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芸術が人類の進化に繋がる生き方。もう一つ。ただ生きている事が責任

状態が悪いながらも月曜日に写真を撮影に行きました。
今年、初の雲海です。
小雲海と呼べばいいのか霧は下まで降りて来てはなかったですが山の上からは結構、霧はかかっていました。
去年は温暖化のせいで一回しか雲海にアタック出来なくてというよりは出ませんでした。
寒暖差がそもそもないまま冬になったので霧が発生する条件がありませんでした。

でも今年は規模は小さくてももう雲海が発生しました。
今年は結構、発生するかもです。
でもアタックはそれほど出来ないと想います。

月曜日もたまたま日曜日が状態が悪くて夕方の17時に就寝して0時に起床したのでアタック出来たまでです。

ただたんに状態が悪くて起きてたからです。
だいたい状態のいい日なんてありません。

だから躊躇してては写真は撮影出来ません。
酷い状態だろうがやらなくては俺が終わるのです。

でもデジタルはある程度撮影出来る。

これもAPSーCのカメラです。
今年はフルで雲海を狙ってみたかったですけどフルがありません。
でもちゃっかりフィルムでは撮影して来ました笑

メインはフィルム写真です

でも結構、フィルムで自然を狙うのに難儀して来ました。
なかなか想った写真が撮れません。
これじゃいかんと想いながら撮り方を変えようと想っています。

何事も経験なので最初から大物が撮れる訳じゃありません。
今は狙える大物が自分の範囲内で狙えると想っているのでその積み重ねが次のステップに繋がると想っているので今は、狙える大物を狙おうと想います。

ここはもうデジタルをやっている人には直ぐ狙える所じゃないと想います。

この何ヶ月フィルムでやってた自分だから見れた写真の世界です。
この世界を着実に写せれば評価はされると想います。

はっきり言って寝てたい

でもそれをやらないのは病人でありながら病人と想われたくないのだと想います。
でも病気、障害でありながら芸術をやるというよりも生きていく事の辛さを訴えていきたい想いにエッセンスとして芸術をやってたら伝えやすいと想うからです。

生きる事だけでも辛い事も多いいのに芸術をする事で更に辛い状況を作り出す。

皆さんはどっちを選びます。

そもそも病気で闘病が闘いですからね。

そこに人生の闘争が出来ますか?

