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週刊オールライター臨時特別号 「ノンフィクション 5.11」 〜あの日、私は死にかけた〜

 こんにちは。HISASHINJOです。本日は5月11日です。私は昨年の今日、人生で最も死にかけました。命の危険にさらされました。事件・事故に巻き込まれたわけではなく、精神的大ダメージによるものです。今回は臨時特別号として今日という日に、去年の今日、私に何が起こったのかを述べ、私が伝えたいことをお送りします。

1. 朝、ニュースを聞いておかしくなった

 2022年5月11日午前6時、私は寝不足の中スマートフォンの超強力な目覚ましアラームに叩き起こされました。おかげで不機嫌です。前の日、通っている大学で参加しているプロジェクトの授業で結成された班の飲み会に参加していてその分就寝が遅れました。この次の日に授業が無かったり、オンデマンド授業の日だったり、お昼スタートだったら9時くらいまでぐうぐう寝ていたことでしょう。眠い目を擦りながら下に降りて朝ごはんを食べて支度をし、最寄り駅まで自転車を走らせました。そして乗り込んだいつもの列車。次の駅で停止位置修正がありながらもすぐに遅れを取り戻し列車は上野駅へ。朝のラッシュなのに信じられないくらいガラガラな山手線内回りに座りました。日暮里で常磐線や京成電鉄からの乗り換え客を乗せてだいぶ席が埋まったところでスマホの画面に視線を落とした私。すると、あるLINEオープンチャットが不穏な空気に包まれました。それは、お笑いが好きな人たちが集まっている場所でした。私はお笑い好きの母に触発され、お笑い好きのオープンチャットに入会し、会話を楽しんでいます。そんなオープンチャットが突然不穏な空気になったので何が起きたのかとヒヤッとしました。そして私がオープンチャットを少し覗いた直後にLINEニュース、スポーツ紙LINE版などが一斉に「それ」を報じました。そして「それ」を見た私は言葉を失いました。

「上島竜兵さん死去 61歳」

信じられませんでした。私は5月8日放送の「ドリフに大挑戦SP(フジテレビ系列)」を家族3人で夕飯を食いながら見ていて笑っていました。上島さん(名前を言うのも心の問題でしんどいので以下「上さん」と表記)もドリフターズの名作コントの一つ、「囚人コント」の囚人役などでノリノリに演じていた記憶があります。それなのにそのわずか3日後に訃報が来ること自体信じられませんでした。いいえ、それは誰だって信じられないでしょう。しかし私は頭の中で何が起きたのかだんだん理解していくうち、こんな文面を見つけてしまったのです。

「家族が首を◯っている上島さんを発見した」

この文面が目に入った瞬間、私は一種の「パニック症状」を起こしてしまいました。自分でも信じられなかったです。こんなパニック状態に陥るのは初めてです。最初原因はわかりませんでしたが、すぐに判明しました。

「親戚に同じやり方で逝ってしまった人がいたから」

です。
そして私は涙を流し始め、壊れました。もうこの時点で感受性の高すぎる性格である私は壊れています。あと一歩踏み間違えたら確実に道◯れです。

しかし、なぜ私はあの時「トラウマ」が蘇ったのか。そもそもその「トラウマ」とは何か。本題を進める前に少し過去の話に付き合ってもらいたいと思います。

2. 2021年2月27日〜3月5日 トラウマが起きたわけ

 話は2021年2月27日まで遡ります。この時私は大学受験をしていました。といってもロクでもない受験生でした。この日現在、のちに繰り上がって合格して通うことになる第2志望の大学に補欠として引っかかっているだけであとは全て落ちていた考えられない状態でした。一時は浪人して日東駒専を受ける計画も出ていたほか、どうしても進学実績を残したい担任から専門学校の大学3年次編入コースを薦められる有様でした。そんな状態だった私の元にこの日、第2志望の大学から補欠通知書、繰上合格希望届とその提出用封筒が送られてきました。通知書に目を通し、繰上合格希望届にサインをし、これから買い物に行く両親に郵便局へ簡易書留で出してくるようにお願いしたその瞬間、母のスマホに電話がかかってきました。祖母からです。そして電話に出た母でしたが、その第3声が

