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モルトモルテ Molto Morte 其の惨③


[あらすじ]
多くの人命を奪ったあの震災は、その後もボディーブローのように日本社会にダメージを与えつづけ、私たちが被っていた仮面をはぎ取り真の姿をあらわにさせた
あなたたちの正体は────
ゾンビ
幽霊
異星人
そして、私は────
吸血鬼
疫病が蔓延し、混沌の極みへ向かう世界で、吸血者・チホと吸血少年・世良彌堂せらみどうの旅が始まる……

文芸誌に発表するも、批評家に「こんなもの載せるな!」と酷評され、封印された幻のSFカルトノベル

関係者に数々の災厄トラブルをもたらした禁断ヤバメ喪の騙りモノガタリ
ノロいの奇/鬼書キショ、ここに黄泉ヨミがえる……

初出:早稲田文学⑥(2013年発行 通常版/特装版)
note版 横書きに改稿




5.ドはドンビのド



 西暦1986年────────
 沼崎六一郎は、二十歳で新潟県佐渡島にいがたけんさどがしまから上京した。
 
 実家は内海府うちかいふに古よりつづく旧家であり、家の庭には縄文時代の遺跡まであった。
 東京へ来て最初に住んだ部屋が、西機家と棟つづきの風呂なしアパート〈にしはた荘〉だった。
 途中、一階から二階へ移ったり、半年ほど留守にしたことはあったが、東京での暮らしのほぼすべてをこのアパートで送ってきたことになる。
 窓を開ければ高圧線の鉄塔が沼崎を見下ろしていた。
 田舎では田畑の中に点在するそれが住宅街の真ん中に突き刺さっている風景に、都会っぽさを感じていたのかもしれない。
 鉄塔がそびえる中庭は、表具屋である西機氏の仕事場の土間と地つづきになっていて、以前は作りかけの戸や襖をかついだ西機氏が咥え煙草で歩き回っていた。
 まだ一階の部屋にいた時だった。天気のいい日に窓を開けていると、作業中の西機氏の影が窓の外をよく横切っていた。たまに目が合うと、大家は店子に向かって親しげに笑顔を浮かべ、沼崎は目から下だけ笑って忌々しげにカーテンを引いた。
 日中は電動工具の音もかなり響いて騒々しかった。西機氏はドラム缶の焼却炉で板切れや大鋸屑を燃やすので、軒先の洗濯物が香ばしくスモークされてしまうのも腹立たしかった。
 沼崎が入居した当初、二階建て六部屋のすべてが大学生・専門学校生で埋まっていたのだが、90年代半ばには、アジア人ばかりになり、薄い壁の向こうから中国語や知らない言語が聞こえてくるようになった。
 国際時代の到来だ。
 ついにグローバリズムの波が足元まで押し寄せてきたか、と秘かに色めき立っていたのだが、ある時ふと耳を澄ますと時代が通りすぎたあとだった。

 西暦2005年────────
 気がつくと〈にしはた荘〉は沼崎の貸し切りになっていた。他の住人たちは母国の景気がよくなって帰国したのか、風呂ありの部屋へ移ったのか、姿を消した。

 西暦2010年────────
 今度は電動工具の音まで消えてしまった。
〈にしはた荘〉は気味が悪いほど静かになった。

 西機氏はリタイアしたのだろうか。
 まだ五十代のはずだった。
 入院でもしているのだろうか。
 姿が見えなくなるとなったで、気になって仕方がない沼崎であった。
 まさか別居か。
 夫婦仲はよさそうだったが熟年離婚は流行りだった。
 あの奥さん、小柄でたいていニコニコしていて、経年劣化は否めないがかなりの美人だった。
 二年おきの更新のたびに「まだここにいらっしゃいますか?」とニコニコしながら訊くのだが、「いらっしゃいますよね。全然いていただいて構わないんだけど」と最後は決まって困ったような顔をするのだ。

