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モラハラは「正しい自分が〇〇してやらねば!」と考える人ほど陥る

どういうわけか昔から歪んだ自己愛を持つ人間と縁が多かった。

実家暮らし時代に家族が自己愛化したときは、溜まったストレスを吐き出す場がなくなり、度重なる円形脱毛症に悩まされたものだ。

自己愛者に縁があったので、自然と「なぜ人はハラスメントをするのか?」を考える時間が増えた。

その頃の自分は腑に落ちるまで、モラハラ、パワハラについて考える作業が必要だったのだろう。

過去に出会った自己愛者7名について分析した、自己愛者研究書も出した。

歪んだ自己愛を持つ者について調べると、ハラスメント案件がわんさか出てくる。

最近、ハラスメントをする人間に共通する心理があると気づいた。

まず大前提として、高見から相手を見下ししている。

自己愛が強すぎると、自分の正義を疑わなくなり自然と居丈高になる。

そして見下した相手に対して、自分が「救ってやらねば」「教えてやらねば」「正してやらねば」という「ねば思考」で接するのだ。

中には「正義の鉄槌を下さねば」「制裁を加えねば」と考える極端な人間までいる。

相手にマウントをとっている時点で、目線の高さが合わないので対等な話し合いは不可能。

そしてハラスメントをされている側は、「言っても無駄」と諦めて対話を避けるようになる。

家族からのモラハラが日常化していた経験があるので、諦観してしまいコミュニケーションを避けたくなる気持ちは痛くなるほどよくわかる。

モラハラ加害者が、家の中で同居していることの苦痛は甚大だ。

意思疎通が困難な相手と思ったら、会話を回避したいのは当然だ。

加害者は「自分が正しい」という思い込みが強いため、加害行為をしている自覚がない

他責傾向が強いので自分に非があるとは、ほとんど思わない。

下記の動画は、長年加害行為を続けていた夫が、自分が信じていた正義を疑い、自己を改めた稀な例。

シビアにいえば、正しさ原理主義の人が彼のように翻る例は非常に珍しい。

自己愛者が自省するきっかけは、心理的にショックを受ける出来事が多い。

動画内に登場する男性のように大病を患ったり、あるいはパートナーから離縁をつきつけられるなどのことがないと、「自分いついかなるときでも正しい」と自己を正当化してしまいがちだ。

コロナ禍に突入して「正しさへのこだわり」ほど危険なものはないと、益々感じるようになった。

戦争をする国家は、お互いが自国の正しさにこだわっているし、言い争って譲らない人達は自分の正しさを少しも疑わない人だ。

他者に正しさを説く際に、自分の正義を主張する側はどんどん攻撃的になると言う。

また正しさを追求すると、確実に減ってしまうものがある。

楽しさだ。

僕が仲良くさせてもらっているのは、正しさよりも楽しさに重きを置く人だ。

こういう人の周りには、同じような価値観を持つ人が多く、そこには穏やかな笑顔があふれている。

正しさを追求している人の集まりは、堅苦しい空気が流れ、マウント合戦にあけくれている。

正直に述べると、こういう人達とは、一分一秒一緒にいたくない。

かけがえのない時間を、正しさ原理主義者と過ごすのに使いたくないのだ。

四十路を過ぎての実感だが、正しさにこだわらなくても、全然楽しく生きていける

正しさにこだわる人は、ちゃらんぽらんに生きる人間が許せないらしく、正論を説いたり、説教をしたがる。

しかし、そんなものはこちらからすればまるで関係ない。馬耳東風だ。

楽しさを重視しているは、ハラスメントに手を染めにくい。

なぜなら、楽しさは人の数だけあることを知っているから、わざわざ押し付けるような野暮な真似はしない。

自分が没頭できる楽しい趣味がある人は、人に勧めるときも「楽しいけど、よかったどう?」くらいの軽い誘い方になる。

決して押しつけがましくならない。

正しさの厄介なところは、「唯一の正解は、これだけに違いない」という思い込みを加速させるところだ。

原理主義に陥ると、人は頑なになりどんどん自分の正解を疑わなくなる。

人が信じる正解は極めて主観的なもので、これもまた人の数だけある。

正しさの押しつけは、誰かの笑顔を減らす。

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