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177 SFみたいな中世の世界

「源氏物語」と「光る君へ」

 今年のひとつの目標として「源氏物語」を読もう、というのがあって、いまは、『源氏物語 A・ウェイリー版』(紫式部著、アーサー・ウェイリー訳、毬矢まりえ訳、森山恵訳)を読んでいて、4巻のうち1巻がようやく読み終わりそうなところまで来ている。

 ゆっくりと読む派なので、まったく進んでいないけれど、大河ドラマ「光る君へ」を見ていて、その世界観はちゃんとシンクロしているからおもしろい。
 私の感覚では、文学的という以前に、これはSF作品のように感じる。自分たちのいまいる令和の時代と中世の世界は、地続きのようでも、まったく価値観も生活も生き方も違う。古い昔の話ではなくて、もしかするとこれは、いったん現代文明が滅んだあとに登場する未来の世界なのではないか、などと思ってしまう。
 大河ドラマでは主人公のまひろ(紫式部)はとてもアクティブだが、ほかの女性たちは静止しているように見える。あの大層な着物のせいで、ろくに動けないのではないかとさえ思える。
 だいたい、貴族たちの生活には、私たちが日常で感じている生活感がまったくない。メシとかドリンクとか、そういうの、ぜんぜん出て来ない。地獄のような店に入ってしまった感じもある。
 しかも当人たち以外の、いわゆるこまごまとしたことをするお付きの人たちは、なにを見聞きしても、そもそも存在していないかのように扱われている。「源氏物語」では、女のところに忍び込むにしても、誰かに見られてもそれが貴族でなければ、大して問題ではないのである。
 この時代の庶民は存在せず、ただ生きている人たちなのだ。彼らは自分たちの存在感よりも、誰の下で働くかという点ばかりが問題となる。
 さらに「源氏物語」は、ときどき語り手の意見が入ってくるので「その語り手は誰なのか」が気になるけれど、どうも語り手は複数にわたるようで、必ずしも作者ではないことになっている。あくまでも、そのときに光源氏の近くにいた者の証言、といった体裁なのかもしれない。ノンフィクション手法のフィクションだろうか。

怨霊と仏教

 さらにおもしろいというか、この時代の宗教観がいまとはかなり違う。全体的には仏教の影響がとても大きく、俗世を捨てて仏門に入ってしまうこともしばしばある。それでいて、陰陽師も存在し、怨霊を恐れている。呪いや祟りである。現世で酷い目に遭うことは、前世の悪行の報いだと考えたりもする。
 その意味で、貴族といえども、人として、あるいは操り人形として俯瞰から眺めている部分もある。それは「もののあわれ」に象徴される、一種の倒錯的な「美」でもある。悲しいこと、酷いこと、それを一身に受けている者は、美しいのである。人にそれを強いる側は醜いのである。
 それでいて、必ずしも「正義」を振りかざすことばかりではなく、人は人として反射的に行動しつつ、常に中国の文献を頭に入れておくことで、それと照らしながら解釈したがる。このあとの時代は、儒教が強くなっていき、勧善懲悪的な考えへと大きく傾いていくことになるのだろうし、実は私たち現代人もかなり儒教要素の影響を強く受けてしまっているから、中世の人たちの子どもじみた行動や感情に、戸惑ってしまう。
 実際、10代の人たちが多数登場するので、ドラマはかなり年齢の高い役者中心だけど、実年齢でもし再現したら、アラン・パーカーの映画「ダウンタウン物語」(Bugsy Malone,1976)みたいな感じになるのではないか。
 私自身は貴族のような不健康な生き方は好きじゃないから、ぜんぜん憧れないし、タイムマシンで行けると聞いても、行ってみたいとは思わない。空気は間違いなくきれいだし、水もきれいだろう。でも、カツ丼とか寿司はないからね、たぶん。そして子どもみたいな貴族たちが偉そうにしているのは、とうてい受け入れられないし。

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