 西暦2011年────────
 ある真夏の晩のことである。
 安手のコーンウィスキーを啜りながら、沼崎は禁酒法時代のアメリカに想いを馳せていた。

 ジンを飲めばヴィクトリア朝時代の工場労働者の辛酸と塗炭を、オールドパーを飲めば木曜クラブ岩倉使節団の雄姿を、黒ビールを飲めばアイルランド共和軍の苛烈なる闘争を想う、沼崎はこれでなかなか風流な男なのである。
 杯を重ねるごとにどこかで見たイメージが沼崎の脳裏に蘇る。
 マフィアの抗争。
 路地裏で火を吹くマシンガン。
 港に沈められた裏切り者の水死体……
 窓を叩く音がして、振り向くと半開きの磨りガラスの向こうに白い影が立っていた。
 手酌でボトルから注がれていた酒が溢れ出し、胡坐を掻く沼崎の膝を酷く濡らしていた。
「沼崎さん、ちょっといいですか?」
 びっくりした。
 何のことはない。
 西機夫人だ。
 棟つづきだが西機家の玄関と〈にしはた荘〉のドアは背中合わせになっているため、中庭に出て窓からのほうが手っ取り早いのだった。
 久しぶりに見る西機夫人は笑顔とアンチエイジングを忘れたサカキバライクエのようになっていた。
「あの、折り入ってご相談があるんですけど」
「な、何ですか?」
「うちの都合で申し訳ないんだけど、二階の部屋に移っていただけないかしら」西機夫人はすまなそう言うと、すぐに打ち消すように「まだいらっしゃいますよね? 別に出ていってほしいわけじゃないのよ。全然いていただいて構わないんだけど」と、顔の前で両手を激しく振った。
 何度も聞いた話だが、台詞と表情が初めてマッチしたように思えた。
 立ち退きのお願いではなく、引越しの相談だった。
 入院中の夫がもうすぐ戻ってくるのだが、たぶん一階だとご迷惑をおかけすることになるだろう。
 ご迷惑の意味がよくわからなかったが、西機氏はやはり入院していた。
 沼崎は二階の角部屋〈203〉へ移った。
 間取りは同じで部屋はきれいになった。
 ほかの部屋は入居者が入れ替わる度に、西機氏自らがリフォームしていたのだ。入れ替わらない自分の部屋だけ年々古びていたようだ。
 眺めもよくなった。毎朝鉄塔の同じ位置に止まり糞を落としながらピィイィピィイィ鳴くヒヨドリ以外不満もなく過ごしていると西機氏が帰ってきた。
 西機氏は前と同じように仕事場のほうから中庭へ出てきた。上から見る限り変哲のない西機氏だった。
 何の病気だったのだろうか。沼崎がそっと開けた窓の隅から覗き込んでいると、西機氏がゆったりとした足取りでアパートのほうへ寄ってきた。
 沼崎が入っていた一階の〈101〉の窓に両手をつき中を見ている。
 大家の不審な行動を怪訝に思いながら、なおも凝視していると、どん、どん、どんと西機氏が窓ガラスに頭を打ちつけ始めた。
 これ以上打ったら割れる。沼崎は口に手を当てて見守っていた。
「お父さん、はいこれ」
 不意に一階の窓が開いて、西機夫人が何か手渡した。
 沼崎が食い入るように見つめていると、夫人から受け取ったものにかぶりついていた西機氏がふと動きを止め、面を上げた。
 西機氏の両目は瞬きもせずに見開かれ、二つの瞳は左側に寄ったまま動かない。
 ぐらぐら頼りなく揺れていた首が右へぱたんと倒れると、二つの瞳が目の中を転がるように右端へずれてきた。
 目が合うと西機氏は、赤黒いペースト状の物質がだらだらと垂れ落ちている口元をゆっくりと引きつらせた。
 笑っているようだ。
 沼崎は窓から離れ、息を潜めて数分待った後、もう一度見下ろすと西機氏はまだそこにいた。
 同じ顔だった。

