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グローバル人材?――いいえ、グローバル村に住んでいるだけ

異文化が好きということと、異文化に溶け込んで暮らすことは全く違う。

理不尽と、異文化は似ている。
というよりも、異文化は理不尽で成り立っている。
ローカルがローカルであるためには、ローカルルールが必須だ。ローカルルールなきところにローカルはない。
若者がムラ社会を嫌う理由と、世界の都市が似てくる原因は同じなのだ。
ローカルルールを疎み、共通化していくと、無個性な都市ができる。
そしてそこにもルールがある”ローカルルールを適用しないこと”。

ある集団における特有のルール、それ以上に言語化・ルール化されていない"当たり前"は、外から見れば理不尽なことが多い。
というかその多くは必ず理不尽だ。ローカルルールに、理由はない。
ただ長いことそうしてきただけ。だからこそ独特の世界がある。
時間の蓄積は、人の手で作れるものではなく、それだけで価値がある。
それが、異文化なのか、理不尽なのかは、言葉の問題なのだろう。

当然、場所に関係するものだけでなく嗜好でも同じことが起きる。
だから、サークルも会社も国も世界も、ムラ社会である。
なるほど、世界は、理不尽で溢れている。

自分をとりまく文化の理不尽を嫌って、異文化を追い求めるのだけれど、理不尽を嫌えば文化は消えてしまう。人により生成されるルールに耐えられないなら、文化を捨て独りになるしかない。でも、自然界の中で、動物は群れずには生きていけない。だから群れる。そして、文化が生まれる。

そもそも、「異文化を求めるのは、既存の文化やルールや当然に満足できないせいだ。もっと広い世界へ、もっと多様な世界観を取り入れたい!」と言いながら、異文化探求者も、ただグローバルという村に住んでいるだけで、そこには異文化を求めない人たちから見れば、やっぱり理不尽なルールがあるのだろう。たとえば、「違う価値観を受け入れろ」とか。「偶然の出会いを愛せ」とか。

本来、他の価値観の受容も、偶然の出会いを愛することも、かなりの負担を強いるものだ。
生まれた場所で不朽に咲いている、「まっとうとも思わずに/まっとうに生きているひとびと*」にとっては、とても理不尽なことだと思う。

我々はいつも、理不尽を生成している。


自戒をこめて。 ほかる

*茨木のり子「時代おくれ」
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気に入った場所へ移住した人と、元からそこに住んでいる人とでは、見えてる世界がかなり違う。だから、移住は難しい。だけど、面白い。
移住は、転職と同じだ。

by ローカルライフトークmemo
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