モルトモルテ Molto Morte 其の十⑩
30. 血戦ニザエモン島
世良彌堂は電話を切って、スマホをチホへ返した。
「どこにかけたの?」チホには宅配ピザか何かを注文したように聞こえた。
「今、助っ人を呼んだ。十五分でいい。持たせろ」
チホが木の陰から少女剣士が伏せている藪のほうを窺っていると、灌木の林の奥から音楽が聞えてきた。
世良彌堂によれば、「アクアマリンのままでいて」という曲で、24人の彼女の中の一人のカラオケの十八番らしい。そんな説明を聞いている場合ではないのだが。
林の中から缶ビールとラジカセを持って吉井が現れた。
「おや、まだ頑張っているんですか?」
吉井が呆れたように言った。
「これじゃいつまでたっても、ぼくの歴史年表が完成しないじゃないですか……」
「黙れ、下郎!」世良彌堂が叫んだ。
「ここで待たせてもらいますよ。報酬はすでに、ちば興銀東金サンピア支店の口座に振り込んであるんだ。松絵ちゃん、さっさとお願いしますよ。ぼくはもう余生には飽き飽きしました……」
吉井はチホたちが隠れる樹木と少女剣士が潜む藪の間を抜けて岸まで歩いて行った。砂の上にラジカセを置いて、どっかと座り込むとまたビールを飲み始めた。
少女剣士が藪から頭だけ出した。
仏頂面、目がけ、チホは急いで鉛玉を弾こうとしたが、向こうのほうが数段早かった。
次の瞬間、チホの顔のすぐ横の幹に、手裏剣が刺さっていた。慌てて木の裏に隠れたチホの額に脂汗が滲んできた。
「ふむ。手裏剣は脅威だな」
世良彌堂は横たわったままそう言うと、そばに転がっていた流木に目をやり、チホに取らせた。
「こんな棒きれで、どうするの?」
「チホ、おれをおんぶしろ」
チホがわけがわからず戸惑っていると、世良彌堂はチホの肩に腕を伸ばして抱きついてきた。
「よし、打って出るぞ。攻撃こそ最大の時間稼ぎ。やつが攻めに転じる前にこちらからペースを乱してやろう」
「ちょっと、本当に大丈夫なの?」
構わん、進めチホ、と命令され、チホは世良彌堂をおぶって鉛玉を構えたまま藪に向かって歩き始めた。
世良彌堂は大太鼓の撥のような流木を手に持って、チホの顔の横から碧い目を光らせていた。
藪の前に立つと、世良彌堂が撃てと言った。
低い藪だが緑が濃く、敵がどこに潜んでいるのかはわからない。
チホは適当に撃った。
三発目を放った直後、藪から逃げるように白いジャージ姿が飛び出して行った。
少女剣士が振り向きざま投げつけた手裏剣がチホの眉間のあたりに向かってきた。
チホは目を閉じた。
カーンと乾いた音がした。
世良彌堂が棒で叩き落した音だ。
少女剣士はまた投げつけてきたが、それも世良彌堂が撃ち返す。
防御を彼に任して、チホは鉛玉を撃った。今度は少女剣士が白刃でキンッと受けた。
オフェンスとディフェンスを繰り返しながら両者は七、八メートルの距離を保ったままじりじりと湖岸のほうへ横滑りしていった。
「これは意外とおもしろい。なかなかの迫力ですよ」
吉井はビール片手に観戦している。
「なるほど、二人羽織戦法ですか。プロの殺し屋相手に、やりますな」
少女剣士が放った四本目の手裏剣も世良彌堂は弾き返した。手裏剣はそれで最後だったらしく、少女剣士は両手で刀を構え、こちらを睨んでいる。間合いを計っているようだ。
「助っ人はまだか。そろそろ十五分経つのだが」
世良彌堂が焦り始めていた。
チホはデニムのポケットを探った。ナス型オモリはこれで最後の一発。あとは世良彌堂にもらった小石しかない。
時間稼ぎも限界だった。少女剣士が刀を振り上げ、前に出た。
チホは透かさず撃った。最後の鉛玉もキンッと弾かれた。
「チホ、もういい」
世良彌堂が耳元で囁いた。
「残りの弾を撃ちまくって、ボートまで走れ。おれと吉井がやられる隙に逃げるんだ」
「彌堂君」
「もう十分だ。おれの護衛の任を解く。失せろ。失せてくれ」
「何言ってるの?」
「いい場面ですね」と吉井。