 以来、2013年の今日まで、沼崎は中庭に面した窓のカーテンを開けたことがない。
 敵地を探るように自作の潜望鏡で覗くようになったのだ。

 今夜、満を持して沼崎は敵地へ潜入する。
 ある実験のためである。
 深夜二時……
〈203〉の窓が開き、縄梯子が垂れ下がった。
 25センチ幅に切り分けたアルミニウムのパイプを15本、細引きのロープで結んだ手製の梯子だ。
 梯子の強度を確かめるように慎重に降りてくる黒い影は、もちろん沼崎六一郎。今年、四十七歳になる。
 手足は短くずんぐりとしていて、およそ運動とは縁のなさそうな中年男性だが、日にスクワットを200回、ルームウォーキング一時間を欠かさない、なかなかの自宅スポーツマンである。
 トーキョーシティープレッパーにして、S級サバイバリストを自任しているのだから、これくらいの体力を維持するのは当然の務めではあるのだが。
 沼崎は大地に立った。
 家々の明かりは消えていた。
 風も吹き込まない黒く四角い空間は、鉄塔の入ったガラスの置物のようだ。
 沼崎の全身は灰色のボディースーツに包まれていた。〈ザ・シャークスーツ〉(1)である。
 沼崎はハンズフリーの暗視スコープゴーグルであたりを探った。さすがにこれは自作は無理でアメリカからの並行輸入品だった。
(いた……)
 3Mスリーエム社の防塵マスクの下で沼崎は呟く。
 目標は仕事場に立てかけられた作りかけの引戸に寄りかかるように座っていた。
 職人がその引戸を完成させることはもうないだろう。
 暗視スコープの映し出す緑がかった薄闇を沼崎は歩き出す。
 膝まで茂った雑草の間を密やかに地下足袋で踏みしめ目標へと近寄っていく。
 日がな一日踏み固められていてもこれだけの草が生えてしまう。ドンビの体を通過した土は、粘液や壊死した細胞も混じるため植物はよく繁茂するという。
 沼崎は土間の手前で立ち止ると、ナップサックからタッパーを取り出した。
 中には直径三センチほどの泥団子〈節子DⅩセツコデラックス(2)が詰め込まれている。
 沼崎は深緑色に淀んだ土間の中へ団子を転がした。
 闇が動いた。
 団子を一個左手に載せたまま、沼崎はドンビが近寄るのを待った。
 緑がかった世界で見るドンビは一段と精気が感じられず、本物のゾンビのようだった。
 這い寄ってきたドンビが頭上に掲げられた泥団子に気づいた。口元から土塊を零しながら、立ち上がったドンビは沼崎より二十センチは上背があった。
 沼崎は団子へ伸ばしたドンビの手をかわした。
 フェイントに懲りずに何度も手を伸ばすドンビ。
 沼崎はゆっくりとうしろへ下がりながら、ドンビの目の前から団子を自分の背後へ放った。
 団子を求めて、ドンビは両手を前に伸ばして向かってきた。
 沼崎は右手で背中のナップサックを探り、取り出した器具をドンビの喉元に突きつけた。
 ドンビの動きが止まった。
 マスクの下で沼崎の鼻孔が広がり、口元は弛んだ。
 ドンビの喉にがっちりと食い込んでいるのは、〈六一式串刺銃ろくいちしきくしざしじゅう(3)だった。銃床につづくアルミニウムのパイプの先にU字型のマジックハンドがついていて、ドンビはそれに喉を押さえられ前に進むことができない。
 ドンビは伸ばした手をしばらくゆらゆらぱたぱたさせていたが、やがてマジックハンドの存在に気づいて掴もうとし始めた。
(ところが、掴めないんだな……)
 マジックハンドと柄のパイプにはグリースがたっぷり塗られていてずるずるに滑るのだ。あとは、引金トリガーを引くのみ。
 強力なゴムの弾力で直径3・5ミリの鋼鉄の串がパイプの先から飛び出し、ドンビの喉笛を直撃。延髄まで突き抜けてジ・エンドだ。
 鉄串にリードを結べば何度も使い回しが可能。マジックハンドと水中銃ニードルガンの組み合わせは抜群だ。
(これで勝てる。生き延びられる……)
 ほくそ笑む沼崎。
 沼崎は引き金から指を外した。
 ドンビのゾンビ化はあくまで近未来のお話。
 これは実戦を想定した実験で、おまけに実験台は大家さん。
 今宵はここまでにしておこう。
 背後で物音が聞こえた。
(えっ)
 自分と同じくらいの背格好のメガネをかけた中年男が向かってくるではないか。
(誰?)
 メガネの下の目は、斜め下を見たまま動かない。男は草に足を取られながらも、のろのろと歩いてくる。
(どどど……)ドンビだ。
 沼崎には思い当たることがあった。
 二、三日前、西機家の一階で町内会の寄合のような会合が催されていたのだ。
 沼崎は何事かと聞き耳を立てた。サバイバルガジェット〈デビルイヤー〉(4)を二階の窓から垂らして、西機家の居間の会話を釣り上げようとしたのだが、会の参加者の声がやけに小さく沈んでいて内容までは掴めなかった。
 大方通夜か葬儀の相談だろうと見当をつけたのだったが、当たらずとも遠からずだ。
 おそらく、こいつは最近発病したご近所の誰かなのだろう。
(抜かったわ……)
 顔を顰める沼崎。
 しかし慌てることはない。沼崎は左手を背中のナップサックに伸ばし、もう一丁の銃を抜いた。
 ドンビ特有の両腕を伸ばした前傾姿勢で近寄ってくるドンビ2号。右腕でドンビ1号を受け止めつつ、沼崎は2号の猪首に左腕でマジックハンドを捻じ込んだ。
 ドンビ2号を捕えた〈六一式カチ割銃ろくいちしきかちわりじゅう(5)は、はっきりいって失敗作なのだが、これを持ってきたのは正解だったようだ。

