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逃げるは恥じゃない。(菅野久美子『母を捨てる』を読んで)

4月上旬、衆議院議員の谷川とむ氏の「ドメスティックバイオレンスや虐待がない限り、離婚しづらい社会になる方が健全だ」という発言が問題視された。

社会のバッシングを受け、谷川氏はXで釈明のポストをした。

が、あまりに狭い家族観に基づいた考えであると裏付けただけだった。“健全”という言葉が都合よく用いられているが、要は「(家族から)逃げられない」社会を望んでいるに過ぎない。

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今回紹介する、菅野久美子さんの新著『母を捨てる』では、両親が離婚しなかったばかりに、母から虐待を受けた菅野さん自身の壮絶な幼少期が描かれている。

「あんたたちがいるから、お母さんは離婚できない。離婚したら、みんな離れ離れになるのよ。弟ともお別れになるの。久美子も、お父さんと暮らしたくないでしょ」
いっそのこと離婚してくれればよかったのに、と思わない日はない。すべては、この結婚生活を維持することが悲劇のはじまりなのだ。

(菅野久美子(2024)『母を捨てる』プレジデント社、P163より引用)

本noteでは引用を避けるが、本書で記されている菅野さんが受けた幼少時代の虐待は壮絶だ。周囲に“バレない”ように、毛布で息を詰められ、また浴槽で顔面を沈められる。声が出ないように、アザがつかないように、毎日のように恐怖が菅野さんを襲ったそうだ。

本書では幼少期の虐待や無理心中未遂を生き抜き、徐々に開かれた世界へとアクセスできるようになった著者の人生が記されている。「おわりに」で記されている、「ここまでよく生きてきた。偉いよ。がんばったよ。私は私を、そして紙面の向こうのあなたを、褒めちぎりたい。そして頭をクシャクシャ撫でてあげたい」というのは本音だろう。

ただ母と別れ、仕事に邁進する現在も、「母が絶対」だった頃に受けた傷はフラッシュバックすることがあり、気分が落ち込むことがあるそうだ。本書では個人的な経験とともに、ライターとして家族問題について取材した人たちに対する思いも馳せられている。

冒頭の谷川氏のような発言は、これらの傷や暴力性を全く想定していないものだろう。「捨てる」「逃げる」ことを通じてしか得られないものの存在を、全くイメージできていない。こういったケースは“稀なこと”ではないのだ。常に社会のどこかに存在するも、秘匿あれ、人の目に晒されないところで蠢いている。

菅野さんの著書が広く読まれることで、社会が、弱き者たちを受け止める存在であることを切に願うばかりだ。

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「捨てる」という言葉は、「何を」かによって重みが変わる。

ごみなら、ゴミ箱に放り投げればいい。しかし人間であれば、なかなか「捨てる」ことは叶わない。存在を完璧に消去しようとすれば、それは殺人罪に他ならないからだ。

もちろん著者は、母を殺めたわけではない。中学生のときに殺めようとした事実はあるが、それでも寸前のところで止まることができた。

著者にとって「母を捨てる」とは、一切の関係性を持たないということだ。連絡をとらない、介護の手がかかっても対応しない。決別。もちろんそうなることで、ひとりの人間が“実質的な死”に至ることもあるだろう。

菅野さんは福祉としての「家族代行サービス」を提案する。

家族を、家族が支えなければならないというのは幻想に過ぎない。呪いになりかねない。著者は「幸いにも現代は、『逃げる』ために手を貸してくれる他者がいる」と説く。

8年前に「逃げるは恥だが役に立つ」というテレビドラマが放送された。面白かったが、今なら、僕はこう主張するだろう。

逃げるは恥でもないし、役にも立つよ、と。

『母を捨てる』
(著者:菅野久美子、プレジデント社、2024年)

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