を混ぜてあるのよ」
「牡蠣?」母親にボールに入った黄土色の物質を渡され、チホはわれに返った。
「テレビで見たのよ。ホタテの貝殻の粉でね、野菜の残留農薬が落ちるの。わたし、ピンと来て、ちょうど牡蠣の貝殻があったから試してみたの。硬い貝殻を、こう細かく擂り潰してね。ドンビにも効くみたい。お母さんの大発見!」
 嬉しそうに笑う母親に、チホと世良彌堂も釣られて笑うのだった。


(1)
「なおりますわ、きっとなおりますわ、────あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」

 徳富蘆花とくとみろかの小説、『不如帰ほととぎす』(明治31年「国民新聞」にて連載開始)より。不治の病、結核に罹ったヒロイン浪子なみこが夫武男たけおに言った台詞。

(2)
 愛と勇気だけがともだちさ
(「アンパンマンのマーチ」より)
「あの人はアンパンマンこそが真のヒーローだとよく言っていました。アンパンマンには仲間はたくさんいるのに友だちがいません。真のヒーローは重荷になる人間関係は持たないんだそうです。あの人はアンパンから生まれた宿命を背負って闘うアンパンマンに、吸血鬼として生きる自分を投影していたのかもしれません。アンパンマンがいつも同じ表情でファンの子供たちにヒーローの孤独を見せないところもとても尊敬していました」
(世良彌堂の24番目の彼女アンジェラさんの話)

(3)
 ライフ・イズ・ショート

(『吸血キラー 聖少女バフィー』原題:Buffy the Vampire Slayer より)
 主人公バフィーの台詞より。第7シーズンまでつづいたアメリカのテレビドラマ。日本吸血者協会が製作に参加した作品の中では空前のヒット作。


11. ドはドンビのド


 沼崎は大きなリュックを担いで〈にしはた荘〉へ帰ってきた。
 リュックの中味は洗濯物の山だった。
 住宅街の外れにあるコインランドリーに行ってきたのだ。
 そこはアパートから片道八分かかり、現在の沼崎の行動範囲の中では最も遠い場所にあった。
アパートの二階ヘ上がる鉄の階段の手前で、さっと振り向く沼崎。
 外出すると随時こうして尾行されていないか確認していた。階段を上がって、〈203〉のドアの前に立った。
 ドアの下のほうに細く切った紙テープが張ってある。
 封印は千切れずにそのまま残っていた。
 闇の組織(1)に動きはないようだ。
 沼崎は封印を剥がした。
 鍵を差し込みドアを開けようとして、ふと空を見上げた。
 今この瞬間、軍事衛星から監視されているかもしれない。
 厳しい表情で空を睨んでいると、下の通りを西機家の娘が歩いてくる。
 沼崎は急いで部屋の中へ入った。
 沼崎は半開きのドアに隠れて観察した。
 娘を見るのは何年ぶりだろうか。
 しかし、今彼の目を釘付けにしているのは娘ではない。
 隣を歩いている外国人の少年のほうだった。
 沼崎はドアの隙間からじっとその少年を目で追った。
 大きめの帽子からはみ出した金髪が眩しかった。
 恐ろしく整った容姿だが、眼差しはどこか硬質で冷たかった。
 小さな恋のメロディーオーメン2・ダミアンの同時上映のような少年だ。(2)
 アパートの真下を通り抜け、駅のほうへ歩いていく二人。
 沼崎がドアの陰から首を伸ばしてその後ろ姿を見守っていると、突然少年が振り向いた。
 沼崎は慌てて首を引っ込めた。
 少年は誰かに向かって手を振っている。
(えっ……おれ?)
 ドキッとして、思わず手を上げかける沼崎。
 そんなわけはなかった。
 西機夫人が通りに出て見送っていた。
 どうも少年は娘と一緒に西機家に遊びに来ていたようだ。
 急いで洗濯物が入ったリュックを下ろし、代わりにナップサックを背負って沼崎は外へ出た。
 ナップサックにはサバイバル7つ道具が入っていた。


