見出し画像

「自己」と「他者」(Yayから学ぶ哲学)

最近は、うつ気味で、精神的に大変苦しく何もかも投げやりになり、自暴自棄な状況がありました。(詳細は省く)

多くの人が、今年ほど〈死〉をリアルに感じる、或いは、〈死〉が身近に感じることがある年は後にも先にもあまりないでしょう。最近では、東日本大震災以来かも知れない。

少なくとも、私はそうでした。

個人的な生きる苦しみ以外にも、未知の感染症の流行がそれであり、著名人の自死がそれである。



〈死〉と向き合うとはどういうことであるのか。そもそも〈死〉とは何なのか。思考を深めていきたい。

〈死〉とは〈根源的に分からないもの〉です。

私は仏教徒でもありますから、仏教の思想を参考にすると、仏教の究極目的は〈悟り〉=〈ニルヴァーナ〉であります。

しかし、これについては、このこと(悟り)がどのような状態を言うのか、経典には具体的な記述が一切ありません。経典から学べることは、少なくとも、〈悟り〉とは〈ブッダ(お釈迦様)の死〉なのだと言うことです。

とすると、ブッダとは、〈〈死〉を目指して生きること(者)〉が〈必須条件〉であり、自己の存在が死によって意味を持つような生き方をする者です。

〈不老不死〉〈永遠のJK〉〈永遠の●〉など言葉が溢れていますが、

死によってのみ肯定される生。死によってのみ肯定される自己。

このようなユニークなアイディアは、およそ仏教以外の宗教や思想にはみられません。


〈死〉と向き合うと必然的に〈自己〉の存在が浮上します。

死と自己について考えていて、もう一つ思ったことは、最近〈多様性〉というような言葉が溢れる時代になりましたね。

そこで〈多様性〉の意味。この言葉にどのような意味を読み取るかは、人それぞれかもしれせんが、私はこれはそう簡単に表現できる文句ではないと思うのです。

私達の社会問題として多様性を挙げるとすれば、その最も直接的で非常にシンプルな意味は、なんといっても、〈人それぞれ〉でしょう。単に〈自分さえよければ…〉ではなく、〈自己〉と〈他者〉の〈共生〉を指します。

だとすると、〈多様性〉とは、自己も他者も、人種、民族、言語、文化的・宗教的背景などで様々に異なることを言うのだと思います。

だとすれば、話を要点をまとめると、「多様な、違った、異質な他者との共生」ということになり、これは簡単なことではなく、それを実現するには、すでに言われているように「寛容さ」、もっとはっきり言えば〈覚悟〉が必要だと思いました。


特に!〈同質〉(お互い同じである共通前提や共通感覚)が重要な日本人社会では一筋縄ではいかないと感じています。

私がお手伝いしているYay🤟という音声&匿名コミュニティアプリにいても日々感じます。

とりわけ日本の若年層は〈共通前提〉や〈共通感覚〉に欠けているので、コミュニケーションが前に進めることが困難になります。

そのことが〈過剰同調〉〈ノリが良い/悪い〉というように〈多様性〉と真っ向から反対する閉鎖的に対人関係になっているようです。


そもそも、〈他者〉は〈死〉と共通している要素があり、〈根源的にわからない存在〉だからです。

この〈わからなさに耐える力〉が日本人、とりわけ若年層は圧倒的に欠けていると考えますが、どの世界でも、どの時代にも共通しています。

このわからなさは、死のごとき「絶対的わからなさ」とは、すこし性格が違うのです。

他者のわからなさは、〈絶対的理解不能〉というわけではなく、わかるところもあればわからないところもある、そのわかるところが突然わからなくなったり、わからなかったところが急にわかるようになったりする、そういう意味での〈根源的なわからなさ〉です。

例:なんで「A」君はそんなことするんだ

このように「他者がわからないということ」のもっともシンプルな例は「裏切り」です。

つまり、「他者」とはなんなのか?