ドンビ西機氏 )─────沼崎─────( メガネのドンビ

 奇妙な均衡状態がつづいた。
 左右からぐいぐいとマジックハンドにかかるドンビの圧力が増していく。
 いや、違う。
 沼崎の腕力がそろそろ限界に近づいていたのだ。上腕が軋み始めていた。
(もうだめだ。ここまでだ……)
 銃把グリップを握る手首がグラついた。
 左右からドンビが倒れ込んできた。
 沼崎もうしろへ倒れ、尻もちをついた。
 腰が抜けたように座り込む沼崎の前で、ドンビ西機氏とメガネのドンビが抱き合っていた。
 ドンビとドンビは、絡み合わない視線で見つめ合った。
 抱き合ったまま、二人同時に沼崎のほうを向いた。

(これは何の冗談だ……)
 三人の間に穏やかな時間が流れていた。


(1)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その2〈ザ・シャークスーツ〉
 ダイバー用のサメ避けスーツ。タイガーシャークに咬まれても平気、というふれこみの市販品を参考に沼崎が自作したもので、買えば一着四十万円以上するものが、材料費のみでたったの一万九千円。ユニクロのヒートテックの上下を二枚重ねにして、間にステンレスの鎖を縦横に編み込んだ現代版鎖帷子。肘と膝にはケブラー繊維のあてものも縫いつけられている。

(2)〈節子DⅩ〉
 ダイソーで買った鹿沼土に大塚製薬のオロナミンCをかけて丸めた泥団子。「節子」はアニメ『火垂るの墓』より。

(3)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その3〈六一式串刺銃〉
 沼崎が肉食ドンビ迎撃用に開発した秘密兵器。

(4)沼崎六一郎サバイバル7つ道具・その4〈デビルイヤー〉
 釣り竿に吊るした小型盗聴器。ガジェット名はアニメ『デビルマン』より。

(5)〈六一式カチ割銃〉
 マジックハンド部分は〈串刺銃〉と一緒だが、こちらは引金を引くと、セットしてある山刀が、強力なスプリングで百八十度撥ね返り、ドンビの脳天を真っ二つにカチ割る、はずだった。問題点はバランスの悪さ。重量がありすぎて反動も大きすぎた。片腕では銃に振り回されてしまい、スイカを使った実験も失敗していた。