「男の子が命懸けで言っているのです。悪い話じゃない。お嬢さん、お逃げなさい。そして、ここで見聞きしたことは忘れてください。口外しなければ、協会もあなたに手を下すことはないでしょう。恥じることはない。世を欺き、己も欺く、吸血者なら誰でもやっていることです」
やめて! チホは叫んだ。
彌堂君も離さないし、協会もあんたも許さない。
一度背負ったものはこれからもずっと背負うし、一度知ったことは忘れない、絶対に。
雰囲気で弾切れを察したのか、少女剣士が能面の口元にかすかに笑みを浮かべ、こちらへ向かってきた。
チホは世良彌堂をおぶったまま後退する。
「チホ、もういい。おれを捨てろ。捨ててくれ」
懇願する世良彌堂を無視してチホはおぶったまま小石を放った。少女剣士の刀がコンと跳ね返した。
能面の笑みは今や嗜虐を愉しむ歓喜へと変わりつつあった。
「彌堂君、それ貸して」チホは世良彌堂の手から流木を奪った。
「おい、どうするのだ?」地面に下ろされた世良彌堂がチホを見上げた。
「闘う。これであの子を思い切りぶん殴る」
チホは横たわった世良彌堂の前に立ち、摺り足で近寄って来る少女剣士を待ち構えた。
「無理だ。やめろ。もうやめてくれ。おい、助っ人はどうした? もう十六分だぞ。クソ、料金割引だからな」
世良彌堂が空に向かって叫んだ。
「ふふ、楽しませてもらうね」
少女剣士が鈴のような声でしゃべった。チホとの距離はもう三メートルしかない。
「おや、何の音ですか?」吉井が空を見上げた。
チホも気になったが、少女剣士から目が離せなかった。
次第に大きくなる重低音の下、少女剣士も元の能面に戻ってチホと睨み合っていたが、やはり気になるのか先に視線を外して頭上を見渡している。
「チホ、下がれ。援軍だ」
チホもようやく空を見上げた。
西の空から黒い点がこちらへ飛んでくる。
ヘリコプターだ。いつかの農業用ドローンではない。
「まったく、余計なことをしてくれたようですな……」
吉井がラジカセを止めた。やっていられないとばかりに目を閉じて溜め息を吐いている。
竜巻のような風が吹いて湖面に白波を立て始めた。湖岸はたちまち厚い砂埃で覆われてしまった。
チホは世良彌堂をおぶったまま中腰で強風に耐えていた。島の四人を黒く大きな影が覆っていた。
チホは薄目を開けて空を見た。太陽を隠して余りある巨体が空に浮かんでいる。
上空へやってきたのは大型の輸送ヘリだった。
風はさらに強くなり、チホは世良彌堂と一緒に地面に伏せた。
ヘリから縄梯子が下ろされ、風に煽られながら男が一人降りてきた。チホは地面に伏せたまま、訝しげにその光景を見守った。
島に降り立った老人は余程足腰が丈夫なのか、強風の中びくともせずに立ち尽くしている。
作務衣を着て、いかつい顔でチホたちを睨回す様子は、出来の悪いティラノサウルスの着ぐるみのようだ。
老人が何かを叫び始めた。
激しい風で途切れ途切れになりながらも老人の声はチホの耳まで届けられた。
「……おれが作った海ほたる……おれが作ったアクアライン……おれが作った富津火力発電所……このダムもおれが……だう!」(1)
老人はやはり地に伏せていた少女剣士をギョロ目で見据えると、そちらへ向かって持っていたピストル型のノズルを構えた。ノズルはホースで老人が背負ったタンクへと繋がっていた。
「……可愛い子供たちの……時代のために自民党が……あるってことを……忘れるな……だう!」(2)
いかつい顔の老人は叫びながら、少女剣士に向かって黒い液体を噴射し始めた。
少女は立ち上がり反撃しようとするが強風に足元が覚束ないようだ吹きつけた黒い液体は強風に煽られ、大蛇のようにのたうって少女剣士に襲いかかり、彼女の白いジャージを見る見る黒く染めていった。
チホが老人に気を取られていると、今度は上空に静止していたヘリのドアから何かがつづけざまに岸近くの湖面ヘ落ちて、大きな水飛沫が起きていた。
波紋の中から小さな頭がぽつぽつと泡のように浮かび上がる。
