ヘッダー画像

虐待で家族こじらせました① わたしが産まれるまで

皆さん、はじめまして。わたしは、フリーライターをしている帆南ふうこと申します。今は夫と二人暮らし。東京からとある田舎の島に移住して、小さな畑を耕したり、クルマをかっとばして遠くまで取材に出かけたり、そんな毎日を楽しく過ごしています。

自分のことなら何でも話してしまう性分のわたしですが、友だちにも恋人にもずっと言えなかったことがありました。

それは、子どものころに虐待を受けて育ったということです。

言えなかった理由としては、「かわいそう」と同情されるのが嫌、言われた相手もリアクションに困ると思うと切り出せない、問題がこじれすぎて何から話せばいいのか分からない、今そんな話したら泣いちゃいそう――、など色々あったと思います。

でも、根底にあった一番の理由としては「虐待について気軽に話せる雰囲気」がなかったことでしょう。

わたしは、虐待を受けて育った「虐待サバイバー」です。

虐待のつらさは、成長したオトナになってからもまだ続きます。

わたしは、虐待が原因で「家族」や「自己愛」を思いっきりこじらせ、二度も不倫をし、それがきっかけで後に親と和解しました。

「家族のカタチ」や「幸せのカタチ」が星の数だけあるように、虐待が起きる経緯や受けた側のつらさにもまた無数のカタチがあります。これからお話しするわたしのケースも、銀河系の星の数ほどもある全体の中のたった一つにすぎません。でも、1つのサンプルとして皆さんにお見せすることで、虐待について考えるキッカケになればいいなと思います。

「家族の幸せ」って何なんですかね?

そんなことも一緒に考えていければいいなぁと思ってます。さぁ、そろそろいきましょうか。

------------------

昭和の団地に住まう神々

とりあえず、わたしがどんな場所で育ったか。そんな話からはじめたいと思う。

「子どもの虐待」というと貧困家庭のイメージがあるかもしれないけど、とんでもない。お金があろうとなかろうと、そういった事象は発生する。

わたしは東京のベッドタウンとしてつくられた集合住宅の、いわゆる「団地っ子」として育った。高度経済成長の終わりぎわに国道沿いに建てられたもので、80年代の当時でも、その一帯には田んぼと沼が売るほどあった。

トラックがびゅんびゅん通る国道をへだてて広がる団地街。そのど真ん中の立派な棟の1階部分には、ずらーっとスーパーマーケットや薬局、床屋に歯医者などがそろってて、脇には公園とグラウンドもあった。新婚さんやファミリーが住むにはもってこいだったと思う。

あのころ、わたしはオトナという生き物をいつも観察していた。

今思い出すのは、ちょっと変わったオトナのことばかり。

スーパーで野菜を売ってくれるおじさんには小指がなかった。いつも赤ら顔で公園に出現し、○×ゲームに勝つとがま口から10円くれるおじさんは、片目がなかった。子どもたちに性の神秘を説いて回るめちゃくちゃ早口のおばさんは、最後に必ず「丸こっめ味噌!」と絶叫して白目をむいた。あと、すごい太ってた。

彼らは、まるでオリンポス12神のような強烈な存在感で、わたしの生活を彩っていた。遠くから彼らを見つけただけで、その一挙一動が気になって仕方ない。オトナは神だ。たとえどんなにダメそうなオーラが漂っていたって彼らの言動には凄みがある。子どもなんかじゃ太刀打ちできないんだよ。

1980年代初頭、そんな崇高なオトナであるところの両神――いや、両親。帆南家の第一子として、わたしも生まれたのであった。彼らの話によると、幼いころのわたしは人見知りもせず、明るくて、お地蔵さんが大好きな子どもだったそうだ。散歩中だろうが旅行先だろうが、地蔵や仏像を見つけると一体一体に声をかけて回っていたらしい。