6.鬱血織り姫うっけつおりひめ血色悪い王子けっしょくわるいおうじ


 吸血者が初めて日本の歴史の登場するのは平安時代。
 六歌仙の一人、大友黒主おおとものくろぬしが確認できる最古参の吸血者である。
 小倉百人一首の選から漏れるなど表の歴史では謎に包まれた黒主だが、吸血者の間でも、まだ生きているとも第二次大戦で死亡したとも去年新橋で見たとも言われている伝説的な人物だった。
 西欧ではヴァイキングの狂戦士ベルセルクエギル・スカラグリームスソンが最初の吸血者だというから、だいたい同じ時代に端を発しているようだ。
 吸血鬼のルーツとして名高い、ハンガリー王国「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベトや、ワラキア公国「串刺公くしざしこうヴラド・ツェペシは、平民搾取、平民虐待という王侯貴族の職務に熱心だっただけの、実はごく普通の人間で、吸血者とはまったくもって無関係なのだが、世の好事家はそちらのほうに真実を見たいらしい。
 それは協会としても好都合で、幻想が崩されないよう、注意がほかへ向けられないよう、様々な手が打たれていた。
 例えば、ヴァンパイアが登場する映像作品。日本吸血者協会は、ヨーロッパ最大にして最古の英国吸血者協会マン島支部と共に、映画産業に投資している。
 表の日英同盟は1923年に潰えたが、血の同盟は二つの大戦と冷戦を越えて継続されていた。
 そもそも日英同盟自体が、洋の東西の島国に生きる吸血者同士の友愛が元になっており、同盟の締結に邁進した「吸血鼠男」こと小村寿太郎こむらじゅたろう、「紫の辺境伯林董はやしただすはそれぞれ初代、第二代の日本吸血者協会理事長だった。
 両協会は、毎年数本の吸血鬼映画を製作、虚構の煙幕が絶えないよう常に気を配ってきた。
 好事家には夢を。
 研究者には地位を。
 政治家には票を。
 ジャーナリストには金を、が協会のモットーだった。
 受け入れられない場合は裏モットーの、邪魔者には死を。 
 実際、協会の関与が疑われている死亡者のリストがあるのだ。
 チホはイトマキ症について調べているうちにこれらの事実を知った。それまで協会といえば、血液と仕事をくれる場所としか認識していなかった。「救血の父」アンリ・デュナンと「聖血の母」フローレンス・ナイチンゲールさえ知っていれば、歴史は十分だと思っていた。
 そんな集団の自分も構成員だったとは────。

