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なぜ体験したことをわざわざ短歌という形で表現するのか

短歌を読む習慣があるひとって、そんなにいない。
普通の本屋では短歌の本をほとんど置いていないことが多い。小説や漫画はどこでもたくさん置いてある。

ではなぜ僕は自分の感じたことや体験したことを、わざわざほかでもなく短歌という形で表現しているのか。


第一に自己の適性の問題がある。これは書き手の都合の話だ。
しかし向いていないことをやってもたいてい結果は出ないし、誰かを喜ばせることも難しいだろう。

自分が何に向いているのかは多くの場合、自分では選べない。生まれ持った資質の影響が大きいのだろうと思う。

また、天才と呼ばれる人はほんの一握りで、ほとんどの人間は凡人だ。ないものねだりをしても始まらないので、出来ることでどうにかすることを考えたい。

僕には漫画は描けない。小説は書けないことはないし、いくつかの短編小説をこのアカウントでも公開している。
しかし長編小説は書けない。これは僕が結局のところ、小説的ではなく詩的に文章を書いているからだと思っている。

詩のなかでも、自由詩でもなく俳句でもなく川柳でもなく、短歌だと判断した瞬間があった。


第二に、短歌という詩の作品にすることで、マイナスの体験をプラスの価値へ転換したいというモチベーションがある。音楽でいえばロックやHIPHOPなどのように。

個人的に好きな邦楽ロックバンドの話をすこしだけ挟むと、
syrup16gの孤独と繊細さはまろやかで居心地の良い闇のようで、
THE BACK HORNの怒りと違和感はひりつくほどに純粋な詩で、
ムックの絶望と孤独は甘美だ。

僕もこれまでの人生でそれなりにハードな体験をしてきた。現在もうつ病で通院中である。
そういう体験を単に忘れることができるなら、それもいいのかもしれない。価値観や方向性は人それぞれだ。

しかし僕は忘れるということが苦手なのだ。
短歌という明確な形にしていかないと、僕は忘れられない。それも深く傷ついた体験ほどなかなか忘れられない。

どうせ忘れられないのなら、体験したことを短歌という作品にすることで、推敲をかさねて詩として昇華させることで、そこそこ面白く読めたり、共感を呼ぶものにしたいというモチベーションがある。


第三に、短歌をつくることが単純に楽しいから。短歌が好きだから。つまらなく感じていたら、僕はこれまで継続できていないと思う。





短歌とは、5・7・5・7・7のリズムで詠まれる短い詩。ひとの気持ちがつづられることが多い。季語は不要。
教科書で習うような古典だけではなく、現代の若いひとびとにも親しまれ、たくさんの新しい短歌が日々つくられている。
僕もその中のひとりで、短歌に詳しくないひとも面白さが感じられるような短歌をつくりたいと考えている。




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