やがて岸へ向かって這い上がってきたのは、お揃いの黄色い帽子を被り水色のお遊戯服を着た幼稚園児たちだった。
全部で十五名。
老人が、だう! だう! とけしかけると、目が座った園児たちは強風に煽られ躓いたり転がされたりしながらもゆっくりと確実に黒い液体が吹きつけられたほうへ向かっていった。
少女剣士は黒い液体が集ドンビ剤ルカあーすだと気づいたのか、ジャージごと脱ぎ捨てようとしたが時すでに遅く園児たちに囲まれてしまった。
ジャージのポケットから小型のスプレーを抜いて、あたりに振り撒いたが園児たちに変化はなく、少女を囲むかごめの輪は窄まっていった。
園児たちの鼻には鼻栓のようなプラスチックのプラグが差し込まれていた。チホが野沢温泉村で見たものと同じだ。この子たちには忌避剤が効かないのだ。
少女剣士はスプレーを投げ捨て、改めて刀を構えると、先頭の子供へ斬りかかろうとした。
チホは立て膝になるとポケットにまだ一個残っていた小石を左手に載せた。
よく見ると小石じゃなかった。
これ、ピスタチオじゃん。
世良彌堂は彼女たちに膝枕でピスタチオを割らせて食べさせてもらうのが好きなのだとか。
この甘えん坊が!! 思い切り弾いた。
はっと気づいた仏頂面がこちらを見た瞬間、ピスタチオが額に当たって弾け飛んだ。
思わず顔を覆う少女剣士にゆっくりと子供たちが襲いかかっていった。
……お姉ちゃん遊ぼう……お姉ちゃん遊ぼう……と子供の声が聞えた。
まだ意識が残っている園児もいるようだ。
風の中に少女のカワイイ絶叫が鳴り響いた。
群がる子供たちの中から刀を持った腕が一本突き出していた。その腕もすぐに旺盛な食欲の沼に沈んでいった。
凶暴なアリたちによるカマキリの解体ショーが行われていた。
これが本当のライフ・イズ・ブラッディーノーフューチャー。
チホの目の前でさっきまで一体の少女だったものが血塗れのパーツに府分けされてしまった。
老人がまた何か叫んでいた。
「……わたくしを応援してくれた……わたくしを育ててくれた……ふるさとの愛情によって……今日の発言権が得られたのです……ご静聴ありがとうだう」(3)
口を血糊でべたべたにした園児たちが、着陸したヘリの中へ戻っていく。
老人はあたりに転がった骨つきの肉片や頭部、右手首がついたままの刀など少女剣士の残骸を拾ってゴミ袋に入れた。
ヘリのプロペラが回り始めた。
強風がまた島を襲い始めた。
飛び上がる直前、老人がヘリのドアから何か書類を、だう! とチホに向かって投げて寄こした。
砂埃の中、チホは薄目を開いて立ち上がりその書類を摘まみ上げた。請求書だった。
ヘリのドアから老人が顔を覗かせ、チホに向かってニコッと笑い敬礼した。周囲の木々を暴風で揺さぶりつつ大音響とともに輸送ヘリは飛び去っていった。
「大丈夫?」
チホは地面に腹這いのままでいる世良彌堂へ駆け寄った。
「何とかな」
世良彌堂は砂地に頬杖を突いてチホを見上げた。表情はいつもと同じだが、袈裟切りにされたパーカーの背中に拡がった染みが痛々しかった。
世良彌堂は手に持っていた紙切れを差し出して見せた。タクシーの中にあったチラシを世良彌堂は何故かポケットに捩じ込んでいたようだ。
「彌堂君」
チホは世良彌堂のそばにしゃがみ込むと、請求書を摘まんで彼の目の前で揺らした。
総額の欄に記された数字は、頭が4で0が6個ついていた。
「これ、払えるの?」
「そいつは、元薩摩藩士のものだ」
世良彌堂はうつ伏せのまま顔を横に向けた。碧い目が睨んだ先には、岸辺に力が抜けたように座り込んでいる男がいた。
「おい、吉井。貴様の奢りだ。いいな」
「参ったな。あんな無粋な者たちを呼び出すとは。お陰で、ぼくの物語が台無しじゃないですか……」
吉井友実は自嘲気味に笑うと、大きな溜め息を吐いて砂地から腰を上げた。
「ぼくはまた死にぞこなった。こうなったら、坂本君に貰った来国光で自決でもするか。その前にもう一本、ビールだな。男はしゃべり疲れてキリンビール、か?」
