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34 「才能はない」からのスタート

才能はなかった、と確認する人生

 あらゆることにおいて「才能」のある、なしは大きな要素になり得る。なり得るというのは、気にしない人にとってはぜんぜん関係のない世界だからだ。才能があってもなくても、ぜんぜん気にしないという人もいて、それはそれでいいことだと思う。
 だけど、自分に関していえば、才能のなさを確認してきた人生だった。いろいろやってみるわけだが、「あー、この才能もなかったか」と終わって「次行こう!」という感じである。
 子ども時代に、自分には音楽の才能があると感じたことがあった。しかしそれはハーモニカと縦笛の初歩レベルで消えた。歌も「声が変だ」と指摘されて終わっている。以後、音楽は大好きであるけれど、専門的に学ぼうというほどではなかった。音楽熱は、その後もときどきぶり返し、大学ではジャズをやっているサークルに所属していた。しかし楽器を買うお金はなく、一念発起してバイトして貯めたお金で楽器を買うのではなく北海道に旅行してしまい、それで終わった。
 絵画はもっと早かった。小学校の写生の時間に、すごく楽しく空を描いていたら教師から「やめろ」と言われた。「そんな空はない。写生なのに、自分で勝手に好きに描くのはダメだ」と言われて、そういえば自分はなんにも見ないな、と気づいた。絵は最近再び少しトライしているけれど、「才能ない」と自覚しているところからのスタートである。
 運動については、小学生の一時期、クラスの中で大きい方だったこともあっていろいろやっていたのだが、そもそも球技がダメで、ボール扱いがうまくなることはなく、そのまま終わった。あとは肥満の一途である。
 なにかを書くことについては、小学生の頃から大好きで、結局、自分の収入の大半はものを書くことで得ることになった。しかし、小説はいくら書いても他者からの評価は得られない。詩や短歌、俳句の分野についてはあまり興味がなく、鑑賞すれども自分では作らない。その才能はないだろう、と感じている。
 書くことへの執着、何時間でも飽きることなく集中している、あらゆることを諦めてもなお、書き続けたいと考えていることを考慮すれば、自分にとってはそのぐらいしか才能はなかったのだ、あったけど、その程度だったね、という気もしているし、「いや、わからないぞ」と思う日もあったりする。見えていない自分の才能はわからないからで、わからないってことにしておくのがもっとも穏当だ。

才能の見え方

 ふと、こんな図を考えてみた。

才能の見え方

 要するに、才能があるかないかは、「見え方」の違いではないだろうか?
 他人からの視点で、才能が見えていないときだけが「才能がない」と判断されてもしょうがないわけで、それ以外は、「才能がある」か「わからない」のである。
 通常「わからない」はあまりいいことではないが、こと才能については、「わからない」はとても魅力的だ。
 自称「才能がある」で生きてもいいし、他人から「才能がない」と言われたとしても腐る必要はない。「わからない」のだから。ただし、他者が認めてくれないときは、商業的には苦労することになる。金銭的、生活的に、その差はとんでもなく大きい。
 同じ野球の才能があっても、大谷翔平と日本のプロ野球のエース級の選手では生涯に得られる金銭のケタが違う。これは、「才能のある、なし」の問題ではない。才能があっても、そういう差はつくのだ。
 たとえ「売れない作家」であっても、作家として認めて貰えている(他人からの視点)があるのなら、「才能がある」。ただし、売れるか売れないかについては、さらに別の次元の才能が関係するのだろう。
 これを「運がいいだけだ」と言い切れるだろうか? 菅田将暉なら「縁だね」と言うだろうか?
 才能の見え方と、才能の活かし方(あるいは商業的価値のつけ方)はまた別だから、世の中は難しい。そして確かに、縁も不可欠だろう。

才能があると困るのか?

 「才能がなくて幸せだった」と言ってしまうのは、ありだろうか? なまじ中途半端な(特に商業的に恵まれない)才能は、人生を狂わせてしまう、と考えることもできる。その手の芝居やドラマはけっこうあるよね。
 上記のようなことをつらつら考えて微睡んでいたときに、SNSでこの記事を知った。
 祖父いいだももと、その書庫に残るもの(『はしっこ世界論 “祖父の書庫”探検記 第3回』飯田朔著)
 今年の3月の記事だけど、SNSでこれを紹介している人の言葉が今朝、私のタイムラインに流れてきたのである。どんぶりこと川に大きな桃が流れてきたようなものだ(もも、だけに)。
 まさに才能のかたまりのような存在だった著者の祖父。凄まじい才能については上記の記事を読んで欲しい。さらに著者は、その存在を取り上げた「生物学者の池田清彦が『がんばらない生き方』」の記述を引用している。私はそこに目がいった。才能も凄すぎると「疎外感」「孤独感」を伴うのではないかと池田は見ているのである。
「そりゃ、才能があったらいいな、と思いますよ」と街頭インタビューでも、きっと大多数の人が答えるのではないかと思うけれど、才能があり過ぎることによる「疎外感」「孤独感」までは、「凡人の私にはわからないですね」と笑うしかないような気もする。
 この時、ちょっぴり、「才能がなくてよかった」と感じるかもしれない。
 とはいえ、創作の入門みたいな本の多くが、「才能よりも技術と努力」と言いたがるのも事実で、それは創作が「教えられるものだ」との前提がある以上、才能がない人なんてこの世にはいないのであって、みんなが秘めている才能を表に出そうよ、おもしろいよ、と言いたいのだろう。
 それに「才能のない人はこれを学んでも一生ムリです」とは入門書に書けないに違いない。
 だけど、もしかすると、人生のおもしろさは、なけなしの才能に頼ることなく、または、あるかないかわからない才能に頼らずに生きることにあるのかもしれない。まだ自分でもわからない謎の才能を秘めているかもね、と思いつつ、時間切れになるまで楽しむのもいいような気がしている。
 

 



 
 

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