(1)
 フリーメーソン、イルミナティ、スカル&ボーンズ、アシュケナージ・ユダヤ人など、地球の陰の支配層と疑われている組織は幾つもあるが、沼崎が闘っている相手は西アフリカが発祥の地である秘密結社「カムサミ・ワッカ」。
 角川書店発行「野性時代」1985年3月号に掲載された経済人類学者・栗本慎一郎の小説『反少女』に登場する架空の組織だが、小説発表後の栗本の行動は注目に値する。
 大物政治家・小沢一郎への接近、小沢の新生党推薦で政界進出、小沢と袂を分かち自民党へ、総裁候補・小泉純一郎の側近となるが、田中真紀子*と共に通信傍受法に反対、自民党除名、突然脳梗塞を患い政界を引退……栗本は自ら囮となって組織の存在を確かめていたのではないか?
 おそらく日本政界における組織のエージェントと接触したが、危険を察知した組織に排除されてしまったのだ。
 故に栗本の小説『反少女』はフィクションではなく〝事実〟に違いない。
 沼崎がその仮説を自分のサイトに載せたところ、接続が切れるなどパソコンのトラブルが続出。アパートの前に置いてあった自転車も盗まれてしまった。
 沼崎はこれを組織からの警告と受け取った。

*【田中真紀子】
 
小説『反少女』の中で田中真紀子の父について「田中角栄という人物は組織員ではなかったが途中まで上手く利害関係を調整して自分の力も伸ばした。(中略)しかし、最後は完全コントロールを狙う組織の仕掛けによって追い落とされた」とある。
 田中真紀子は後に自民党総裁選で組織が推す小泉純一郎を支持。小泉政権で外務大臣の座を手にするが、最後は父角栄と同じように組織によって追い落とされてしまった、とは沼崎の見解である。

(2)
 沼崎がもし、ルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』を見ていたら、あれだ!と言ったに違いない。
 また、山岸凉子やまぎしりょうこのマンガ『狐女こじょ』を読めば、これだ!と言っただろう。
 世良彌堂は今風のマイルドなタイプではなく、シャープで陰のある一時代前の美少年だった。


