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ゆらぐ台湾語、言語の区別と切り替えと

別記事で、父が家庭内台湾語(ジュディ・オング式)教育をしたと書きましたが、じゃあ私は幼い頃から親とペラペラ台湾語を話していたかというと、

そんなに甘くない!!

母曰く、台湾語で話しかけても、単語くらいは話すけど、基本的には日本語で答えていたそう。(父、ごめんな)

しかも一人っ子だったこともあり、私がめちゃめちゃテレビっ子で、週末は朝から教育テレビ(今はEテレですね)をずーっと見たり、学校から帰れば16時台のアニメを必ずチェック、好きな番組は録画して何度も見たりしていて、親は台湾語シャワーを浴びせていたつもりでも、多分それ以上に日本語をめっちゃ浴びていました。

保育園の先生に台湾語をぶちかます事件

ただ、家庭内台湾語の功罪でもあるんですが、まだ小さい頃って、そもそも親が違う言語を喋ってるとか、わからないんですよね。

今でも覚えてるんですが、保育園のお迎えに、台湾の親戚が来たことがあったんです。
その親戚は当時日本に住んでいて、祖父母世代なので日本語が堪能(別記事:台湾という特殊言語 参照)。酒癖が悪いのがたまにキズだけど、私をすごく可愛がってくれた大好きなおじちゃんでした。

とはいえ、保育園の先生的には、誰やこのおっさん状態。謎のおっさんにホイホイ引き渡すわけにはいかないので、私に身元確認を求めます。

先生「リカちゃん、このおじさんはだぁれ?」

私「ギオンアペー」

先生「・・・はい???」

謎の言葉を発するリカちゃん、何度聞いてもそれしか言わないリカちゃん。。。
先生、私の家に電話。知らないおっさんがリカちゃん迎えに来ててリカちゃんに誰なのか聞いてもよく分かんないことしか言わないんですが…
母が「すみません!親戚ですので大丈夫です!」と言って無事に私はギオンアペーと手を繋いで帰ったのでした。

帰宅して両親から、
「リカちゃん、ギオンアペーじゃなくて、こういう時は『義雄おじさん』って言うんだよ」と。

義雄(ギオン)おじさん(アペー)

え、そんなの知らないし!!!!!\(^o^)/
ギオンアペーはギオンアペーとしてしか覚えてないし、ギオンが義雄だなんて初耳だし、てゆーか何で先生は分かってくれないの?
って感じでしたね。

この辺りからおそらく、どうやら家の中と外界は違う言葉を話しているらしい…という異世界アニメのような思考回路が脳内で出来ていったんじゃないかなと思います(知らんけど。

台湾帰省は完全放置プレイ

台湾へは夏休みと冬休みに母と帰ってました。
親戚みんな優しいし、食べ物は美味しいし、何よりも大好きないとこ達に会えるのが嬉しくて、いつも楽しみでした。

今自分が海外に嫁いで、身に染みてわかるんですが、
一時帰国って会いたい人多すぎて忙しい!!!

母もそうでした。
親戚や、友人や、お参りや…、でも、子供にとってはそれって全部超退屈で。。。言葉もそうだけど、何言ってるかよくわかんない大人達の集まり、行きたくない。いとこと遊びたい。

いとこは、母の弟(叔父)の娘&息子で、5歳上のお姉ちゃんと、3歳上のお兄ちゃん。産まれた頃からずーっと可愛がってもらってるので、特にお姉ちゃんのことは本当の姉のように思っています。

もちろん、母に付き合って親戚の所に行くこともありましたが、2週間前後の滞在中、毎日そんなのつまらなすぎる。

何歳の時だったかは覚えてないのですが、多分4〜5歳とかその辺で、私が母についていきたくない、いとこ達と遊びたいと言ったら、

「いいよ。じゃあ別行動ね」

となりました\(^o^)/

しかも、その日だけとかじゃなくて、滞在中ずっと。

それ以来、台湾にいる間、母は祖母の家に泊まって、私は叔父か叔母の家(従姉は叔母家に住んでる時期があった)に泊まって必要な時だけ母と行動するという、台湾内別居の夏休み&冬休みがスタンダードなるのです。

母は長女なので、自分の弟や妹に「うちの娘よろ」と命令できたというのもあると思いますがw、私がいとこのことが大好き過ぎて、会える時間はずっと一緒に居たい!という気持ちが強かったんですね。

相手は身内とはいえ、よくそんな放置できたな…と母の大胆さに感服するんですが、母は母で一時帰国中に子供に構わずに自分のしたいことできてたわけで、完全なるWin-Winとも言える…(笑)母、策士。

日本に戻れば言葉も戻る

いとこ達はもちろん北京語教育(従姉の時代は学校で台湾語を話すと罰金だったとか!)でしたが、台中の田舎は日常的に台湾語が飛び交う環境でもあり、祖父母との関係も近かったので2人とも台湾語ネイティブ。
私が北京語わからないこともあり、子供同士の会話も自然と台湾語縛りになっていました。

この記事を書くにあたってふと疑問に思ったので、台湾の従姉に質問をしてみました。

「ねえねえ、うちらが小さい頃さ、どーやってコミュニケーション取ってたか覚えてる?私、最初から台湾語喋れたわけじゃないと思うんだけど」

「んー、簡単な単語くらいはできてたよ。で、毎回日本帰る頃には結構喋れるようになってた」

なるほど、子供すげぇ。

ただ!子供のすごさは他にもあって、母によれば、台湾で夏休みを過ごしても日本に帰ってきたら即座に日本語に切り替わってたそうなんです。

きっと、飛行機に乗った先は台湾語の世界、戻れば家以外は日本語の世界、とわかり始めてたんでしょうね。

自然と台湾語が出てくるまで

日本でも台湾語で両親と話すようになったのは、小3の夏休み明け。

その年は台湾への帰省を2週間ではなく3週間にしたんだそうです。台湾内別居を始めて5年目くらいでしょうかね。きっと毎回2週間で「台湾語が上手になった頃に日本に帰る」という状態だったのかもしれません。

3週間、台湾語で話すことがある程度定着してから日本に帰ってきた私は、家で両親の問いかけに普通に台湾語で返したそうで!
た、立った…!ならぬ、喋った…!の瞬間。
母は相当驚いたみたいで、今でもよくこの話を親戚や友人にしています(笑)

そこからは、家の中でも日本語を混ぜつつ台湾語で話すのが普通になって、今に至ります。

ジュディ・オングにインスパイアされて浴びせ続けた台湾語。
台湾では期間限定で喋っていたとはいえ、親の努力が実るまで、足掛け10年かぁ。。。汗

両親、まじ乙やで。

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