吉井はチホの手から請求書を受け取ると、ラジカセからまたチホの知らない曲を垂れ流しつつ元来た島の奥へと消えていった。
「何て曲?」
吉井の背中を見送りながら、チホは訊いた。
「クリスタルキングの『セシル』だ」(4)
即座に答える世良彌堂。甘ったるくて古そうな曲だが、これも別の彼女の十八番か。
「いけ好かないオヤジだったが、選曲のセンスだけは認めざるをえない」
仁左衛門島の岸辺は静けさを取り戻していた。
砂地を汚した黒いルカあーすも少女の血液もやがて雨と波に洗われてしまうだろう。
「彌堂君。帰ろう」
太陽はもう東の峰の向こうに隠れていた。夕暮れに追いつかれる前に島を離れたかった。
「起こしてくれ」
チホに向かって両手を伸ばす世良彌堂。チホはまた世良彌堂をおぶい、砂地に乗り上げた手漕ぎボートに向かって歩き始めた。
「……彌堂君、寝てるの?」
話しかけても黙っている背中の世良彌堂にチホは訊いた。「あれ、何かちょっと軽くない?」
チホ……と声がした。
背中ではなく、もっとうしろの方からだった。
チホが振り向くと、砂地に点々と寒天ゼリーのような透明な物質が落ちていた。
「ちょっと、彌堂君……彌堂君?」
チホは自分の背中でぐったりしている世良彌堂に呼びかけた。
「彌堂君、しっかりして! 彌堂君!!」
「おい、チホ。おれは、こっちだ……」
世良彌堂の声とは思えない野太い声が響いた。
声は砂地に転がっている寒天ゼリーのほうから聞えてきた。大きなものは漬物石くらい、小さなものはテニスボールくらいの寒天ゼリーが五つほど落ちていた。
「ここだ」
野太い声は十二、三メートルうしろに転がっている漬物石大の塊から聞えた。
「ここって、どこ?」チホは混乱していた。
「ここだ」
今度は数メートル後方に転がっているソフトボール大の寒天ゼリーがぷるぷると揺れていた。
その声は世良彌堂の声を三倍速にしたように甲高かった。「どうも、これがおれらしい」
チホはおぶっていた世良彌堂を下ろした。
体がダウンジャケットのように軽くなっていた。
チホの腕の中で世良彌堂は虚ろな目で空を見上げていた。チホが怖々と青白い頬に触れると肌がぺこんぺこんと頼りなく凹んでしまう。
少し強めに胸を押すと、ふがふがふがという奇妙な音を立てて世良彌堂は萎んだ。それは背中から空気が抜けた音だった。
「背中の傷が開いて、おれが外に漏れてしまったらしいな」とすぐ足元に転がっているテニスボール大が鼠が鳴くような細い声で言った。
「何なの、これ……どうなってるの? 意味がわかんない」
チホは少年の空気人形になった世良彌堂を見つめていた。
「チホ、いいから早くおれを拾い集めろ」
五つの塊がコーラス・グループのように声を合わせて言った。
「おい、早く頼む。おれが砂に浸み込む前に」(5)
31.突然とても悲しい佐渡
Suddenly so sad Sado
ジェットフォイルで新潟港から両津港まで一時間強。
沼崎は十五年ぶりに故郷の地に立った。
港は帰省客と観光客でごった返していた。
毎年八月下旬の三日間、島では「アース・セレブレーション」というビッグなイベントが開かれるのだ。
沼崎は野外フェス会場へ向かうらしい浮かれ気味の白人男女数名のグループに紛れて路線バスに乗り込み、何食わぬ顔で途中下車した。
村の停留所が補修もされずに十五年分古びていたことに沼崎は軽い目眩を覚えた。
村は特に新しい建物が増えたふうでもなく沼崎の記憶のまま残されていた。
平成の大合併で、佐渡島の全市町村が合併して「佐渡市」になるという話もあったが、結局立ち消えになった。
そこに十五年前の沼崎家のひとり息子が起こした詐欺まがい事件がどの程度影を落としていたのかは不明だ。
野外フェスの野の字もない村のメインストリートを沼崎は家に向かって歩いた。
道路はところどころに大きなひび割れが出来ていたが、三年前の地震の傷痕なのか、単なる老朽化なのかよくわからなかった。