12. 鬱血織り姫と血色悪い王子


 チホは母親と金の話をした。
 父親がああなってしまい、実家の収入が心配だったのだ。
 と言っても自分が出せる額は知れている。
「蓄えが多少あるし、家賃収入も毎月入るからね。高い医療費を払っているわけでもないし、心配しなくて大丈夫よ」と母親。
「家賃収入って……誰か住んでいるの?」
 お金に困っているなら、この際〈にしはた荘〉を売ってしまう手もある。協会を通せば相場より高く買ってくれるだろう。オンボロ風呂なしアパートにまだ住人がいるとは思わなかった。
「二階に一人だけだけど」
「中国人? 何さん? ホンさんだっけ? ワンさんもいたよね」
「沼崎さんよ」
「あいつ、まだいるの!? だって、もう二十年以上いるじゃない」
 ちょっと、声が大きいわよ、と母親が天井を指さした。
 沼崎はチホが幼稚園に通っていた頃から住んでいる超古顔だ。
 何をして暮らしているのかよくわからない人で、ジーパンで数か月通勤したかと思うと急に部屋から出て来なくなり、次に見た時はスーツを着て通勤していた。
 それも数か月で終わるとまた部屋に引きこもった。
 今になって思えば非正規の仕事をしていたのだと推測できるが当時は謎だった。
 新聞の拡張員やNHKの集金人と口喧嘩したり、盛りのついた野良猫を手製の鞭で追い払ったり、ゴミ出しで近所の人とトラブルになったり、沼崎についてチホには碌な記憶がなかった。
 目が合って挨拶しても五回に四回は無視された。
「こいつ、今何やってるの?」チホは天井を指さして言った。
「チホ。やめなさい」母親は眉を顰めた。
「あの人は入居以来一度も家賃を滞納していないのよ。こっちは助かってるんだから」
 沼崎に好意的な母親にチホは釈然としないものを感じた。あんな人がずっと健康に生きていて、理科斜架や蜘蛛網、冴、父親が病に倒れるのは納得いかない気がした。
「あなたのほうはどうなのよ? リカちゃんとクモちゃん、調子悪いんでしょう?」逆に訊かれてしまった。
「うん。まあ、何とかね。今日もその件で行って来たんだけど……」(1)
 家の中を見回っていた世良彌堂が居間へ戻ってきた。庶民の暮らしを堪能したようだ。
「また来るね。何かあったら知らせて」
 チホと世良彌堂は家をあとにした。
 世良彌堂は往来で手を振る母親にさも嬉しそうに手を振り返した。
「おまえの母は、いい女だ」
 駅へ向かって歩きながら世良彌堂が言った。
「あの尻は金を生む尻だ。かなりくたびれてはいるが、おれが鍛え直せばまだ十分に……痛い! やめろ。やめてくれ」
 チホは世良彌堂の耳から左手を離した。
「今度言ったら、右手で、抓るつねからね」
 チホは拳を握って見せた。
「右の握力ね、450キロなの」
「数値がおかしい」抓られた耳を押さえる世良彌堂。「45キロの間違いだろう?」
「450キログラム。協会で測ったのは中三の時だから、今は600キロくらい?」
「ほう。なるほど。おまえはシオマネキなのだな。用心しよう」
 狭い商店街を並んで歩く世良彌堂の手には、チホの母親から持たされた袋詰めの菓子がぶら下がっていた。
「しかし、おまえの母は少しおかしくなりかけているな。台所がマッドサイエンティストの実験室みたいだったぞ」
 テーブル一面に白い小皿が並べられ、白や青や赤い何かの粉末が入っていた。コンロには異臭のする黒い物質を煮詰めた鍋が置かれ、棚には植物の根を漬け込んだ瓶詰がずらっと並んでいたという。これで料理研究家でも日本画家でもないとすると、答は限られてくる。
「あんた、そんなところまで覗いたの。失礼なやつ」
 チホも気づいていた。実家の台所はアコーディオンカーテンで隠されていたが、部屋の中には漢方薬の匂いが残っていた。覚えのある匂いだった。
「別に見たくて見たわけじゃない。紙一枚ほどの隙間から見えたのだ」
