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真・一円玉を拾うと損をする話

一円玉を拾うと損をする、という話をご存じだろうか。屈んで、手を伸ばして、硬貨を拾い、立ち上がる。そんな一連の動作の消費カロリーを金銭に換算すると、実は一円以上の費用がかっている、というロジックだ。

この話を初めて聞いたのは小学生の頃だったけど、幼心にも「おもろ~」と感じたものだ。単にマジレスジョークに笑っただけではない。所持金という安直な基準だけに縛られず、物事の価値を多角的な視点で捉えるという発想そのものが、当時の僕には晴天の霹靂だったのだ。

屁理屈じゃん、と突っ込まれればまあその通りなんだけど。屁理屈や詭弁って悪用さえしなければ斬新な着眼点の坩堝だ。馬鹿な話にも何かしら一考の余地を見出すのが知性だと僕は思うし、割とそういう思索は好みである。

以下に連なる駄文は、そんな信念に基づいて上述の一円玉話をより掘り下げようとする暇人の思考実験のような試みである。これをリアルで披露したら「ワケ分かんないw」と一笑に付されて悲しくてここで供養しようとかそういう趣旨では断じて全くない。



さて上記の「一円玉を拾うと損をする」話だが、これは僕に言わせればまだ手落ちがある。つまり、一円玉を拾う際の消費カロリーのみに着目し、運動効果というメリットについて言及していない点だ。

運動不足が叫ばれるこのご時世、数多のダイエット秘術が商材として取引される昨今において、果たしてカロリーを消費する行為は単純なデメリットでしかないだろうか。瘦せ型の人にしたって同様だ。休日、惰性のままベッドに寝転がってスマホをポチポチする身体に、「健康のため」と鞭打ってまで運動を心がけるような我々だ。たった一回の屈伸動作とて、それは無駄な労力ではなく、寧ろ進んで取り組もうとしている所作の類型であるといえる。それに加わる形で、副次的に思わぬ拾い物が付随したと考えれば、「損」の定義そのものが覆りそうだ。なればこそ、諸手を挙げて一円玉は拾うべきかもしれない。


だが、この話は僕に言わせればまだ手落ちがある。つまり、一円玉を拾った際の、衛生問題というデメリットについて言及していない点だ。

まさか一円玉がリングケースや机上のナプキンに飾られている訳でもあるまいて、拾うというシチュエーションからして、そこは十中八九衛生的に悪しとされる場所だろう。流行病の影響で衛生意識がより一層高まっている現代において、これは看過し難いデメリットだ。硬貨なんてただでさえ汚いのに、ましてや路上に放置されていたモノだなんて。

帰宅したら手を洗うから大丈夫? そんな訳はない。一円玉を拾った直後はその手で財布にも触れるだろうし、スマホにも鞄にもやはり触れるだろう。例えばその日の夜、就寝前にポケモンスリープの準備をしている折、スマホを枕に落としてしまうなんてケースは全然想像可能の範疇だ。

するとどうなると言いたいのか。一円玉を拾った場所は、誰かがトイレ後に歩いた後だったかもしれない。否、可能性が0でない以上は想定に含めるべきだろう。つまり、トイレ床→土足の足裏→路上→一円玉→素手→スマホ→枕、という経由によって、あなたは実質トイレの床に頬擦りしているのと同義の状況に陥るのだ。全ての道はローマに通ずという言葉があるが、あれは裏返せば、屋外の路上とはあらゆる不衛生の源に帰着するという意味に他ならない。

で、その僅かで不可視の汚れなり雑菌なりが、周り周り周り周って体調不良に達する閾値の最後の1ミリを後押しする要因になろうものなら、被る損害とは数円云々のどころの騒ぎではないだろう。これは考慮すべき大きなデメリットである。(ちなみに僕は定期的にドアノブとかスマホとかイヤホンかを除菌シートで拭いてるような人間です)。


だが、この話は僕に言わせればまだ手落ちがある。つまり、一円玉を拾った際の体験価値というメリットについて言及していない点だ。

体験価値。つまり「一円玉を拾った」というイベント自体に対するラッキー! と思う感情だ。何を下らない、と軽んじることなかれ。確かに感情面におけるメリットとは数値的な勘定ができず、ともすれば無価値にすら思えてしまうかもしれない。少なくとも、物質的な利得が皆無であることは間違いない。

しかし人類とはライブや旅行に赴き、数多の娯楽を日々嗜み、時に不健康を承知で嗜好品を飲食をするような生き物である。人間とは、形無き体験における感情の起伏に、確固たる意味を見出せる種族なのだ。ましてや幸運とはその性質上、望み選んで得ることはできないタイプの体験である。とすれば、例えどれだけ金銭価値としては少額であっても、金銭を労せず得たという事実そのものに額面以上の稀有な価値を見出しても何らおかしな話ではない。自販機の当たりだってぶっちゃけ二本欲しいタイミングなんて早々ないけれど、当たったという事実そのものが嬉しいのだ。

……まあ、ここまで記事を読み進めてしまった物好きなあなたなら、色々なメリット・デメリットの要因が脳裏を過り、もはや「労せず幸運にも」などとは思えなくなっているかもしれない。いささか蛇足が備わり過ぎた結果、いざ衝動的に一円玉を拾ってみたはものの「カロリー使ったな。汚ねえな」などと腑に落ちない不満が渦巻いてしまうかもしれない。

さりとて再び路上に投げ捨てるのもまた愚行で、せめて二度と同じ轍を踏まぬと心に刻んで、この問題にあなたなりの一つの結論を見出すのやもしれない。そうやって人生の歩を少しだけ前に進める、あるいはその教訓こそが、あなたがこのイベントで得ることのできる最後のメリットと言えるのだろう。



最後に、この話にはもう一つだけ手落ちがある。つまり、一円玉を拾う際に時間を浪費しているというデメリットについて言及していない点だ。

これは考えてみれば単純で当然の話だ。屈んで、手を伸ばして、硬貨を拾い、立ち上がる。そんな一連の動作の消費時間を金銭に換算すると、どんな薄給バイトよりも待遇の悪い労働になる、というロジックだ。

見つけて足を止める⇒拾った硬貨を財布なりに仕舞うまでを早めに見積もって5秒と仮定する。5秒で一円、時給にして720円相当。東京都の最低賃金が時給1072円(10月からは1113円)だから、都内のどんな仕事よりも効率の悪い労働ということになる。

時は金なり、人生の時間は有限にして貴重である。タイムパフォーマンスなんて概念が流行したのは決して仕掛人が居た訳じゃなく、誰もが自ずと思い至った故の結果なのだ。これは、一円玉を拾うor拾わないの脳内議論において比重の大きな要因となるだろう。

とはいえここで時間の大切さを啓蒙し過ぎてしまうと、究極的には僕の記事が読まれなくなってしまうので、今回はここらで慌てて店仕舞いにする次第である。

冷静になるんだ。