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「苦しい時の神頼み!」 神様と仏様、両方にお願いしたら・・・?

私の幼少期は、お肉屋さんを経営していた祖父の家で暮していました。

もの心がついてから、欠かすことなく、朝起きると、先ずは、店の帳場にある神棚に行き、願をかけてから、急な階段を2階まで上がり、両親の寝室に置かれていた仏壇の水をかえて、さらに仏さまの両方に、願をかけるという、極めて変わった、信仰の深い子供でした。

思い返してみれば、旅行に出かけたときでも、旅先で、朝起きれば、帳場の神棚、2階の仏壇の前にいる自分を想像して、いつもと同じような願をかけては、同じような気分を、イメージだけでも、浸っていました。

人は、毎日繰り返し、同じような行動をしていると、無意識に体が動きます。それだけでなく、同じ行動は、同じような気分を引き出します。
後に分かったことですが、「脳は、実際に起こっていることと、想像の中で起こっていることを区別できない」のです。

「これだけ神様と、仏さまにお願いしているから、願いはかなうだろう・・・」と、自己暗示にかけていました。
それを信じている時は大変良い気分なのですが、その願いが叶わなかったときの落ち込みは、すさまじいものがあります。

記憶にあるだけでも、小学校1年~6年生までの6年間は、この習慣を継続していました。

5~6年生になると、どこの親御さんも、大学まで、エスカレーター式に行ける某有名大学付属中学に、子供を入れることを考え、世にいう受験戦争が始まります。

私も、その戦争に参加することになり、学校の勉強だけでなく、塾やゼミナール、ある時は、家庭教師までつけて、勉強することになりました。
それを、サボっていると、次の決まり台詞を浴びることになります。

「勉強しなさい」「勉強は人のためでなく、自分のためですよ」と、親や先生に言われても、まだ、10歳前後の自分は、その勉強自体が、どのように自分のためになるのか、わかるはずもありません。

それでも、優等生であれば、親や先生の言うとおりに、この時期に、集中して、勉強します。
私の場合は、ただ、大学までストレートでいける可能性の高いK大学付属中学に入れば、親は喜ぶだろうし、おそらく、悪いことにはなりそうにない、という単純な思いだったのでしょう。

私は、勉強はさておき、毎日の神仏への願かけの内容を「●●中学に合格しますように・・・」の一本に絞りこみました。そして来る日も、来る日も、真面目に、神様、仏さまの最大コンビに祈り続けたのです。

そして結果は・・・なんと、不合格。

これだけ続けたのだから、㊗合格間違いなし、とは裏腹に、見事に落ちてしまいました。

「何故だ~、肝心な時に、願いが叶わないなんて!神も仏もないじゃないか・・・」

単純な子供だったので、その時から、一切の信仰を辞めて、神棚、仏壇へのデイリーワーク(日課)を拒絶、宗教的な考え方を、批判する側になり、「神も、仏もありゃしない」「そんなものを信じるから気が弱くなる」「神がいるなら連れてきて証明してくれ」と、神仏が聞いていれば、怒られるような中学~高校生活を、過ごすことになりました。

このお話でお伝えしたいことは、信仰心(強く信じて疑わない心)は、大変に重要なことですが、何に対して、どのように信仰しているのか、ということが重要です。

幼少の私は、明らかに「他力本願」、祈っているだけで、実際に勉強するという自助努力を怠っていたのです。少なくとも、希望の学校に入れるだけの力をつける勉強はしなかったのです。
これを聞けば、優等生からは、「勉強しないで合格するなんて無理でしょ」と言われます。

「その通りです」

ホリスティックの学びには、この力(信仰)の重要性が説かれています。

昨今、男子バスケットボールのW杯で、男子チームをパリ五輪に導いたトム・ホーバス監督は、信じることの大切さを、選手に教えてきました。
信念の力が、良い結果になった一例です。

今となって、思うことは、信じる対象が、自分にとってどのくらい大事で、本当にしたくて(なりたくて)、それをやろうとしていることなのか、正しい方向なのか、美しいか、醜いかの思い方の質が、正しい方向の熱量(エネルギー)を高めて、信念を作り、それを成就させる可能性を高めるのだと、後に知ることになります。~次章に続く~


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