一つ言えば誰でも出来るようになると想います。
でも俺は28年、苦しみ獲得した領域です。
これぐらい苦しめば病気、障害であれ闘志は湧き上がります。

でも28年のダメージは体も心もボロボロにしました。
逆にこの状況、状態でやれるのかにはなります。

結局は自分次第です

諦めたら終わり

やろうと想ば人間何歳からもやれる。
でもスポーツを本格的にやりたかった自分はスポーツだけ消化不良です。
でも生涯学習と言われてます。

学ぶ事は何歳からも出来ます。

スポーツでも競技者だけなのかと言えばそうじゃありません。

基本的には発想の転換です

発想の転換が出来て気持ちの作り方が出来ればその道の一流にはなれます。
自分はその自分を作るのに28年かかって、これからも進化すると想います。

俺は超一流になりたい

基本的にこの気持ちは大切です。
モチベーションを上げ想像性を養う為の、ビジョンでの作り方です。

ここまでやれました。
ならばこれからもです。
現実これからでしょうね。
だってまだ生きていかなくてはいけない訳だからです。

これからの方が辛いと想います。

その理由は老いです

体も心も正直、ボロボロです。
もう少し足腰の痛みがなくなり動きが出来れば写真も撮れるのにって想います。
写真を撮っている人に関しては動けるのは正直、羨ましです。

正直、歩いている人を見てると羨ましと想います。

悩みはあるのかも知れませんが俺のような心の実感もないだどうし体の実感もないだろうと想います。

「なんで俺ばっかり」と想いますが「それが人生だ」と想います

苦しむ事を面白いに変換する事、こそがより人生を生きている実感に繋がる

ここで状態の実感を想う事で作り変えてる。

このやり方こそ人間を作る芸術

これが人間の進化だと想います。

体現

これを知る人は人に優しくなれると想います。
自分を知る事に繋げる事が出来た人だからです。
基本的に自分を知らない人は他人に大柄です。

そこは自分の苦しみに繋がります。
今、苦しみを知らない人が増えていると想います。
それは他人の苦しみを想う能力の欠如に繋がります。

ここが想像力なんです

想像できないから他人の苦しみがわからない。
その理由が自分の苦しみがわからないからです。

そこに欠如しているのが想像力です。

そう想っている人はいると想います。

「痛みが苦しみがわからないなら一度わからせてあげたいと想った人はいると想います。」

そう想う人は苦痛がわかっていると想います。
そこからの発展系が物理的な力になります。
でも暴力はいけない?
でもジレンマでしょう。
だって相手は想像出来ないし考えが出来ないのです。
教えても理解出来ない。
それが想像力の欠如出し想像出来ないのは考えられない。

思考の停止です

でもこの世は綺麗な想いだけでは生きていけません。

物理的な暴力をしないためにはどうするのかと言えば学ぶしかないでしょう。
最初から暴力もダメだと言っている人も本当に学べているでしょうか?
ダメだと言う理由が暴力じゃ回避出来ません。

正直、物理的にわからせたいとは想っても振るえば裁かれるのは俺だとは想いながらも今回、宗像病院のやった事は訴訟を起こせば民事じゃないかも知れません。

その理由は

その理由を最後に言えば動機が動いているからです。
意図的に俺を苦しめている。

その立証の仕方が

言葉の暴力です

言葉の暴力における精神的苦痛の被害を立証すれば動機や意図的にやっていれば殺人と同じだと想います。

ただ物理的にはやってないけど心理的には攻撃しています。

これかの犯罪は心理的な事も増えると想います。

これがいじめの温床だと想います

これを放置してはいけないから俺は自分と闘いながら社会とも戦うのです。

暴力もある意味現象であるならば対をなす裏返しが言葉の暴力です。

既にここは認知されているはずだと想ってはいますが『パワハラ』とか言われてもいるけどなかなか人との関係性を作るのは難しいと想います。

資本が言葉から始まり言葉の暴力から物理的な暴力に発展していくと想います。

その繋がりをしない為には相手に配慮する事が大切になりますがここで大切な想いがもう一つあります。

相手を思い遣り想いです。
この想いの発生の一つが想像力です。

喜怒哀楽だけじゃなく感情だけじゃなく理性的な動きにも気を配り人の本質が相手への対応に繋がると想います。

その為には学び経験して判断しなくてはいけません。

それこそ思考です

考える

いいか悪いかの判断は考えれば出来ますがそこに想像力や学んだ経験がなくては思考は出来ません。

材料が必要です

それは自分で獲得するしかないでしょう。

自分だけ良ければそれでいいじゃ変わりません。
そう想ってなくてもその場所から動かなくてはなにも始まりません。

他人がやるだろうじゃ始まりません。

人一人の動きが人類の進化に繋がります。

そこに必要な事は。

人が生きているだけで責任が発生している事を理解しなくては秩序の維持は出来ません。

責任は自分にある

生きている以上、責任は持つべきです。

雲海です。これは小規模の雲海です。でも大規模でも写りはあまり変わらないですね。写す場所が限られているので構図的には似たり寄ったりだと想います。でもフィルムはどうでしょう。雰囲気がフィルムは本当に変わるので撮り続け出れば雲海個展が開催出来るかもです。テーマが雲海です。いつかはテーマに沿って写真を撮ってみたいですが今は撮りたいものを撮るが一番面白いです。フィルムで撮影して経験値を上げる。それが今の撮影の想いです。この写真は全てデジタルです。APS-Cであります。以上です。

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