「えっ!?あんちゃんが!?」

だったのです。「あんちゃん」は、母方の大叔父のことです(祖母の弟にあたります)。円谷特撮、プラモデル、ラジコン飛行機等、私に引けを取らない多趣味で、とても優しかった大叔父「あんちゃん」は、曽祖父から引き継いだ写真屋の店主でした。幼稚園の頃から人生の節目の度にあんちゃんの経営する写真屋で記念写真を撮ってもらっていました。高校卒業の写真も撮ってもらうはずでした。まさかこの裏でとんでもない悲劇が起きていたとはこの時の私は知る由も無かったです。

 電話が終わり、そそくさと両親は郵便局とスーパーに行きました。買い物を済ませて帰宅した両親と昼食をとると、母は1人で祖母や叔母、3つ年上の従兄弟、そしてあんちゃんが住む某市へ出かけて行きました。家には私と父が残されました。そして母は夜遅くまで帰って来ませんでした。帰ってきても母の「仕事」は終わりませんでした。帰ってくるなり、父がパソコンを取り出し、2人で写真を探していました。聞き耳を立てると、あんちゃんの写真を探していたようでした。

 そして次の日2月28日も、母は朝早くから某市に行きました。私が起きてきた頃には母はもう出かけていたのです。私は不穏な空気をなんとなく感じました。そして夜、従兄弟に

「昨日今日とそっちに母ちゃん行ったけど何が起きたの?一大事が起きてそうなのはわかるんだけど」(原文ママ)

とLINEしました。するとすぐに

「帰ってきたら母ちゃんから説明あると思うからちゃんと聞いておいて」(原文ママ)

とだけ返されました。
そして母が帰宅し、神妙な顔で
「話がある」
と言われ、私は勉強を中断しました。
そして母から聞かされたこと、それは・・・

「あんちゃんがね、死んじゃったの。事故とか、病気とかじゃない

あんちゃんは、自◯したのです。後に分かったことですが、2月26日時点で精神的に弱っていて、しきりに
「姉ちゃん・・・姉ちゃん・・・」
と姉である祖母の名前を連呼していたと近所の方が証言していたといいます。そして2月27日朝、ネクタイで首を◯り、変わり果てたあんちゃんを近所の方が発見。警察の捜査の結果、自○と断定されたといいます。

母は続いてこう述べました。

「お通夜・葬儀の日は3月3日と4日。葬式の日はあんたの入試の前日だけど、どうする?」

確かに私はまだ受験戦争を劣勢な中戦っていました。もし第1志望に受かっていて進学が決まっていたら、親はこんな質問はしなかったでしょう。しかしこの当時はどこからも合格とは届いておらず、前述の通り、第2志望に補欠で引っ掛かっただけです。しかし私にはあんちゃんに「心残り」がありました。まだクリスマスプレゼントのお礼を言えてなかったのです。プレゼントを祖母経由でもらったのですが、お礼を直接言えなかったのです。なので、そのお礼を言わなければバチが当たると考え、断られることを承知の上で

「連れて行ってくれ」

と頼みました。意外なことに両親はOKしてくれました。

 それ以降、私は精神を病みました。ただでさえ自業自得で失敗続きの受験に失敗していて、補欠に引っかかった第2志望1回目と2回目がダメだったら浪人になるので、「浪人する金はうちにないから出ていけ」と言われていたこともあったので絶対に失敗できないプレッシャーがありました。それに加えてこの大叔父ショックが重なった場合、3月5日の受験当日、パニック症状を引き起こしてしまうのではないかと思うようにもなり、それら二重の恐怖に支配された結果です。それから始まった喪失感に襲われる毎日。その最中、私が最も推していた元アイドルが芸能界を引退するというニュースを聞いて余計拗らせそうになったこともありましたが、親戚にコロナストレスによる自◯が出てしまった方が最もショックが大きく、引退のショックはすぐに消し飛んでしまいました。

そして3月4日の葬儀当日、私は焼き場での最期のお別れの際、こう叫びました。

「頼む‼︎明日応援してくれ‼︎

是が非でも受かりたい思いをあんちゃんにぶつけました。これがクリスマスプレゼントのお礼代わりになると思ったんでしょうかね。
そして遺骨拾いが終わってエントランスで待っている際、私はおかしくなりました。「狂笑」をしそうになったのです。ここでの「狂笑」とは、脳が何かのマイナス感情で溢れてパニック症状を防ぐために起きてしまう笑いのことです。明らかに場違いです。私はその時の出来事を小・中の頃の同級生にLINEをしました。すると彼は

