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祖母の家

祖母の家がなくなった。

「一つの時代が終わったんや。」

父が芝居がかった口調で言ったので盛大にため息をついた。驚いた。なぜ教えてくれなかったんだと思った。

以前から壊そうかと話していることは知っていた。でもいつの間に実行されていたんだ。体から力が抜けていくのを感じた。




祖母の家。それは私の亡くなった母が育った家でもある。

母は四人兄弟の一番上で、妹が二人、弟が一人。祖父は若くして病気で亡くなった。母達兄弟はまだ小、中学生で、祖母は女手一つで育てた。母も家事を積極的にこなし、だから兄弟の中で母だけは料理が上手いのだと祖母はよく言っていた。


母が26歳の時私が生まれた。

赤ちゃんから幼稚園まで、分厚いアルバムに収められた私の写真は半分以上が祖母の家で撮影されたものだ。まだシワの少ない祖母はその頃50代後半で毎日畑に出て野菜やお米を作っていた。

祖母は四人も子供を生んでいるのに赤ちゃんの相手をするのが苦手だった。私がまだベビーベットで寝ているだけだった頃、母が祖母に短時間預けたことがあったそうだ。泣き出した私をどうしたらいいか分からず、畑に逃げたという逸話は今でも親類の間でよく話題にのぼる。

私には2歳下の弟がいる。母は私達を頻繁に実家へ連れて帰った。父も会社員から自営業になり、まだ軌道に乗らず、つまりヒマだったから一緒に行くことが多かった。祖母の家に行けば美味しいご飯(これは文字通りご飯。白米のこと)が食べられた。

小学生になっても相変わらずよく遊びに行った。いとこが増え、長期の休みになれば集まって遊んだ。私以外男の子ばかりだった。かくれんぼや忍者ごっこ、夏は畑でバッタを採ったりセミの脱け殻を集めたり、お正月にはみんなで早朝から初詣に出かけた。

祖母の家にはいつもお中元やお歳暮の箱が未開封で置いてあった。私は弟とその箱をワクワクしながら開けたものだ。ゼリーや果汁100%のジュースの時には「やったー」と言って冷蔵庫に詰めた。ビールだったら「なんやビールか」とがっかりし、佃煮は微妙で反応しづらかった。味付け海苔も嬉しかった。家では味のついていない焼き海苔ばかり食べていたので、祖母の家ではここぞとばかりに味付け海苔をバリバリと食べていた。

平屋の日本家屋。夏でもひんやり涼しい。冬は大きな石油ストーブを焚き、やかんからはシューシューと湯気の音。お餅やスルメ、鰯の丸干しなんかを焼いて食べた。

お盆に必ず祖母が作る盆汁。そうめんのつけ汁にごぼうやナス、かぼちゃ、里芋、人参、枝豆等を炊いていれたもの。父と母が必ず「ボンジュール、ぼんじーる」というくだらないダジャレを言う。その時の両親の楽しそうな顔。

だだっ広い和室。襖の落書き。夜にネズミが走る音を聞いたこともある。仏壇の線香の匂い。沸騰させ過ぎた味噌汁。ギシギシ鳴る薄暗い廊下。たくあんの匂いが充満した冷蔵庫にはヤクルトが常備されている。黒電話。恐怖さえ感じたぼっとん便所。固い布団はひんやりとしてなぜか心地良かった。

集う人々。みんなの笑い声。走り回る子供の足音。

いつの間にか全てが懐かしい風景に変わっていた。


一つの時代が終わった。


全盛期には20人ほど集まった祖母の家は、孫達が思春期を迎えたり、独立したりしてあの頃のように賑わうことは少なくなっていった。

急にぴたっと静かになった訳ではない。ゆるやかに少しづつ。

「一つの時代の終わり」なるものがあるとすればきっとその頃だ。そして母が亡くなってから。学校と家族だけが世界の全てだったあの頃、母と過ごした祖母の家。母不在のそこはあまりにも寂しく足が遠のいてしまった。

結局母だ。

いつの間にか祖母の家を解体されて憤っているのも、母との思い出がたくさんあるからだ。

私はしぬまで母のことを思い生きていくのだろう。それは気が遠くなりそうでいて、幸せなことでもあるような気がする。

祖母はどうだったのかな。子との別れの寂しさは想像を絶するものだ。大人になってからももう少し顔を見せに行けば良かったな。自分のことで精一杯になってたよ、ごめんばあちゃん。

祖母は今、老人介護施設にいる。社交的でおしゃべりが好きなので、叔母情報によると楽しく過ごしているそうだ。

面会できるようになったら会いに行こう。




弟夫婦にこの春、赤ちゃんが生まれた。我が家の子供たちのいとこだ。

新しい時代。

そんな言葉が頭をよぎった。今度はこの子達の番だ。



それでもまだ、更地になったその場所には行けそうにもない。

私の頭の中には今でも笑い声の溢れる祖母の家がある。



お盆を過ぎ、こんな長文を書いてしまったのもきっと母のせいだ。

どこかから、「ボンジュール、ぼんじーる」と聞こえるような気がする。

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