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栃木県栃木市で眺めた美しい景色に、私はまだ囚われている気がする。

週末に花見の予定が入っていたが、どうやら雨の予報のようで、中止になった。

そもそも、こうも寒いと桜も顔を出す気が失せるだろう。今年は、開花が早いと聞いていたが、信憑性に欠けつつある。

桜の季節になると、思い出す風景がある。去年まで暮らしていた、栃木県栃木市の景色だ。

いろいろあったものだから、もう戻りたいとは思えないけれど、私は新しく季節が巡るたびに、栃木で見た美しい世界の様相に連れ戻されてしまう。

春は、手入れされていない桜並木が豊かに揺れていた。ひとたび風が吹けば、視界が霞むほどの花吹雪が舞い、その奥に野暮ったい土煙の匂いがした。

両腕を広げるようにして長く伸びた桜の枝は、たまに車のフロントガラスに、通せんぼするかのように当たる。

花弁の隅からこぼれ落ちる陽光が、道路を満たしていく昼下がり。窓を少しだけ開けて、まだ冷たい春風を頬に感じることの心地よさは、何ものにも代えがたかった。

そう考えると、夏も好きだった。特に夕暮れ。鮮やかに実った稲穂が波打つ田園に、緋色の夕日が差し込めば、ピンと張った水面は隅々まで、夏の色に染まっていく。

昔の人は、夕方のことを逢魔ヶ時と呼んだそうだが、今にも人ならざるものに連れ去られておかしくないような、怪しい輝きがそこにはあった。

鈴虫と蛙が鳴く音が、ぴたりと重なる瞬間、知らない世界に私だけが囚われてしまったようなどうしようもない孤独が押し寄せて、胸がつかえるような感覚になる。

秋といえば、黃葉したイチョウが、人々の暮らしなど無視して、己の存在を証明するように、黄色く燃えていた。

夏がすぎれば、人恋しくなる季節がやってくるなんて言うが、田舎で自由奔放に生えたイチョウの姿は、物悲しさなど感じさせず、むしろ爆ぜるような激情の依代であったかのように思う。

翻って、冬は山々がふさぎ込み、冷気から身を守っているようだった。色を奪われるようにしてセピアに染まった風景を、よくよく観察してみれば、草木の先端は柔らかに膨らんで、今にも芽吹かんとする強い意思を感じさせるものだから、ふいに心が打たれていまう。

細かいところばかりに目を向けていると、どこからか畑を燃やす焦げ臭い空気が漂ってきて、鼻の奥をツンと刺す。その刺激が涙腺に伝わって、悲しくもないのに、泣きそうになってばかりいた。

東京に戻ってからも、思い出すのはあの眼の前に広がる世界の瞬きに、心が動いた瞬間ばかり。

これだから、美しい景色はこれだから嫌なのだ。私があのとき、あの場所にいた記憶から、決して逃してはくれない。記憶の中にうずくまる私の存在を否定してはくれない。

どうやら、記憶は土地に宿るらしい。だから、東京の片隅の小さなアパートに暮らしている事実を、せめて美しいものにできないだろうか。

湧いたやかんから立ち上る、白い湯気を眺めながら、今日もなんとか生きている。

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