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日本の男は何がどうダメか

今回は、なぜ、日本の男は、従順な女が好きか。についてです。

これは世界の七不思議の一つですが、私は、日本の男女平等ランキングが世界でビリなことと関係していると仮説を立てています。

まず男は万国共通で、「若くて肌がピチピチでツヤのある女」は好きなもんではあるが、若い女は価値がある、年を取ったら女じゃないみたいな価値観は、日本に強い傾向です。

たしかに欧米では、理想とされる女性は、レディ・ガガのようなセクシーで派手な大人の女性を尊重する文化があります。一方で、日本はリカちゃん人形、男を"おもてなし"してくれる清楚系なきゃわいい女が好まれ、なにかと主張する女は毛嫌いされやすいです。

世間を見渡してみれば日本の男性は、全員ロリコンなのかと疑うぐらいです。

、、すみませんそれはジョークです。

キャバクラ、メイド喫茶、パパ活に始まり、流行している歌手やアイドルは10代ばかり、合法JKがブランド化されて、右も左もわからない純粋無垢な女のランドセル姿、、は流石にないけれど、制服姿で萌えていますね。

世界的にこれらに対応する現象は全くない。(ごく一部としてはあったとしても)

あるAVサイトでも素人、処女、清楚、アイドル、JKがバカ売れ。ぶっちゃけドン引きしました。ごめんなさい。

また日本のロリコンは、ペド(小児愛)というより、何も知らない純粋な相手をコントロールしている欲求が満たされるエゴです。

ロリコンのなにがわるいんだ!なんて風潮もありますね。

欧米にもパパ活はないことはないが、そもそも若い女に需要はあまりありません。「若い女」が好きという感覚は一般的ではない。日本よりかは、年齢や性別をさして気にしないということでもあるでしょう。また若い女と街を歩いていたら、冷たい目で見られる風潮もある。

白人男性と日本の女性のカップルはよく見かけるけども、白人女性と日本の男性のカップルはほとんど見たことないし、国際結婚の傾向でもそのようです。


、、、なぜ日本人男性にあるのでしょうか?🥺

WHY、ジャパニーズボーイ、ロリコン???



すべて日本的な理由ですが、答えはシンプル。簡単に述べたいと思います。

日本の女性は海外の男性をよく持ち上げるが、これは「日本の男性特有の問題」というよりも、女性含めた「日本文化の問題」と言える。

それは当たり前で、男性も、日本で生まれ育っているので、社会や文化から決定的な影響を受けますね。男性を責めても、どうしようもない。タイトルで釣ってなんですけれども、その点はご理解ください。


まず民俗学の伝統からです。

第一に、宗教的伝統に支えられた欧米流の夫婦中心でなく、村落的な子供中心主義です。日本の農村では、子どもは「我がムラの宝」と考えて、両親ではなく、爺ちゃん婆ちゃん、地域の人たちが「子どもを思いっきり甘やかして育てる」ことで社会性が伝承されてきました。

そして、日本の家族集団は、子どもをひとりの人格を持った「個人」として扱うというよりも、むしろ、「所有」(「コントロール欲求」)として考えがち。だからこそ、日本ではむしろ子どもの側からだけではなく、親の側からも自立が求められない場合が多く、「心中」もしばしば起こる。


第二に、「触らぬ神に祟りなし。長いものに巻かれろ。滅私奉公」という日本語が代表です。

これらは、「我」を殺して、「身勝手」をしないでおけとなる。それは「上位」の者に対する絶対の服従、従順さ、奴隷を求めます。

つまり、自分の意見を発表する、西洋的な個が姿が少しでも露出すると「日本人集団」はそれを一切許さず、「偏屈」「屁理屈」「身勝手」として排除します。

このように、「権威、権力へ服従をしろ」との考えは、実際は、徳川の江戸時代から今日まで、形こそ変っているが、根強く、日本人のなかに残ってきています。

「長いものに巻かれよ、太いものには呑まれよ」と服従をすすめる教訓は、支配される民衆にとって、心がけるべきこととされてました。

明治政府の指導者たちにとっても、このような権力への無条件な服従心を植えつけることが、権力をたもつための、一つの大きな手段とされていた。戦前の「天皇は神」はそれらを端的に表します。


第三に、日本人の人間関係。

今回はここを強調したい。

日本人の心理について、そのおもな特徴を、いままで記事を含めて色々あげてみたけれども、そのような心理を生み出してくる土台の一ばん下には、日本の社会構造があり、さらにそのなかの人間同士のつながり、人間関係がある。

人の心は、このように根本的には、社会構造から決定されるが、より直接的には、人間関係のなかから生まれてきます。だから、アメリカで育てば、堂々と自己主張できる人間にもなれるし、逆に日本だと、国籍や血はなんであれ、周りをキョロキョロしやすい傾向になる。

日本の社会構造は、西欧の建前(個人の自由だの権利だの)でありながら、なかば明治以前の前近代の関係のナゴリをひきずってきているところから、その土台にたっている人間関係にも、近代的な面と、前近代的な面とが、いりまじっている。そうした複雑さが見られます。