「オレだったら入試前日でも葬儀出るかな」

と返してくれました。言葉に迷ったのが見てとれます。巻き込んでしまって本当にすまないことをしたと思っていますが、私を救ってくれた感謝の気持ちもあります。

そしてビクビクしながら迎えた3月5日。第2志望の大学2度目の受験にして最後の大勝負。心配していたパニック症状は起きることはなく、無事に乗り切りました。

とはいえ、この間は生まれて初めて私自身が精神的に追い詰められた出来事であり、人生で2番目に死にかけた出来事だったと言っても良いです。この時は気が付かなかっただけで、「自◯」「◯◯り」というワードはその瞬間心の中ではトラウマになっていて、それが初めて目に見える形で表れてしまったのが今回話している2022年5月11日の話です。またこの大叔父の件があってから、大叔父がこのようなことになる以前に命を自ら絶ってしまった俳優3名の話題が出る時は身構えるようになってしまいました。実際にその3名のうちの1名の事件の話題が出た際には精神状態が不安定になり、その日のTwitter投稿・閲覧を休止せざるを得なくなりました。

前置きが長くなって申し訳ないが、5月11日の話をするために必要な前置きだということをご理解いただきたいです。

3. 命を守る戦い

 話を2022年5月11日に戻します。山手線乗車中からトラウマによるパニック状態に陥っていた私は、何をしたら良いかわかりませんでした。当然です。パニック状態からすぐに冷静に戻ることは難しいですから。ましてや感受性が強い私はなおさら無理です。そして考えに考えた結果、

1.「単位を落としてはいけないのでまずは大学で授業を受ける」
2.「授業後に乗り鉄を気が済むまでして自分自身を落ち着かせる」
3.「より自分を追い詰めるからTwitterはもう見ない
(乗り鉄はメディアと私自身の距離を置くための口実としました)
4.「今日は水曜だけど色々思い出しそうだから『有吉の壁』は見ない
(『有吉の壁』司会者の有吉弘行さんは上さんを恩人と慕っていて、上さんから可愛がられた1人です。「竜兵会」のメンバーでもありました。)
5.「私とメディアの距離を置くのだから、今日のYoutube・LINEライブ『しゃべ鉄気分』も見ない」
6.「大学の学生相談室に電話をして話を聞いてもらう日を作る」

以上6つのことをやると決めました。単位を落とさないためにも1限の授業を顔をくしゃくしゃにしながら受けました。そして2限への教室移動中に学生相談室に予約の電話をし、本来なら2限終了後に帰宅するはずだったので母に

「突然だけど今日と××日(学生相談室を予約した日)の昼飯いらないから」

とメールしました。
「👌」
との返事はもちろん来ましたがその直後、

「上島さんのニュース聞いてショック受けた?」
「だとしても周りに人がいるときはポーカーフェイスでね。母は1人なので泣いています。」
「でも大丈夫です。」
(3通全て原文ママ)

というメッセージが来て驚きました。

母ちゃん、オレが今日思ったこと全部わかったんだな」

と思い、また泣いてしまいました。私は我慢ができない性格なのでそれに比例するように感情の起伏も激しいです。
「ポーカーフェイスでいなさい」
と言われても無理な話です。とにかく授業最初の15分くらい泣いていた記憶があります。

そして授業が終わり、山手線の駅に駆け込みました。山手線に乗って池袋に向かいました。池袋からは湘南新宿ラインに乗車。私とメディアの距離を置く口実を成立させるためには景色を見る必要があると考えたからです。湘南新宿ラインには窓と直角に座席が配置されているボックスシートがあります。
どこでも良いから西に南に向かいました。目的地が決まっていないので、気が向いたら途中下車しようと決めました。
その時もいまだにソワソワしていたので、何か落ち着かせるものが必要と考え、Youtubeを開きました(この時点で「6つの命を守る行為」に違反しているのですが)。そして2003年生まれの名曲であり、私のような2003年生まれの人の誇りであるSMAPの「世界に一つだけの花」を聞きました。これがいけませんでした。サビに入った瞬間、また泣いてしまいました。それも世界一しょっぱい大粒の涙を流して。

最初の乗り換え駅である武蔵小杉で撮影した写真。

そして列車は武蔵小杉に着きました。私はここで降りる事にしました。長い通路を歩いて南武線に乗り換えました。向かったのは立川。とにかく長く乗っていたいので、どんなルートになってもよかったのです。自分を落ち着かせるための「荒療治」と言ったら語弊があるかもしれないですが、とにかく好きなものに私自身をひたすことで気持ちを楽にしようとその時は文字通り「必死」でした。

