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過疎っていた平安京

現今の京都の賑わいを見ていると、さぞかし昔から、人の集中する人気スポットであったように思える。しかし、このようなイメージは、大概歴史書を読むと覆えされるのが常である。
歴史学者・桃崎有一郎の著書に、『平安京はいらなかった』(吉川弘文館)という刺激的なタイトルの本がある。この本は、私たちが学校の教科書を通してふわっと認知した「平安京」のリアルな姿を、史料を通して描いてくれている。
その中の一節が、現代とは対照的な「京都」の姿を摑む上で示唆的なので、以下に引用してみたい。

「一〇世紀末までに、右京の過疎化が決定的となって平安京の実際の稼働面積が東西方向にほぼ半減し、さらに左京の南半分の過疎化が決定的となって北半分に人口が集中した(八条院や平家による南半分の開発は、一二世紀半ばまで待たねばならない)。つまり、一〇世紀末の平安京の稼働面積は、平安京図の四分の一程度にすぎない。
 ここで、人口も四分の一に減ったのではないことに注意したい。むしろ、平安京の人口は微増傾向にあった。ならば平安京は、最初から四分の一の面積で全住民の活動を支えるのに十分であったと、考えざるを得ない。平安京は、最初から大きすぎたのである。」(桃崎有一郎『平安京はいらなかった』吉川弘文館、P142)

上記の引用文を一言でまとめると、「平安京は過疎っていた」ということになる。
平安京の修造・美観維持のために肉体労役を課される一般庶民にとって、平安京は住むにはあまりにも悪環境であった。そのため、庶民の逃亡が相次ぎ、京内の一部にしか人が居住していない、まさしく過疎な空間となってしまった。

このことを踏まえ、改めて考えてみると、「平安時代の京都」と「現今の京都」には、共通する問題を見いだすこともできる。それは、普通に生活を営む場としての「京都」の良し悪しである。
京都は、感染症で世界が覆われる以前、つまり2019年まで、観光客の急激な増加が問題視され、「オーバーツーリズム」の最前線として注目されていた。人口150万人の都市に、毎年約5000万人の観光客が訪れていた現実を見つめるとき、京都で生活する人に皺寄せがくることを想像することは容易である。
もちろん、平安時代の京都には、国内外からの観光客など存在しないわけだが、「一般居住者の住み心地の悪さ」という観点で考えると、どの時代にも同じような課題があったということもできるだろう。
今後の京都はどうなっていくのだろうか。


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