神を畏れ敬う心は、きっと前世からのDNAに刻まれていたのだろう。

チンピラとボディコンの愛

さて、ウチの神々を紹介しよう。両親のことですね。せっかくなら、ゼウスとかアフロディーテみたいな名前をつけてみたい。で、考えたのが――

我が家の神、チンピラとボディコン。田んぼと沼に囲まれたのどかな団地の中で、かなり目立っていたと思う。

サラリーマンの父は、長渕剛の熱狂的なファンだった。長渕がらみの曲やドラマはすべてチェックしていたと思われ、タンスの上に置かれたカセットデッキからは『純恋歌』がエンドレスで流れていた。そして、任侠映画コレクターでもある。テレビの横に置かれた本棚には、ダビングしたビデオテープがぎっしり詰まっていた。

憧れのスターに一歩でも近づきたいのか、出かけるときの必需品は、ポマードぴっちりのヘアにサングラスと咥えタバコ。

だが、見た目と違ってやさしい父だった。幼いころは、よくわたしを自転車の荷台にのせて、土手をいつまでも走ってくれた。やせ型で少し猫背の背中だったけど、とっても広く感じたんだ。

「ふうこ、右と左がわからなくなったら時計の文字盤を思い浮かべろ。1時から6時が右、6時から12時からが左だ」

散歩の途中、左ききのわたしに、右きき社会(=幼稚園)でのサバイバル術を教えてくれたのも父だ。オトナになった今でも、この方法でわたしは生きている。

そして、母の方は――

遊びたい盛りの二十歳で結婚した母は、自分のことをチャン付けで呼ぶボディコン姉ちゃんだった。今でいうところの「ギャル」ですな。

ちょうどバブル景気がはじまるころだった。彼女の勝負服といえば、目がちかちかするようなショッキングピンクのボディコンスーツに、同じ色の口紅。尖ったハイヒールからのびるふくらはぎには、ラインストーンの蝶が舞っている。そして足首には金のアンクレット。すげー、これにふわふわの扇子もたせたら、ジュリアナ東京のお立ち台で腰を振るミニスカギャルやんけ! よぉ知らんけど。

昼メロカップル

そんなチンピラ父とボディコン母の運命の出会いは、母が務める会社だった。取引先の社員だった父が書類をもっていった際、受け取った事務の女の子が母だったらしい。まだ19歳でウブだった母に、父はビビッと一目惚れ。書類から電気でも走ったんだろうか。初対面のその日にプロポーズしたそうだ。

いささか情熱的すぎるが、それに乗っかった母も母だ。当時付き合っていた大学生のカレを振って、高卒の父を選び、そのまま結婚。「成人式は、結婚式の準備が忙しくて出られなかった」そうだから、スピード婚すぎるだろ。結婚式前日には、フラれた彼氏が家にやってきて祖母(母の母)に「〇〇さんにアイツは合いません」と直談判に来たらしい。昼メロか。

まぁ、母が結婚を急いだ理由は、後でわかるんだけれど。

そんな昼メロ熱々カップルから、新婚4年目にして誕生したのが、このわたしだった。夫婦関係は良好、というより良好すぎ。一緒に風呂には入るし、会社から父が帰ってくると母を抱っこ。キャッキャやっている。フランシス・レイの『男と女』が ♪ダバダバダ、ダバダバダ~と流れそうなほどに、男と女だったのだ。仲の良い両親を見ていると、わたしもうれしくなった。

見た目こそ派手な母だったが、家族の面倒はよく見てくれていたと思う。手作りのお弁当、手づくりの手提げバッグ、晩酌のつまみも父の帰宅時間に合わせてリクエスト通りのものをつくった。つくすつくすつくす。母の存在意義は、「わたしはかわいい」「わたしはつくす」という2本の柱で成り立っていたのかもしれない。

「ママのくちびるって厚いでしょ。これは情に厚い印なのよ」

と、鏡台の前で口紅を塗る母。いったん口を閉じてからムパーッと広げて満足そうにしている。

「ふーん。ねぇ、情ってなに?」

「オトナになったらわかるわよ」

当時のわたしは、ニコニコと同じ話を何度も聞いていたものだ。今後その「情」の凄まじさをたっぷり味わうことになるとも知らずに。

(続く)

スキを押してくださった方には、ドリンクをお出ししています。くつろいでね。