言い換えると、それが〈裏切る(ことがある)〉実存だということであります。

〈裏切る〉という言葉が成立するためには〈なんらかの圧力〉が必要です。

それが自己と他者の間で起こる圧力、すなわち〈期待〉です。

期待とは、〈意のままにしたい〉という煩悩、欲望の表れです。

だからこそ裏切りに対して敏感であり、人は〈他者に対して怒る〉のです。

(場合によっては自己に対しても怒る≒自己嫌悪)

そして、〈他者が他者であること〉(他者性)を決めるもう一つの決定的なあり方は、それが「自己の根拠となる」実存だと言うことです。

考えてみればわかる。私たちは〈自己責任〉と散々言われるが、この〈自己〉は、なにも自己決定をして生まれてきたわけではありません。つまり、自己責任なんかとりようのない話。究極的にいえばそうだ。要するに、自分になりたくて自分になったわけじゃない。この〈私〉は他者との関係のおいてのみ存在します。

自己がなんであるかを決めるのは、自分ではありません。

他人から〈勝手に生まれてきてしまった〉ことに始まり、言語による思考、直立二足歩行、周囲の人に教えられることを通して〈人間〉になります。その意味でいうと、やはり、人間とは〈社会的動物〉なのでしょう。

要するに、〈自己の根拠〉は〈他者〉を根拠に決まるのです。

〈自己〉、すなわち〈私〉とは〈無理やり着せられた服〉なのです。

こんなに居心地が悪いものはない。だから〈他者〉に憧れる。

さて、すると、〈自己〉とは、〈裏切る(かもしれない)実存から無理やり与えられる、あるいはそれを根拠とする〉実存です。

簡単に言えば、思う通りに動いてくれない他者との共に生きること。

つまり、〈多様性〉と〈共生〉は、そもそもするかしないかという選択の問題ではなく、初めから〈覚悟〉が必要なのです。

いかに同質な傾向が強い日本でも同じ。同じ日本人だろうが、やはり、人間ですので、みんな違って当たり前の話です。

それがますます〈多様〉になれば、ますます〈面倒な〉になるのは当然のこと。


「裏切る(かもしれない&思い通りに動いてくれない)他者」を存在条件として生きることは、すでに大きな負担が「自己」にかかることを意味すると思います。

それはすなわち、〈自分の思いどおりにならない他者と、どうやって工夫しながら付き合っていく〉かしか、我々に生きる道がないことを意味するからです。



そう考えたとき、私が思い当たるのは、人々の〈ペット〉に対するある種の〈自己中心的な〉態度です。

 ペットに対して、異常なほど〈愛情〉を注ぐ人々がいますが、この「愛情」は、いわば〈他者が他者である〉ことを消したい欲望ではないかと、私は思います。

つまり、ペットは自分よりも格下の存在であるから、支配・コントロールできるという実に人間らしい〈愚かな〉発想です。

もちろん、これはインターネット上に散見されるように、〈お前をペットにしたい〉〈めんへーら女が好きだ〉も共通しているかと考えます。

以前、学生限定SNSひま部(Yay🤟の前のアプリ)で、ある女を〈性奴隷〉のごとく扱っていたある男と話をしたことがありますが、そのとき私が「そんなにかわいい?」ときくと、

相手は即座に「そりゃな。この子は俺に従順だから!」

では、この言葉を、「裏切らないから愛する」と読み取ることができれば、その背景には「自分の言うことを聞くから愛する」という支配の意思があるでしょう。それはすなわち、相手を支配・コントロールしたい欲望の存在を意味します。

〈支配・コントロール〉とは〈他者〉が他者であることの否定します。すなわち、それは自己の根拠である他者を否定することになるので、自己も否定する厄介なことになります。

もし〈他者〉の存在を認める、それはすなわちこうなります。

〈裏切る(かもしれない&思い通りに動いてくれない)他者を自己の根拠として認める〉態度があれば、それは〈敬意〉です。

人は尊敬する人物を自分の〈支配下〉に置きたいとは思わないでしょう。むしろ、〈自分があのような人になれたら〉と思うはずです。

その〈敬意〉の最たるものを、自分が死ぬことを〈覚悟〉の上で、命をかけて困っている弱者を救う、と鬼滅の刃から、わたしは見ました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?