 世良彌堂はキャスケットのつばを人差し指で押し上げた。夕暮れの商店街、江戸前寿司の店先で青い目が妖しい光を放った。
「おれの〈万物を丸裸にする目セラミッド・アイ〉は、五キロ先の剣道着の下のB・W・Hを正確に言い当てる」
「何でもいいよ、もう」
 チホは小学五年の時、保健室の先生に「あなたは吸血者です」と告げられた。チホの体が弱いのは血を飲まないせいなのだと。
 日本養護教諭連絡協議会は日本吸血者協会の下部組織の一つ。吸血者を早期に発見し入会させるため、日本吸血者協会は、全国の小中学校の保健室を押さえているのだった。
 吸血者と判明したチホは、母親に手を引かれて、いろいろな病院を連れ回された。母は「血の病気」を治療しようとした。
 医療機関が役立たずで、効果的な民間療法もないとわかると、今度は母親自ら調合した薬を飲まされた。
 ハーブのうちはまだよかった。効かないとわかると、本格的に生薬による人体実験が始まった。絵筆を洗った水のような酷い色の、苦く渋い薬湯の入ったハローキティのマグカップを手に、お面のように固まった笑顔で追いかけてくる鬼女から小さなチホは逃げ回った。人生で一番怖い鬼ごっこだった。
 チホは協会に助けを求め、協会は母親にカウンセリングを行った。協会の勧めに従い、チホは高校卒業と同時に家を出て、吸血者のコミュニティーで生きることに決めた。
「ピアノ、英語、硬式テニス」
「何の暗号だ?」
「西機家、理想の娘の習い事」
 チホが触れたピアノは調律師が首を傾げるほど音が狂った。弾きつづけるとすぐに壊れた。鍵盤が沈んだままになってしまうのだ。
 テニスのラケットは一打でガットが切れた。打ったボールはコートの駐車場の向こうのビルの上を越えて消えた。手からすっぽ抜けたラケットも回転しながら家々の屋根を越えていった。
「テニスの先生に言われた。陸上に行ったほうがいいって。砲丸投げとか、円盤投げとか」
「まあ、そっちなら逸材だろうな」
「うちの家さ、ドアがないでしょう? 全部、引戸とアコーディオンカーテン。何でか、わかる?」
「想像はつくさ。おまえが壊したのだろう」
「ドアノブってもろいよね。今まで何個もぎ取っただろう。ドアは左手で開けるように言われていたけど、急いでいるとさ、そうもいかないよね」
 チホは無言でドアを引戸につけ替えていた父親を思い出した。お父さん、ごめんなさい、と小さな声で広い背中に向かって言ったが、父親はやはり無言のまま黙々と家中を引戸に替えていった。
 中学に入ってからは、右手に包帯を巻いた。高校二年まで、箸もメールも握手も左手。おかげで左手はずいぶん器用になった。
 右手を自在に制御できるようになるのは、理科斜架と蜘蛛網に出会ってからだ。それまではびくびくしながら世界に触れてきた。
「うちのお父さんにはね、夢があったみたい」
「夢?」
「わたしのピアノを聞きながら仕事をすること」
「哀しいほど、ささやかだな。庶民だから仕方がない」
「お父さんの理想は、わたしには難しかった。血を飲むとやたら元気になる自慢の娘って、開き直ってくれるとよかったんだけど。英語教室は、単に英語が嫌いだったからサボったんだけどね」
「それは正しい判断だ。YMCAで英語が話せるようになった者はいない。おれが知る限り、ECCジュニアでも結果は同じだ」
「まさかだけど、彌堂君て、英語……できるよね?」
 世良彌堂が下を向いている。チホの耳にかすかに舌打ちする音が届いた。
「これで、わたしのことはだいたいわかったね。次は、彌堂君の番だよ。あんたは何者? ただの詐欺師? イトマキ症が怖いから、調べているの? それだけ? お父さんやお母さんは?」
「いい質問だ。だが、その前に……」
 世良彌堂はパチンコ店の前の電信柱の陰に回り込むと、チホに告げた。
「今からおれの言う通りにするんだ」


