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茶の本 the book of tea にハマった話

やややや、本当にnoteやってて良かったという瞬間が訪れました。今回は皆さんもきっとご存知、どこまでも上品で、丁寧で、優しさあふれるMizutaniさん、最近の投稿で、エリ シモーヌが好きな本として書いていたThe Book of Tea(エリ シモーヌというフランス女性が分身という面白い設定です)です。

こうやってnoteの上でふと目に止まるものが→強烈なインパクトとなって影響してくることがあるというのに驚かされます、これも何かのご縁と言わずにはおられません。

最近の私は活字を追うのも疲れてすぐ眠くなってしまうので、もっぱら通勤途中の一日往復2時間をながら読書の時間にしています。ダウンロードし放題のamazonのaudibleです。読みたい本が必ずしもいつもaudibleになっているわけでは無いのですが、ラッキーなことに茶の本は完全現代語新訳でaudibleになっていました。

どハマりしたので、続けて3回聞いた
(普段は、繰り返し聞くことはほぼないのですが)

もう、確かに、知りたかったことがたくさん満載でした。今まで、「道教」と「禅」と「茶道」の結びつきはよく知られているなんていう基本の”き”すら知らなかったよ。 

道教について書く前にチラッと「儒教」について。

儒教

私は儒教の考え方・教えが一般的価値観そのものであり、それに疑問に思うことなど思いもよらないで育ちました。これは儒教というものが日本では「これが儒教の考え方です」と言われることがないまま、無意識に、日本国民万人共通のものとして基本的な考え方として教えられているように思います。特に、私の父は(本人も自覚していないと思いますが)、儒教的な考え方を大事にするような人で、

父子の親 父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない。
君臣の義 君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。
夫婦の別 夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる。
長幼の序 年少者は年長者を敬い、したがわなければならない。
朋友の信 友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。

wikipedia

のような価値観・社会規範を絶対的に正しいと信じている人でした。これに孝行観念、祖先崇拝が加わり、父の物差しは揺るがない、ガチガチの礼儀で支配されていました。

ちなみに日本人の特性については世界さんがわかりやすい記事にされておりましたがここにも日本人にとって儒教がキーワードになっていることにご注目ください。

大人になってから、儒教 vs 道教というライバル関係というか反対の教えを説いている、道教という存在を知り、愕然唖然としたものです。父をはじめとする偉いおじさんたちの押し付けの100%正しい倫理観は、実は、どこにも100%それが正しいなんてことはなく、ある一つの考え方でしかないということがわかった時のショックは遠藤周作がキリスト教の神というものに疑問を持った時と同じほど(?)の揺るぎでした。

道教 vs 儒教 大まかに

以前の職場で、孔子の論語を愛読している上司がいて、それはそれは腕の良い立派な上司だったのですが、まさに儒教ガチだったのです。この上司は後から就職してきた若手に自分の昼食の準備をさせ持って来させたり、自分よりも遅く出勤したり自分よりも早く退勤したりすることをよしとしない、などの儒教倫理観価値観のパワハラで、私は側で、この若手=新人類をハラハラして見守っていました。ついに数年後に若手君が耐えきれなくなり退職した時には、そろそろこの儒教ガチから私も逃げたいと思ったものです。道教 vs 儒教のどちらかを選びなさいともし聞かれたのであれば、私は間違いなく、道教派であると気付いたのもこの頃でした。

道教

そうは言っても、その「道教」という代わりの考え方について、その後、深く学んだわけではありませんでした。今回、茶の本を読み、あらためて、なんともモヤモヤしていた頭がスッキリすることすること、まさか茶の本を読んで道教について学ぶとは全然思ってもいませんでしたので。

道教の「道」ですが、

道(tao):みち、way =方法、absolute=完全、law=法, nature=自然、supreme reason=究極の道理、 mode =流儀

と英語訳にするとこんなにも言い方があるんですね。日本語(中国語)のこの道(tao)という言葉は非常によくいろんな意味を含んでいるなと感心しました。考え方としては

通過することの中に意味がある

というのです。まさに、人がゴールとして設定するような、金持ちになるぞとか幸せになるぞとか、そういうことに人生の意味があるわけではないということですよね。絶えまなく、流転しながら進む、永遠の成長・変化と言ってもいいわけです。このため、絶対というものがなく、全ては相対となります。そこに禅の考え方が入ってくるのですね(まあそういうところが禅のわかりづらい理由なんでしょう)。