 チホが、世良彌堂と再会を果たす二時間前のことである。

「合言葉は?」
「ええと、英語ですよね、あ……ライフ・イズ・ロングバケーション、です」
 人生は長いお休み。皮肉としか思えなかった。人生は血塗れ貧乏暇なし、だろ。
 ライフ・イズ・ブラッディーノーフューチャー……
 一回言い間違えてやりたかったが、正確な英文じゃないとカッコ悪い。
「お入りください」
 チホは日本吸血者協会の内部へ初めて入ったのだった。
〈国際タイドウォーター協会〉と書かれた木造の鄙びた建物のほうが〈日本吸血者協会本部〉で、瀟洒しょうしゃな〈潮流研究所〉のほうは〈吸血者情報センター〉────それが施設の正式名称だった。
 チホは最初、案内板に従って情報センターへ向かった。「各日12人。1人1時間まで。要予約」のイトマキ症個別相談に応じてもらうためだ。やっと取れた予約だった。
 センターの中には大勢の人が溜まっていた。
 窓口に並んでいたり、書類に記入していたり、ただ椅子に座って腕組みをしていたりと、役所や銀行や病院のロビーでよく見かける光景が広がっていたのだが、これが全部、吸血者なのだった。
 シルバーカーの老婆も黄色い幼稚園帽の幼児もいたが、中身も同じとは限らない。
 チホは長いエスカレーターの上からフロアーを眺めた。老若男女たちの黒、白、茶、肌色の頭の上に、それぞれの実年齢のキャプションがついた場面を想像しながら二階へ上がった。
イトマキ症対策室〉────ここだった。
 ドアを潜ると、パーテーションで仕切られたブースが四つ並んでいて、係員との間でそれぞれ相談が行われていた。
 チホは受付に協会から届いた葉書を差し出した。壁際の長椅子に腰かけて順番が来るのを待った。
「費用が……」「環境はとても……」「具体的には……」「民間の……」「基本的には……」「こちらにお名前を……」「根本的には……」「案外安いのね……」
 ブースから漏れてくる声に聞き耳を立てていると、廊下のほうがうるさくなってきた。
 ドアが乱暴に開いて、数名がなだれ込んできた。
みなさん、騙されてはいけません!
日本吸血者協会は、中华精制血液公司と、グルなんです!
この人たちを信用したら、みんなイトマキ症に、感染させられてしまいますよ!
 ハイテンションで叫び出す人たちを協会の職員たちが取り囲み、部屋の外へ押し出そうとして揉み合いになった。
 チホは椅子に座ったまま顔を伏せていた。
 彼女たちは「精制血液被害者の会」の人たちで、チホも何度かその会合に出ていた。
 代表の廣瀬と副代表の石井の顔があった。
血液消費者ネットワーク」の豊田と北村もいた。
 四人とも見た目はチホと同じくらいだが、実年齢は二倍から三倍はありそうだった。
 被害者の会とネットワークは、イトマキ症食品公害説を取り、中华精制血液公司を糾弾、告発に非協力的な吸血者協会をも攻撃していた。
 中华精制血液公司は血液自由化の波に乗って、買収を進め規模を拡大したため、被害も広がったという。
 確かにあの会社は名前からして怪しいのだが、チホは確信を持てなかった。
 第一、同じ血を飲んでいた自分はピンピンしている。
被害者のみなさん、目を覚ましてください!
 職員たちによって廊下へ追い出される被害者の会。あの人たちだって同じ血を飲んだだろうに、発病せず元気に運動している点には目をつぶっている。
 喧騒が去ると、チホは顔を上げた。
 血液型不適合説。
 遺伝子組み換え血液説。
 ロングライフ・ブラッド説(防腐剤)。
 未知のウィルス説。
 イトマキ症の原因と呼ばれるものはざっとこれくらいはあった。
 チホの印象では、血液型不適合説が近いような気がしていた。人間のほうに何か体質的な問題があって、たまたま飲んだ血液が合わなかった。同じメーカーのプリンターでも型番によってインクを替えなければならなくなる。適合しないインクを使っていると、プリンターは急に詰まったり壊れたりする。
「お騒がせして申し訳ございません……」
 バレー部の高校一年生みたいな男の子がやってきた。頭はスポーツ刈りで、背は高いが腰が細く、スーツのズボンがベルトで巾着みたいに絞られていた。
「本日は、大変立て込んでおりまして……」
 チホの相談は別室で行うのでついて来いという。
 チホは高校生みたいな職員に促されるまま、また一階まで降りた。被害者の会がまだいないか注意しながら人々の間を抜け、センターの外へ出た。
 別室は、隣の建物、協会本部にあるらしかった。
 本部は中も古く、板張りの廊下がぎしぎし鳴って本当に田舎の中学校といった感じだ。
 チホは校長室のような部屋へ通された。
「相談員が間もなく参りますので、今しばらくお待ちください」
 職員が去ると、チホは黒革のソファーに腰かけた。
 何か鹿の角がありそうな部屋だな……と思って見上げると黒々とした瞳と目が合ってびくっとした。
 壁から大きな鹿の首が飛び出ていた。
 これ、トナカイ?
 壁には書も飾ってあった。
「心」だろうか。