南武線。

終点の立川に着き、中央線に乗り換えた私は、八王子に向いました。ここからは分かれ道がありました。
「横浜線で横浜方面に向かう」か、「八高線で川越・群馬方面に向かうか」の2択です。

中央線で八王子まで向かいました。
八王子は童謡「夕焼け小焼け」の街です。

 私は横浜線を選びました。こっちの方が長く乗れる気がしたのです。この年の乃木坂46バースデーライブの会場である日産スタジアムを横目に列車は走り、横浜から根岸線に入って桜木町へ。ここで京浜東北線からの大船行きに乗り換えて根岸線を西に向かいました。そして終点の大船駅に着き、ここで旅を終わりにしました。大船駅に着いた時点で時刻は夕方になっていました。時間をかけて私自身最大の趣味である乗り鉄をしたことで気持ちは少しばかり楽になっていました。そして東海道線のボックスシートに座り、無事に帰宅できました。なんとか命を守ることができました。家に帰ってからも、当然「有吉の壁」は見ませんでした(いつも夕食を食べている際によく見ているのですが、この日に限って私は頑なに拒否する行動をとったので、流石の母も驚いていました)。帰宅中にYoutube・LINEライブもありましたが、これも見ませんでした。Twitterもアカウントに鍵をかけてパソコンのスタートページからTwitterを消して見ることはしませんでした。とにかく私はこの日寝るまで一切メディアを見ませんでした。そして今日あったことを聞いて欲しいと思い、電話相談に電話をかけ、話したいことを全て話せたことで寝ることができました。

桜木町駅。乗ってきた横浜線の列車はここで折り返します。
大船駅の巨大乗り場案内。この頃になって帰宅を決断しました。

4. 次の日の出来事

 そして次の日、5月12日を迎えました。少しばかりメディアも静かになっていたので、再びTwitterを見ることもできるようになるくらいに回復しました。しかし、私には心配な人がいました。母方の祖母です。きっと私みたいにあの時の大叔父のショックが蘇ったに違いないと考え、心配になりました。そして電話をかけました。幸いにも祖母は無事で、昨日あったことを話しました。当然のことながら祖母も同じくらいショックを受けたようでしたが、私との会話では普段と変わらないはずんだ声でした。よかったと私は思い、この時から普段通りの精神を取り戻すことができました。

5. この経験から言いたいこと

 私はこの時、本当に追い詰められていました。命の危険が迫っていた状況でした。でもなんとか
「趣味の時間を多く取ることで心を落ち着かせる」
という回避行動をとることができ、命拾いしました。

この経験から私が言いたいこと、それは
「自殺はこの世の中で最もくだらない死に方である」
ということです。「自分さえいなくなれば良い」と思う人がいたら私はその人を殴ります。逆にとても多くの人に迷惑をかけるからですよ。私も大叔父の案件で精神的大ダメージを負うという大きな迷惑を被っていますから。皮肉なことに我々日本人は
「抱え込みやすいせいで死に急ぐ」
「身内で抱えている深刻な問題を相談しない」
ことを世界から批判されています。私は、日本人には
「自分が抱える問題がいかに大きなものでも口外することはしない風習がある」
という自覚を持っていないように見えます。

もしGoogleで
「自◯したい」
と検索しても死に方は絶対に出てきません。出てくるとしたら
「こころの健康相談統一ダイヤル」
の電話番号です。
この記事の最後に、この記事を見た方に向けて電話相談窓口の電話番号と詳細HPのバナーを貼ります。このようなニュースが流れた際には、このような電話番号を記事に記載することはネット媒体の決まりになっています。


むすびにかえて

 いかがでしたか。今回は5月11日という日に起きた私の人生に大きく関わる重要な日に、皆さんに伝えたいことを書きました。私の思いが皆さんに伝わっていただければ嬉しいです。

本日もご覧いただきましてありがとうございました。
次回の配信は13日土曜日になります。
それではまた。


電話相談窓口

・こころの健康相談統一ダイヤル
0570-064-556
(ナビダイヤル)
(その他、地方独自に電話相談窓口を設けており下記バナーにその情報が載っています。)

・よりそいホットライン
0120-279-338

https://www.since2011.net/yorisoi


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