善と悪と白黒はっきりしているものと違い、絶対がなく相対があるという考え方は確かにわかりづらいかもしれないけれども、感動すら覚えました。真実を理解するには信じるものも、相反対する信じないものを知ることが大事だという、なんとも広い心を持つ教えじゃあないですか。素晴らしすぎる。

倫理、道徳などの何かを正しいことと定義する儒教、は何かを必然的に限定することとなり、疑問を挟む余地を与えないということになり、これは固定、普遍、不変で、成長が止まることを意味するというのです。私が偉いおじさんたちの儒教ガチに対する息の詰まる感覚はまさにここから来ているのではないでしょうか。


美学

現生をありのままに受け入れた時、悲しみと苦悩に満ちた世の中であるからこそ、人は美を発見しようとするのだそうです。「道教」と「禅」と「茶道」の美学とはどういうものか。

道教の荘子の胡蝶の夢:はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも実は夢でみた蝶こそが本来の自分であって今の自分は蝶が見ている夢なのか、は有名ですが、これを美学に結びつけて考えたことがなかったのですが、これと似たような話が本書に紹介されておりました。「琴ならし」という逸話で、琴の名人の伯牙が森の王と思われる古い大木(桐)からできた誰にも鳴らすことのできなかった不思議な琴を弾いて見せることができたらしいのです。それができたのはなぜかと聞かれて、

「琴が伯牙か伯牙が琴か、ほんとうに自分にもわかりませんでした」

と伯牙が答えたと言います。

それはつまり目的意識に縛られない自由な境地のことを指しているのですね。

こういうことって実は何も夢物語や作り話というわけではなく、実際に起こり得ることだと思うのです。例えばあやのんさんのこの記事

登場人物を決めたら、彼らが勝手に動いて物語を作ってくれる、不思議な体験をした。

あやのんさん

荘子が蝶なのか、蝶が荘子なのか、琴が伯牙か伯牙が琴か、そして小説を書いているのはあやのんさんなのか、それとも登場人物にあやのんさんが書かされているのか . . . と言ったような自由な境地に達することで、優れた作品ができるんですね。

小さくて、シンプルで、清潔で飾り気のない茶室、そこにたどり着くまでの庭の路地、そういう日本の禅庭園を美しいものとして育ててきた日本人。そこにはもちろん侘び寂びの趣というだけでなく

不完全であること(非対称であること)

謙虚であること(豪華絢爛でなく)

自由であること(自然であること)

というような要素が詰まっている。なるほど。

そして、もう一つ、茶の湯の美学には、英語で言えばエフェメラル=つかの間の、一時的な、刹那の、はかないものに対して、美しいと思う気持ちを感じるのだということを知り、ああ、本当にその通り、まさに胸キュン死とはこのことなのです。

最近、上のこの記事を書いたつながりで

EGGSEEDさんのスプリングエフェメラルの節分草を拝見していて、春告花としてのスノードロップや節分草は、一年のうちのこの時期だけに咲く本当に束の間の花なのですが、それゆえのはかなさに、より強く美を感じさせてくれるものなのです。それはスプリングエフェメラルと同義語と言ってもいい、桜と全く同じことです。

もう、茶の本の内容で、引用したいところがありすぎて大変なんですが、中でも一番好きな箇所を載せておきます

花によっては死を誇りとするものもある。たしかに日本の桜花は、風に身を任せて片々と落ちる時これを誇るものであろう。吉野や嵐山のかおる雪崩なだれの前に立ったことのある人は、だれでもきっとそう感じたであろう。宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く」というようである。

第六章 花より


ということで、ハマりにハマって、英語でどんな風に描かれているのか読みたくて、書いました。好きすぎた。宝にします。

ペンギンクラシック、The book of Tea, 英語で読みたくなって買いました


note友のわけいさんの茶の本の記事を発見。


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