幼い頃よく通った佐藤商店の前に差しかかった。
昔は村の子供が集う駄菓子屋だったのが、沼崎が上京する前後に店の半分をレンタルビデオ店に改装して、図書館、書店と共に村の文化活動を担っていた。
佐藤商店はすでに廃業してずいぶん経つようだった。
沼崎は〈ビデオハウス・サトー〉の錆びたシャッターを前に、これも自分のせいのような気がして居たたまれなくなり足早に去った。
沼崎は遂に家の門の前まで来た。
広い庭のある瓦屋根の大邸宅に変わりはなかった。
庭の右奥に鎮座する大岩も変わりがなかった。
それは縄文時代の遺跡で以前はよく大学の研究者が調べに来たが、幼い沼崎の遊び場でもあった。
オリバー少年との思い出の土蔵もまだ残っていた。
沼崎は門の前に立ったまま、それらを眺めていた。
家族には一応葉書で帰郷は伝えてあった。
沼崎はサングラスを外し、キャップも脱いだ。
知り合いに見つかるのを怖れて、船内もバスの車中もずっとこのスタイルで通していた。
沼崎は鞄から土産の雷おこしを取り出した。気まずくなったら、これだけ置いて帰ろうと思った。
突然、背後でクラクションが鳴った。
驚いた沼崎は雷おこしを落としていた。
振り向くと、車の窓から父親が顔を覗かせていた。嘱託勤務をしている村役場から昼食を取りに帰ってきたところのようだ。
「六一郎、よく帰ってきたな」
父親は見たこともない笑顔で言った。
人が変わるとはこのことだ。
かつて沼崎の伯父の前ではひたすら萎縮、沼崎の母親の前では絶対服従しか能のなかった婿養子の十五年後だった。
沼崎は陽気な父親に背中を押され、戸惑いながら敷地の中へ入って行った。
沼崎は玄関で白髪だらけの小さな婦人と対面した。死んだ伯父と一緒に一族に睨みを利かせていた女性の十五年後らしかった。
母親はエプロンをして鰈の煮付けを作っている最中だった。
沼崎が家にいた頃、料理は家事代行の女性が作っていた。母親が料理をしている姿は物心がついてから数回しか見たことがなかった。
沼崎は用意してあった挨拶を述べる間もなく、昼食の食卓に座らされていた。
「早かったのね、六一郎。夕方に着くかと思ってたわよ」
母親は穏やかな表情を浮かべて出来たばかりの鰈の煮付けをテーブルに並べた。体長二十五センチほどの食べ頃のマコガレイである。鰈の黒い背中に入れられた白い切れ目が眩しかった。
「美味そうだな。うん、いい匂いだ」
父親が鰈に鼻を近づけ頷いていた。
沼崎は目を疑った。
これは、どちらのご両親だろう。
何だ、この一家団欒は?
疑念は渦巻くが、謝罪が先だった。確かに美味そうな鰈の前から離れ、沼崎は板の間に土下座した。
「お父さん、お母さん、長年に亘る、ご迷惑、ご心配、大変申し訳ございませんでした」
沼崎は額を板の間に押しつけて言った。沼崎にとっては数十秒の沈黙に感じられたが、実際は五秒だった。
「おいおい六一郎、真昼間からどうしたんだ?」
父親が素っ頓狂な声を上げた。
「え、何なの⁉ びっくりさせないでよ、本当に……」
母親も裏返った声でつづいた。
「こいつは帰ってきた早々何を言い出すかと思ったら」
「この子はまったく、昔から大げさよ、ねえ」
真に明るいお似合いの老夫婦だが、沼崎は初対面だった。
床から顔を上げ、沼崎は食卓へ戻って黙々と鰈をおかずに佐渡産コシヒカリを食べ始めた。
何かおかしい、何かおかしいが、鰈は美味かった。
翌日は本家に向かった。伯母に伯父の葬儀を欠席した非礼を詫び、仏前に手を合わせた。
伯母は沼崎と伯父との確執など何もなかったかのように沼崎に優しかった。
伯母に訊いたところでは、十五年前の詐欺まがい事件についてあれこれ言う村人も特にいないという。
その夜は親戚の飲み会に呼ばれ、昔話と近隣の市町村の悪口に花を咲かせた。
どこどこの村のあの家からドンビが出た、隣町のある有力者の長女の婚約者がドンビで婚約破棄に、などなど。