 達筆すぎて、血飛沫にも見えた。
 廊下を歩く靴音が聞え、ドアが開いて相談員が入ってきた。
「お待たせしました。こんなところまでご足労をおかけしまして」
 相談員は、小柄で背筋のぴしっとした、やや薄くなった銀髪がオールバックの男性だった。
 見た目五十代後半から六十代前半といったところ。ゴルフ焼けなのか、肌は小麦色だった。とても平の相談員とは思えない重量感。名立たる企業の管理職を見てきたチホの目は、その男を専務クラスと見積もった。
 相談員は「キリコシ」と名乗った。
 何となく立ち上がってしまったチホに、着席を勧めた。
「西機千穂さん、でしたね」
 チホは、ファイルの頁を捲る相談員の手を見ていた。金の指輪に判が彫ってあった。
「桐越」「切越」ではない。
「霧越」「錐越」でもない。
「吉井」と読める。
 カフスボタンも金。
「……ペアレンツさんがお二人とも発病されていますね。ご心配でしょう」
 ファイルには、チホの資料が挟まっていた。
 覗き見ると、フレンズ、ファミリー、グループ、パーティー、その他、の項目があり、ファミリーにレ点が入っていた。
 事務処理上、吸血者は集団生活の形態によって、大きく四つに分けられていた。協会の分類によると、理科斜架と蜘蛛網はファミリーの「ペアレンツ」にあたり、チホは「チルドレン」になる。
「あの」
「最初に申し上げておかなければならないことがございます」とキリコシ。
「わたくしども日本吸血者協会の始まりは、吸血者同士の助け合いを目的とした、互助会の連合組織でした。それが国際情勢の変化などもございまして、現在の規模にまで拡大したわけですが、本質はやはり互助会です」
「ですので、助け合う皆さまの暮らしのお手伝いをするのが本分でございまして、現在ご提供させて頂いている以上のことは」キリコシは無念そうに目を閉じた。「できないのが現状です」
「具体的なサービスと致しましては、血液供給と書類の作成及び手続代行、職場の斡旋。わたくしどもがご提供できるのは、この三つです」
「ご窮状はお察し致しますが、わたくしどもにできることは非常に限られておりまして」
 キリコシはチホに話す隙を与えないかのように言葉を継いだ。チホはもう我慢できなかった。
「あの!」
 あっ、とキリコシが叫んだ。
 二人の間に横たわっていたテーブルの片側が目の高さまで持ち上がり、斜面をファイルや灰皿やライターが滑り出した。
 キリコシが寸でのところで滑り落ちようとするライターをキャッチした。
「ごっ、ごめんなさい」と、チホが重厚なテーブルから手を離すとその脚が床に「ずどっどっ」と着地した。もう少しで重いテーブルをひっくり返してしまうところだった。
「西機さんは……」
 キリコシはライターと灰皿とファイルをテーブルの元の位置へ戻しながら言った。
「右手ですか?」
「はい……」
「ぼくは、ここです」
 キリコシは銀色の頭髪を指さした。
「脳味噌が二つあるのです」
「えっ、マジですか?」
「冗談です」
 ブザーが鳴った。
「吸血者ジョークですよ」
 キリコシは、ちょっと失礼、と席を離れた。
 デスクの上にインターフォンがあり、そこと話し始めた。
 インターフォンの声が漏れてきた。秘書だろうか、女性の声で(厚労省の……経団連の……お待ちですが)と聞えた。
「待たせておいてください」とキリコシ。
 キリコシ。
 霧輿。
 この人、理事長じゃん。
 チホは協会から送られてくる書類に載っている署名を思い出した。
日本吸血者協会理事長・霧輿龍次郎〉────五万八千人いる会員の頂点が、どうも目の前にいるらしかった。
 何か自分のために厚労省と経団連を待たせているようだったが。
「あの、今日はこれをはっきりお聞きしようと思って千葉からやってきたんですけど」
 もう遠慮はいらない。
 理事長直撃である。
「イトマキ症って、何なんですか? 調べても全然わからないし、こちらの窓口に電話しても詳しく教えてもらえないんですけど」
「それは大変ご迷惑をおかけしました」
「いや、謝るとかは必要ないので、説明してください。困ってるんです」
「わかりました。しかし、さて、どこからお話し致しましょうか」
 霧輿理事長はわざとらしく、額に手を当てた。
「協会本部がイトマキ症の存在を把握したのは、1960年代のことです。何人かの吸血者が奇妙な症状を示している、という報告がありました。研究チームが組まれて、調査したのですが、これがよくわかりません。患者は糸でぐるぐる巻きになっているのですが、結局その糸は市販のものだったのです。おそらく精神的な病に違いない、いや、はっきり申し上げれば詐病だろう、ということになりました。以来、イトマキ症の話はぽつぽつとあったのですが、結論はすでに出ておりましたので、協会と致しましては、この件につきましてはタッチしない、という方針を取ってきました」
「それ、知っています。繭こもり、ですよね。仮病だったんでしょう?」
