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人生で大事なことを、BUMP OF CHICKENは教えてくれなかった

雨降りの日、息子と散歩しながら出会った風景を、アイキャッチにした。

なんてことない丸い葉っぱ。その周囲にだけついている水滴、これは雨ではなく、水孔から余分な水分が押し出されたことにより付着しているものらしい(とグーグル先生が教えてくれた)。もちろんそのとき、僕は、そんなことを知らない。僕は、幸福を象徴する風景として識別する。息子と一緒にいられる時間、束の間、スロウに流れていたような感覚。人生とは、生きるとは、こんな貴さもあると感じることができた。

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日本のロックバンド、BUMP OF CHICKENのことを書く。

「人生で大事なことは全てBUMP OF CHICKENが教えてくれた」というタイトルをつけようと思っていた。まるっきり真逆(のよう)に振ったのは、「僕が教わった(受動態)」だけであり「彼らが教えた(能動態)」という言葉の綾が理由ではない

少し長くなるが、この先の詳述にお付き合いいただけると嬉しい。(なお、以下はあくまで僕の解釈に過ぎず、「BUMP OF CHICKEN論」をロジカルに語ろうという意図はない。穿った解釈も一部あるが、それは僕自身の側に穿ちや歪みがあると思ってもらえればと)

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僕とBUMP OF CHICKENの出会いは高校生のとき。高校の自習室で勉強していたら、友達の山本くん(山ちゃん)がMDを貸してくれた。そこにBUMP OF CHICKENの曲が入っていたというのがきっかけ。「ラフメイカー」という曲に、僕は度肝を抜かれた。

イントロ抜きで「ラフメイカー」の歌は始まる。

涙で濡れた部屋に
ノックの音が転がった
誰にも会えない顔なのに
もう なんだよ どちら様?

「名乗る程 たいした名じゃないが
誰かがこう呼ぶ”ラフメイカー”
アンタに笑顔を持って来た
寒いから入れてくれ」
BUMP OF CHICKEN「ラフメイカー」より(「ダイヤモンド」収録)

「俺」と「ラフメイカー」の青春群像劇が描かれている。

「ラフメイカー」が示す優しさに対して、「俺」は部屋の中で「冗談じゃない!」とずっと叫び続ける。「俺」は泣いている、怒っている、絶望している、SOSを出せないでいる。「ラフメイカー」は困惑しながらも寄り添い、最終的に「俺」の笑顔を引き出すという物語。紛れもなく物語だった

僕はもう17歳の高校生ではない。
倍の年月を経て、今や34歳の大人になっている。

今、あのときの僕のことを振り返る。記憶の糸を辿りながら「もしかしたらこうだったんじゃないか」と気付いてしまった。僕は「俺」に、そしてBUMP OF CHICKENに共感していたのかもしれない。

多かれ少なかれ、ファンはアーティストの発するメッセージに何らかの共感するだろう。BUMP OF CHICKENのファンも、藤原基央さんが紡ぐ物語に共感し、共鳴し、拠り所として頼ってきた方は多いはず。だけど若かった僕は「BUMP OF CHICKENは好きだけど、彼らに傾倒しているわけではない」と、意味もなく強がっていた気がする。

強がりを保持できた理由は、環境要因が大きい。当時在籍していた学校(田舎の公立男子校だ)は有難いことに、そこまで深く悩まなくても生き抜ける環境だったのだ。わりとサッパリした人たちが多く在籍していたので、時間が経てば時間が経てばある程度の事件は解決した。

解決したと見做される、というのが正確な表現だ。

僕には人並みに人間関係における悩みがあった。「あいつから嫌われてしまった」という事実に気を揉み、憂鬱になった。そのことで直接的な解決に向かおうとしなかったことで(周りからは「さっさと謝れ」と言われたが、謝る理由がなかったので謝らなかったのだ)、余計、人間関係をこじらせてしまった。「どうでも良い」という態度をとってみせたが、本心でそう構えられるほど当然ながら成熟してはいない。

何回転んだっていいさ
何回迷ったっていいさ

BUMP OF CHICKENの物語は、いつだって僕を励ましてくれた。

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2019年1月2日〜3日で開催された箱根駅伝、スポンサーのサッポロビールが恒例の特別CMを作った。テーマ曲として採用されたのが「ロストマン」だった。ファンの間では「歌詞がなかなか完成せず、楽曲完成まで1年前後の時間を要した曲」として知られている。