日本の人間関係で、近代化されていない要素は何かというと、大ざっぱにいって、けっきょく、人間と人間とが、「義理」「情」「関係性の重視」という「社会的な約束ごと」でむすびつけられていることです。


これらがどのように日本人の社会心理、最終的に、男のロリコンに影響しているか。

「義」とは、日本語で、いろいろな意味をもっているが、一般に、「義」は、各人が、自分の「やるべきこと」を「わきまえて行動すること」であり、「義理」とは、その道理です。

だから、義理とか義というのは、社会生活のなかで自分が他人に対して、どのような関係にたっており、したがってどのふるまうべきであるかについての「約束ごと」です。そうした約束ごと、義務とはちがって、権利の裏付けはありません。

義理は、むしろ、自分が他人に対して「とるべき態度や行動の約束ごと」です。そうして、それが一般的にひろくなれば、「世間」に対する義理としての「世間体」がでてきます。

義理は、親子、夫婦、友人、目上、目下、初対面とのあいだで、いろいろな形をとってあらわれるが、いずれにしても、むかしからきめられた約束ごととして、理屈ぬきにそのまま、「子どもらしさ」「大人らしさ」「男らしさ」「女らしさ」「社会人らしさ」などなど、「あるべき姿」としてふるまうことが要求されます。

だからこそ、日本人は、お中元・お歳暮のお返しもするし、メッセージの返信もできるだけ早く返そうと努力するし、コロナ禍のマスク着用もほとんど皆します。

「世間に対する義理」は、ある者にとっては、向う三軒両隣りだけが世間であり、また政治家たちは、ひろく社会全体を世間として考えるだろうし、したがって、世間に対する義理も、いちばんせまい範囲では、「近所」であり、「近所付き合い」が大切とされて、その付き合いの「やるべき約束事」が今でもある。

「世間体に悪い」とか「顔に泥を塗る」とか「世間様に申し訳ない」ことをしないのが約束です。

つまり、義理は、日本人の集団が形成する「場にいれてやってんだから、あんたは場をわきまえろ」という意味でもあるし、「欲」をださず、「身勝手」せず、自分のおかれているところに満足することであり、前にのべた「自分殺し」、武士の滅私奉公の精神、強制的な約束ごとです。

何よりも、一般に、義理とは、目上が目下の者に、忠誠心と奉公を要求することから起きます。そのかわりに、目下に対して、いろんな形で愛情と感謝の念をもつのが、目上の、これも義理なのです。つまり、やるべき約束事、です。


たとえば、武士の忠義奉公に対しては、「主君の愛」があって、けっして忠義は、一方的な犠牲だけではなかった。また「恩」ということばも、むかしは、目上の者が目下の者から受ける奉公に対して感謝する意味にも使われました。

一方的なものでなく、主君から大切にされる御恩の程度に応じて、奉公すればよいという考え方は、武士道の本で、しばしば見られます。

こうしてみると、忠義とか奉公も、徳川時代、またそれ以前の武士のあいだでは、交換とか契約のような意味あいを相当ふくんでいた。

ところが、明治以後、民衆をうまく服従させるために利用された天皇制への犠牲的な滅私奉公の面だけが強調され、権力への絶対服従と「自分殺し」が国民の全体に要求され、一方的な義理の意味が強くなります。

「すべて天皇に仕へ奉るつとめの真心から出発」するとか、「己を滅した真の奉仕」が、「臣民の道」とされ、「この奉公の生活以外に……私生活と称すべきものは存しない」(『臣民の道解説大成』昭和一七)

これは、むかしの義理の一種としての忠義とは違った絶対的な奴隷です。

むかしの足軽ならば、ぱーっと逃げ出してもよかったのに天皇中心の社会では、

「務めても務めても、これを以て足れりとはしない」だけでなく、「その最後に直面する時の死が、最も価値の大なるものである。」(『産霊の産業』)

天皇のために死ぬことの大切さを説いています。実際、そのおかげでしょうか、太平洋戦争では、日本兵の戦死者の内、6割は餓死です。立派なもんです。ここでも「絶対的な奴隷」。

驚くべきことは、戦後の今日でも、全く反省せず、「滅私奉公」を強制します。


次に、親子関係では、義理は孝行としてあらわれます。この場合には、「親子の愛情と義理」が結びついているようです。しかし、家長としての父、現代の子育て環境では、母に対しては、子が支配と服従を求められやすい点では、外国で見られる親子の愛情に、義理として、子の「やるべき約束事」が加わります。

同じ親子でも、義父母との関係、結婚後のヨメシュウトメのあいだでは、色々な義理が出てきます。

日本の家族関係の極めて特徴的なことは、①漁村を除けば、農村ではほとんど家長としての父が、同じ親でも母より遥かに大きな権威を持っていること、②長男の位置付けが高いこと③、権威を持っているはずの強い父親は、大抵、身の回りの世話は一人でできず、妻を「母さん」とよび、べったり依存すること。