「ところが、です。近年、イトマキ症についてのご相談や問い合わせが急増致しまして、検討の結果、これは今までとは違う、新たな局面に入ったのだと認識致しました。現在、総力を挙げて、患者さんやご家族からの聞き取り調査、疫学的調査などを急ピッチで進めているところでありまして、この個別相談もその一環として行っているわけです」
「今流行っているのは、仮病じゃないですよ。同居人はわたしの目の前で糸吹いたんですから」
「ですから、新たな局面なのです」
「で、治るんですか?」
 チホはまたテーブルの端を掴んで、ぐっと前へ身を乗り出した。
「治らないんですか?」
 げっ、現在、調査中です、と言いながら身をのけ反らせる霧輿。
「ていうか、このままほうっておいていいんですか? 入院とかさせなくても?」
「入院といいましても、一般の病院では難しいと思います。病気にかからないのが吸血者、というのがこれまでの常識ですからね。今回の事態で、その常識が破られてしまったわけで、協会と致しましても歴史始まって以来の」
「聞いてください。これから、わたしの考えを言いますね」
「はい。お聞きしましょう」
 今度は理事長が膝を乗り出した。本気なのか演技なのか、わからないが真剣そうな表情だった。
「何でもおっしゃってください」
 チホはもうわかっていた。これは埒が明かない。天下の理事長と話して、この有様なのだから。
 もう言いたいことだけ言わせてもらおう。
「わたし、思うんですけど……病気じゃないんじゃないかな、これ。繭って、あれでしょう? 昆虫の幼虫が成虫になるためにあるんですよね? 同じなんじゃないかな。繭の中には、吸血者のサナギみたいなやつが入っていて、時期が来ると、繭から成長した吸血者が出てくる、みたいな。あと、ほら、パソコンで更新てあるじゃないですか。更新している間はパソコン使えなくて、すごいイライラするんですけど。ちょうどあれと同じようなことが吸血者の体に起きているんじゃないのかなって」
 霧輿は腕組みをして目を閉じて聞いている。居眠りをしているようにも見える。
「そんなこと考えたんですけど……おかしいですか?」
「いいえ。ぼくも、そうだったらどんなにいいだろうか、と思いますよ」ちゃんと聞いていたようだ。
三尸虫さんしちゅうというものをご存知ですか?」
 霧輿は目を開けてチホを見据えた。
「さんしちゅう……」
「妖怪精螻蛄しょうけらが操るむしで、庚申待こうしんまちの夜に人の体から抜け出して閻魔えんま大王にその人間の罪業を告げる、という想像上の生きものですが、吸血者の繭こそが、その三尸虫なのだそうです。つい先日も、ある相談者の方から道教の民間信仰とイトマキ症を結びつけた、そんなお説を賜りました」
 チホは頭の中で思い浮かべた生物に×印をつけた。それは「三葉虫さんようちゅう」だった。
「イトマキ症を巡っては、誰もが答を求めてさまよっている……現在、協会は未曽有の混乱の中にあるのです……」
 またブザーが鳴った。
「大丈夫です。お気になさらずに、お話をつづけてください」
「もういいです。お忙しそうだし」チホは立ち上がった。
 お力になれずすいません、と頭を下げる霧輿。
 組織の長がしばしば威厳のある人物なのは謝罪が様になるからである。チホは経験則の新たな裏づけを得た。
「あの、最後に一つ質問」
「はい。何でしょうか?」
 やや表情を和ませていた霧輿が真顔に戻った。
「あの字は『』ですよね?」
 チホは壁に飾ってある書を指さした。
「あれですか。残念ながら、心ではありません」
 霧輿は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「さて、何でしょう?」
「何だろう……じゃあ『』?」
です」微笑む霧輿。「坂本龍馬君の。中岡君の血も混じっているかもしれませんが」
「あれは書ではなくて、近江屋の障子ですよ」
「また吸血者ジョークですか」
「いいえ。この世の真実です」
 チホは廊下で霧輿と別れた。
 出口のほうへ歩いていくと地味なスーツの男三人組とすれ違った。
 チホは道を譲って会釈したが、三人とも無反応だった。厚労省と経団連に違いない。
 しばらく歩くと、うしろのほうから何名かの笑い声が聞えた。一つは、霧輿の声のようだった。
 チホはそのまま帰ろうとしたが、例の高校生職員が追いかけてきた。
 書類が入った封筒を渡された。
「こちら、民間の施設なのですが……」

 封筒の中には、医療機関のパンフレットが入っていた。
 鎌倉にあるイトマキ症専門の病院らしい。
 ちゃんとあるじゃん。でも、入院費が年間百五十万円から五百万円と書かれていた。
 封筒をぶら下げてとぼとぼ歩いていると、アンパンマンのブロンズ像の前で世良彌堂に声をかけられたのだった。

(つづく)


その2

その4



本作に直接的、間接的に影響を与えたと思われる書籍たち(一部)

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