強く手を振って あの日の背中に
サヨナラを 告げる現在地 動き出すコンパス
さぁ 行こうか ロストマン

破り損なった 手造りの地図
シルシを付ける 現在地
ここが出発点 踏み出す足は
いつだって 始めの一歩

君を忘れたこの世界を 愛せた時は会いに行くよ

間違った 旅路の果てに
正しさを 祈りながら
再会を 祈りながら
BUMP OF CHICKEN「ロストマン」より(「ユグドラシル」収録)

社会人に成り立ての頃、独り過ごすワンルームマンションの一室で、眠れずに苦悩する日々を過ごすことがあった。

時期は憶えていない。弱さ、脆さ、未熟さ。自他が招く災難としか思えない悪夢に、哭くこともできずに苦しんだ。モヤモヤしながらも時間はあっという間に経過し、すぐ朝はやって来る。何一つ解決しないまま、僕は労働に向かわなければならない。一日を始めなければならなかった。

決して止まることがない「現在という現実」への処方箋として、「ロストマン」には何度も救われる。「状況はどうだい」と自問し、そのたび、あらゆる何かは留保できること / この旅路は絶対に間違っていることを信じることができた。

でも、あるとき気付いた。
それじゃダメだと。

弱さや脆さは、人間誰しもあるものとして認めはするけれど、その世界の中でいつまでも、行き場を無くした子猫のように振舞ってはいけないと。勇気を持って踏み出す一歩を、「君」との再会を期しながらなんて虫が良すぎると。

それから数年経ってようやく。何とか自分自身に折り合いをつけて、音楽(≒物語)なしで生きていける術を身に着けることができた。物語をフィクションとして捉え現実と一線を画することができれば、社会に蔓延る論理に身を委ねやすくなる。善し悪しではなく、そんな風に僕らは社会から求められていたんだ。

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最新作「aurora arc」が発売されることがきっかけだったのだろう、6月末からBUMP OF CHICKENのストリーミング配信が開始された。久しぶりに過去作品を拾いながら(満員電車の地下鉄に耐えながら)聴いていたら、藤原さんの優しい声が流れてきた。

お訪ねします
この辺りで ついさっき
涙の落ちる音が聴こえた気がして
駆けつけたんだけど 誰の涙かな
そういや君は ずいぶん 赤い眼をしてるね
BUMP OF CHICKEN「Opening」より(「THE LIVING DEAD」収録)

すっと僕の胸に染みたのは、何か特定の言葉だったわけではない。

偶然そのとき、僕は赤い眼をしていたような気がする。「気がする」と書いたのは、悲しみや怒りに対して無自覚に蓋をしてきたせいで、自分がどれくらい傷ついているか(傷ついていないか)が分からなくなっているからだ。「昔、あんな辛い経験をした」という比較対象としての物事があって、その頃よりは全然マシじゃないかと言い聞かせるのは自己肯定感を得る上でとても大切な能力だ。だけど、それは自分の感情に対して向き合えなくなっているということでもある。

これって、もしかして。

間違った旅路の果てに、BUMP OF CHICKENと再会したということなんだろうか。だとしたら、なんて示唆的な存在なんだろうか。

*

そろそろ結びにしたい。
今年35歳になる僕が、朧げに気付いたことがある。

現在、「物語」あるいは「物語り」が世の中から失われつつあるのではないだろうか。物語をフィクションやファンタジーのような偏った側面で捉えられることが多くなって、ファジーな物事に関する社会の寛容度が著しく低くなっている気がするのだ。

例えば、人や製品を「有能 / 無能」で判断すること。本来自由に語られるべき言葉が、知らず知らず他者評価や歪んだ合意形成といった限定的な用途にのみ用いられてしまってはいないだろうか。その用途だけが言葉の持つ効用であると認知されていくのだとしたら、未来には、自由なんてきっと存在しないだろう。

言葉が、物語が、「140字」というフォーマットに縛られる必要なんて何処にもない。

物を語る、ということ
物が語られる、ということ

その意味を、僕はもっと深く考えてみたいと思うのだ。

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