山羊と中也とヴェルレーヌ

複刻版『白痴群 第5号』を読んでいると、中也さんが訳したヴェルレーヌの『ポーヴル・レリアン』という文章がありました。

これはポール・ヴェルレーヌの自伝のようなものです。ヴェルレーヌは中也さんが好きなフランスの詩人です。

『中原中也の手紙』でも安原さんは

「特に初期の頃、時に彼は自ら『ポーヴル・レリアン』の名を以て己を呼びさえもした。」

と語っています。

(注:レリアンとヴェルレーヌは同一人物。『ポーヴル・レリアン』はポール・ヴェルレーヌの綴りを入れ替えたものだと言われています)

そんな中也さんが訳した『ポーヴル・レリアン』の中に気になる一文があったので引用してみます。

「一年は經過して、彼は『シテールへ』を印刷した、いとも眞劍な進歩が見られるとは批評が之を證明した。先づは初老牡山羊の詩界入りとあつたのである。」

(「進」は本当は2点しんにょうなのですが、変換できなかったので「進」とさせていただきました。)

旧字体を新字体に直してみます。

「一年は経過して、彼は『シテールへ』を印刷した、いとも真剣な進歩が見られるとは批評が之を証明した、先ずは初老牡山羊の詩界入りとあったのである。」

ここではレリアンを"山羊"に例えているのが分かります。山羊といえば、中也さんが生前に出版した詩集のタイトルも『山羊の歌』です。

自分のことをレリアンと名乗っていた中也さん。
きっと偶然ではないですよね。

それにしても“山羊”という表現はヴェルレーヌが称したのか、それとも中也さんが独自にそれを使ったのか気になります。

どちらにせよ文章を読むとレリアンのことを「ぐれ始めた」や「歩武(あしどり)あやしい地駄落者」だと説明しているのでキリスト教的な表現でいう《悪魔の象徴》を意識したと思われます。

それを踏まえると自分の詩集に『山羊の歌』というタイトルをつけた中也さんは自身を山羊のような存在であると評したことになりますね。それをさらに踏まえると、安原さんへ贈った「羊の歌」もやはりキリスト教的な意味合いが含まれているのかもしれません。


【参考文献】

『複刻版白痴群 第5号』(日本近代文学館)
『中原中也の手紙』安原喜弘 (講談社文芸文庫)