外国人、とりわけ外国の女がよくいうように、日本の男はかなり草食系で、「頼りない、男らしくない、女々しい」なんて有名ですけれども、にもかかわらず、彼らは「権威」を持っている、どう考えてもおかしい。これまでからも分かる通り、日本の男、というよりも、日本人の、ずるさ、、利己心だけではなく、自信のなさ、自我の弱さのあらわれであり、「本当の男」になれない「大きな赤ちゃんの自覚」があるからこそ、「権威」にしがみきます。


だから、「女」のパンツの下だけで「本当の男」「強い男」気分を味わいたい。


これこそが、日本人のあいだに根強く残っている男尊女卑の考え方の土台であり、世界的にみたら「草食系の男」だからこそ、男女平等ランキングも世界ビリという名誉を与えられます。


「男として」「男らしく」「男と男の裸の付き合い」「男をあげる」「男勝りの」「男気じゃんけん」「男の一言」というような日本語が聞かれるのも当然です。

このように日本人の父と長男の間では「権威」ができていると同時に、母と娘もそれに対抗するようなチームができやすい。

日本人の母の娘に対する「過保護」「過干渉」の傾向はこれが極端になった場合だろう。

このように、日本の家族関係が日本の社会で果している大きな役割は、外国のようにそれが一つ一つの家族のなかにとじこめられたものではなく、日本の人間関係のすべてにわたって、家族関係的な型がひろがっているところです。

日本の家は「親子の関係を主とし、家長を中心とする」から、外国の「夫婦中心主義」とはちがう。

「従つて孝行が重んぜられるのは当然の事」(前出『臣民の道解説大成』)といわれていた。

この親子関係の義理は、権威を持つ父が、

「家族全体の上に立つて、権限と指導力とを持つてゐることは、恰も軍隊における上官のそれに変りはない」(前出『産霊の産業』)

というように、家族の集団を基本の形として、他の社会集団をすべてそれにならうやり方が生まれてくる。


ここで日本人の特有な人間関係に対する依存、家族主義の人間関係が生まれてきます。

自分の妻や夫を「母さん」「ママ」、「パパ」と呼び、サービスの店員を「お姉さん」「お兄さん」と呼び、見知らぬ中年の男女を「おじさん」「おばさん」と呼び、キャバクラやバー、旅館の女を「姉ちゃん」「ママ」「カミさん」と呼ぶ。ヤクザにありがちな「アニキ」「アネキ」の親子子分。

日本語の極めて特殊な用法です。 

先ほども日本は「子ども中心主義」の文化だと述べたけれども、

親と子のつながりに似た人間関係のなかで、はじめて作り上げられるというところに、おとなになっても家族的な関係によりかかろうとする日本人の心理があり、自我の発達しない原因がある。いいかえれば、精神上のこどもらしさが、日本人、日本の大人には多分に残っているのです。


このような家族主義の関係や、親分子分の関係は、家族のなかだけではなく、社会集団のなかでも、あるいは親の役割を、あるとき兄弟、あるときは子の役割をさせています。

日本人の大部分が、家族以外の社会集団のなかでも、家族、親子的に関係を見出すことから、日本人の心理に、家族的な、狭くて居心地の悪い感じ、なれあいの傾向がうえつけられます。

日本の人間関係に独特な、「親心」や「温情」主義はそのあらわれです。

その典型が藩であり、天皇であり、終身雇用、年功序列でした。

それは、目上の者が愛(親)をもって、目下の者を子どもとしてかわいがり、大切にするだけではなく、同時に「いつまでも子どもとして扱う」ものでもあり、「自分は高い所にいる」という自覚でもあります。

だから、「親心主義」は、目下の者を内心では「見下す」、「軽く見る」傾向です。「年下のくせに」なんて軽蔑の念をともなうことが多い。あるいは、本人それに気づかなくても、「高い所」にある自分が、見下している点では、家長の権威とおなじこと。


自分がコントロールできる範囲に「快感」を覚えて、制御不可能なノイズを避けがち。

強い男になれない自覚、近代に失敗したことから起こる矛盾。


その意味で、日本の男のロリコン、根強い男尊女卑の文化は、封建的な、上下の人間関係が生んだ、特殊な心理の産物とも言える。


また、一人一人の人間についていうと、各々が、一種の着物を着て、やはり、生地をむき出しにしないで、もやもやして、生活している。

外国人からみて、日本人の男は、「何を考えているか分からない」とか、「草食系だ」と批評されるのも、この特殊な人間関係についての理解が浅いことからくる、表面的な見方です。

新しい日本を生み出すには、日本人みずから、自分たちの悪いところをよく理解すること、自覚することでもあるし、むかしからの名残りであるモヤモヤした人間関係、息苦しさ、そこから生まれる社会心理、社会の土台を作り直すことにも努力しなければならない。まずスモールユニット、一人一人が意識しなければそれは難しいからです。

日本人のアラ探しをしているように見えるかもしれない。けれども、自分たちの姿のありのままをみる努力を怠れば、より良いものはぜったい生まれない。いやなことは、ささっと片付けてアップデートした方が良いと考えます。


、、、以上大まかですが、3点です。日本人の全体的な幼児的な性格が、男にとってみた場合の、特殊性として表れる、その前提や背景、今後の未来への期待について、のべてみました。

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