(1)
「吸血者ではない人が、吸血社会について理解することはかなり難しいことです。たとえ実の親や子供、友人であっても、吸血者以外の人と吸血社会の話をすることはできるだけ避けることが賢明です」
日本吸血者協会発行『救血ハンドブック』「救血の心得② 親しい人との会話について」より


13. ドはドンビのド


 オリバー・サンプトン君。
 沼崎は突然その名を思い出した。
 サンプソンだったかもしれないが、とにかくオリバー君だ。小学校四年生の時、村の交換留学生としてアメリカのコネチカット州からやってきて沼崎の実家に二か月間ホームステイした同年代の少年だった。
 沼崎家の土蔵の中でふざけ合っているうちにキスをしたのが沼崎のファーストキスで、結局Bまで進んでしまったのだった。
 帰国後もしばらく「Dear 61」で始まるレターが届いていたが沼崎は返事を書かなかった。表向きの理由は英語がわからないからだが、真の理由は別にあった。あれは一時の気の迷い、異常な体験として終わらせたかったのだ。
 あれから三十数年たって、自分は何をしているのだろう。
 沼崎は建物の陰からサバイバルガジェット〈千里眼CHIZCO〉で少年の様子を窺いながら自問した。
 オリバー君はアメリカ人にしては鼻が低く、メガネをかけ、前歯の矯正中で、サラサラの金髪以外はぱっとしない少年だった。
 酷く大人びて、美しさを鼻にかけ、媚びることがない(ように見える)この少年とは比ぶべくもなかった。
 少年と娘は、商店街を駅方面へ歩いていく。
 娘が少年の耳を引っ張った。ふざけ合ったりして、かなり仲がよさそうである。
 パチンコ店の前で二人は立ち止まった。
 少年が死角に入って見えなくなった。
 娘は浮かない顔で頷いている。
 沼崎は潜望鏡を伸ばして、少年の姿を捉えようとしたが、電信柱が邪魔だった。
 二人は何を話しているのだろう。
 サバイバルガジェット〈デビルイヤー〉なら聴こえそうだが、さすがに商店街で釣り糸を垂れるは憚られた。
 せめてもう少し接近しようと、沼崎は路地の陰から踏み出した。
 おっさん、と声がした。
 振り向きざま、すねに鋭い痛みが走った。沼崎は飛び上がってそのまま倒れ込んだ。
「おい、おまえ。何者だ?」
 脛を押さえて見上げると、あの少年が見下ろしていた。「おれの隠れマニアか? 通りすがりの潜水艦か? どっちでもただで済むと思うな」
「いや、おれは。わたしは、ですね。怪しい者では、ないんですけど……」
「けど、何だ?」
「怪しい者では、ないんです、よ」
「よ?」
「よ、はいりませんよね。よ、は。けど、もなしです。いや、決して怪しい者では……」
 沼崎がしどろもどろにしていると、また蹴りが来た。
「そこは、そこは痛い、痛いんですけど……」
 今度は脇腹のあたり。子供にしては蹴り慣れている。
「どこまでも怪しいやつめ」
 沼崎は亀のように背を丸めていた。少年はその背中に足を乗せて体重をかけてきた。
(あ……)尻のあたりに違和感。
「二千円? ふん。怪しい庶民か」
 ポケットから財布を抜き取られていた。
「何だ? これは……『古物・骨董鑑定士 間久部緑一郎』……『ブリーダー 動物取扱責任者 沼正二郎』……」
 顔写真入りの偽名刺だった。諜報活動用に作ったものだが、まだ使ったことはなかった。
「途轍もなく怪しい……こんなに怪しい男は見たことがない」
 もうお仕舞いだ。だがどこか甘美な危機でもある。
 次の展開を待っていると、背中を押さえつける少年の足が緩んだ。
 恐る恐る顔を上げると、青い目が動揺している。少年は赤いカードを手にしている。
 青い目が、ちらっと沼崎の顔を睨んだ。沼崎はびくっとしてまた顔を伏せた。
 少年は小さく舌打ちすると、財布を沼崎へ投げつけ、走って行ってしまった。
 沼崎は少年が消えた路地の向こうを見つめながら、立ち上がり、服の汚れを払った。
 投げつけられた財布を拾い、落ちていた千円札、偽名刺、献血カードも拾い上げた。
 献血は安上がりの健康チェックになるので重宝していた。少年は財布に入っていたこのカードを見て、自分が変質者などではなく、社会貢献に余念のないジェントルマンだと思ったのかもしれない。
 頭上から突き刺してくる碧く冷たい眼差しを思い出すと軽く身震いが起きた。
 まだ背中に残る小さなスニーカーの感触が愛しかった。
 少年が消えた路地の向こうから猫が入って来た。
 尾が縞模様の猫は目を閉じてく、く、くと忍び笑いをする沼崎に気づくと、目を丸く見開いたまま歩みをピタッと止め、それきり動かなくなっていた。

(つづく)



その4

その6



達磨青沼雅静
素材の樹はイチイ(北海道名はオンコ)
仏像の彫刻家だった叔父、雅静(まさよし)が
筆者のために彫ってくれた菩提達磨(ぼだいだるま)
叔父は病のため早逝。三十八歳の若さだった。


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