親戚たちは沼崎一族からもこの村からもまだSES患者が一人も出ていないことを誇りに思っているらしかった。
従兄に東京のドンビ事情を訊かれたが、アパートの中庭で集団で放し飼いになっているとは言えなかった。
沼崎が理解したところでは、本家の伯父の死を境に沼崎家は村の権力の座から滑り落ち、様々な婦人会で権勢を誇っていた沼崎の母親の存在感も薄れる一方のようだ。
パワーバランスの変化は沼崎の父親にも波及し、一族の地盤沈下により因循と養子縁組の中で息を潜めていた彼元来の性格が数十年ぶりに解き放たれ、あの陽気な父親が出現したらしかった。
沼崎家の凋落は激しく、村の疲弊も相当なものだが、期せずして沼崎は故郷を満喫してしまった。
滞在中、老婆に追いかけられることもなかったし、うしろ指も指されず石も飛んで来なかった。
親戚中から吊し上げられるどころか、すっかり垢抜けたと持ち上げられてしまった。
訪れる前の決死の覚悟は何だったのだろうか。
沼崎はフェス帰りの客で混雑する前に東京へ戻ることにした。
三日目の早朝、父親の車で港まで送ってもらった。
笑顔の母親に見送られ、村を離れた。
車中二人きりになると、沼崎は念のため父親に訊いてみた。
本当はみんな自分に対して怒っているのではないか?
「おまえ、まだ気にしているのか」
父親は呆れたように言った。
あんなことで一族が没落したり、市町村合併がご破算になったりするものか。
十五年前、沼崎の仕業に伯父は確かに激怒したが、二、三年経てば沼崎を許して養子にする予定だったのだという。その後、伯父の建設会社が経営不振となり、伯父も体調を崩して話は自然消滅した。
伯父にも母親にも悪いが、自分は沼崎の養子計画に最初から反対だった。結果オーライ。もう何も気にするな。
沼崎は港ですっきりとした気持ちで父親と別れた。
ここは往路の両津港ではなく、南の赤泊港。
高速船「あいびす」で寺泊港へ渡るのだ。寺泊は裏日本大震災の被災地の北限にあたり、破壊された港湾の修復が完了し航路が再開してからまだ半年しか経っていなかった。
沼崎は島に滞在中、心に余裕が生まれたせいか、被災地に黙祷を捧げたくなって復路を変更したのだった。
出船までまだ間があった。
沼崎が港内をぶらぶらしていると、岸壁の上からじっと自分を睨んでいる老人がいることに気づいた。
きっと自分をフェスに訪れた余所者だと思っているに違いない。
フェスで大騒ぎをして本土へ帰る人間に文句がある島民だっているだろう。
厳しい視線を浴びながら沼崎は老人が立つ岸壁を避けて歩いていった。
五十メートルほど離れてから振り返ると何とまだ睨んでいた。
観光客はほかにもいるのに、何故おれだけが?
沼崎が釈然としない気分で佇んでいると、鶴の一声のように突然甲高い声が響き渡った。
こらー。
この死神が。
空耳かと思ったが、そう聞こえたのだ。
老人は口か頭が不自由なのか、あとは意味不明な奇声を上げるだけだった。
老人は沼崎を睨みつけたまま震える足で歩き出した。
ドンビのようにも見えるが、怒れる老人にも見えた。
沼崎は乗船を開始した高速船に向かって五十メートル六秒九の全速力で走って逃げた。
背後でまた奇声が響いていた。
そのB級西部劇スター、リー・ヴァン・クリーフに雰囲気が少し似た老人が、以前伯父の家に出入りしていた企画会社社長の十五年後の姿だと気づいたのは高速船が動き出してからだった。
親戚の宴会で聞いた、市町村合併がふいになって割を食って倒産した業者の話も思い出した。
船室のカーペットの上でリュックを枕に仰向けになっていると、かつて煮え湯を飲まされた盗賊に思いがけない場所で出くわした老雄の怒りに満ちた眼差しが蘇ってきた。
沼崎の体に急激に船酔いの症状が現れていた。
高速船が寺泊港へ到着するまでに、沼崎はトイレで二度、吐いた。
(つづく)
その9
その11 最終回
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?