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短編小説「神社の彼女」

 これは僕が体験した不思議な出来事について話そうと思う。

 その日は何もない日で、本当に何もない日だった。
 部屋の窓を開ければ、心地よい風が頬を撫で、少し伸ばし過ぎた髪の毛を持ち上げる。横にわけていた前髪が視界を軽く塞ぐ。ストレートヘアが厄介だってよく思う。
 無理して昨日買ったペットボトルのコーヒー、口直しのホワイトチョコレート、部屋の隅に何故かある毛布、点きっぱなしのテレビには今日の天気予報が映っていた。
「――今日の天気は快晴です。雲を見ることが無いでしょう。」
 確かに、雲が見えない。今日はラッキーな日なんだろうな。
 だけど、天気予報で雲が見えないと断言するのはどうなんだろう。断言するほど雲が無い日なんだろうか。それはよりラッキーな日なんだろうな。
 やっぱりコーヒーは苦い。折角買ったのに、飲みきれないのはもったいない。そして銀紙の中の白い甘さは、僕を平衡に戻してくれる。

 顔を洗えば袖が濡れ、顔を拭こうにもタオルが無い。タオルを取りに行けば髪は垂れ落ち、額は居心地の悪さを感じる。
 あれ、今日はラッキーな日なはずなのに。今日はそういう感じの日か。
 そう考えては暇な日なこともあり、小さな心の揺さぶりをいい刺激だと感じてしまう。
 折角だ、雲のない日なんだ、予定のない日なんだ、散歩にでも行こうかな。
 そう考える前には着替えを済まして窓の外を眺めていた。

――――――――――――――――

 駅とは逆の方向へ行こう。普段は行かない、特に用もない方向へ。
 歩くのは嫌いじゃない。体力は無い方だけど。ゆったり過ごすのが一番良い。信号だって待ってやるさ。花壇の花々だって愛でてやるよ。そんな余裕だってこっちにはあるんだからな。

 ふと、目端に見慣れないものが見えた。
 鳥居だ。
 一軒家と一軒家の間の道、その少し奥に見えるそれ。
 朱に染まったそれは、古臭くなく寂れてもいない。まるで新築のような佇まいだ。まだニスのような光沢が見え、それに触れてしまうと僕が汚してしまいそうな、見えない空間の壁があるように感じる。
 とても気になった。その鳥居に。
 何かわからない、僕を惹く何かが、鳥居ごと僕を逃がすまいと大きな手で包んでくるような。
 特に深く考えなかった僕は、そのまま参拝しようかなと思った。

 石畳は、鳥居ほどではないけれど綺麗で、真っすぐに先へと続いている。進めば少し薄暗く、木々の影が冷たく清らかな空気を作り出し、僕の肺を洗うように通り過ぎる。
 あたりを見渡すと、とても綺麗な境内で、草木が生えそろっている。清潔感が見て取れる。ただ、清潔感が過ぎるとも言える。虫や動物の気配が無く、鳥のさえずりさえ聞こえない。だけど、そこはかとなく何かが居て、その何かに背中を押されているように感じる。それが不気味とも感じるし安心感すらも感じる。

 気が付けば僕は、拝殿まで来ていた。
 汚れのない綺麗な木造のそれは、色だけを見れば年季を感じさせる焦げ茶色をしていた。新築とも言えなくもないが、どこか歴史を感じさせる風貌だ。
 何もしないのも気が引けると思った僕は、二礼二拍をして祈った。
 何を祈ろうか、何を願おうか、よくよく考えても人並み以上の欲が無い。お金はあればあるだけ嬉しいいし、彼女とか……出来るなら欲しい。食うに困りたくはないし、幸せになれるならなりたい。

 急に物音がした。何かを落としたような音。
 驚いた僕は辺りを見渡した。だが別段何かが変わったり現れたりはしなかった。
 気のせいかと最後の一礼を済ませて、忘れていた賽銭を賽銭箱に入れる。
 木々の葉の擦れ合う音と賽銭が落ちた音以外何も聞こえない。やはり気のせいか。
 僕は踵を返し、鳥居の方へと足を踏み出す。

「ここに人が来るなんて珍しいね」

 声が聞こえた。拝殿の、後ろの方から。
 僕はその瞬間、心臓が一度潰れ、無理やり広げるように血流が早くなるのを感じた。そして、反射的に持ちうる全てのエネルギーを身体に集中させ、すぐさま振り返り、その声の主を見つめた。

 そこにいたのは―――

 ――――女の子だった。

 いや、女性だろうか。
 賽銭箱に腰掛けているこの子は、とても大人びた雰囲気を感じる。
 見目は高校生かその上くらいだろう。黒く長いその髪は風に揺られて、空気と溶け交わるように見えた。
 色白な肌とコントラストな黒いシャツに黒いプリーツスカート、白いラインとスカーフがあればセーラー服とも言えそうだ。それで女の子と認識したのだろうか。そんな視覚情報の判断を捻じ曲げるようなその女の子の姿は、闇そのものの威圧感を漂わせ、僕を黙らす。

「どうしたの?」

 彼女の声は、水鏡に水を垂らしたかのような、耳を劈くようなモスキート音のような、空気を揺るがす波紋のように、僕の耳を貫くように脳へと届いた。
 耳を塞いでも聞こえてきそうなその声は、僕の身体を調べるように駆け巡り、全身の筋肉をその一瞬だけ停止させた。
 呼吸をしていなかったことを思い出し、息を荒げながら、今まで自分が干渉されていたことを理解した。
「いや……大丈夫です……」
 止まらぬ汗を拭いながら僕は絞り出すように答えた。
「いいんだよ。ゆっくりしていって」
 鈴の音のような彼女の声は、不思議と僕の心を平衡にしてくれる。
 戸惑いは少なく、何故か彼女と話をしないといけないと思うようになった。
「僕は、たまたまこの神社に寄っただけです。鳥居を見つけて、入って、参拝して、それだけです」
 すらすらと自分の口から言葉が出るのは驚いた。彼女から何かをされているのだろうが、別に不具合はないし、言いたくないことを言わされている感じもしない。
 彼女は微笑む。
「ふふ、そうなの。あなたは大丈夫なのね」
 何がと聞きたかったが、彼女は話を続ける。
「ここはいいところでしょう? ……悪くは無かったわよね。」
 僕の顔を覗く。
「人って来ないのよ、何でか知らないけど」
 彼女は指を顎に当てて考える素振りをする。
「今日はいい日だものね、あなたもそう思っていたのでしょう?」
 額を指で突かれる。
「体は疲れてない?」
「夢はあるだけあった方がいいって思う?」
「死ぬのは怖い?」
 質問を繰り返す彼女は賽銭箱から降りて、僕の周りをゆっくり周る。
 それは包囲されている。僕は蛇に睨まれた蛙のように動けない。けど嫌な感じがあんまりない。
「願いは何?」
 僕と目を合わせて、真正面から、顔を合わせて言う。
 どういうこと? 何を言えばいいの?
 何かを叶えてくれるの? それともただの質問?
「い、嫌な目には、会いたくない」
 口を衝いて出たのは、最低限の幸せの保障。もっと欲深い、金銀財宝、億万長者とかにしても良かったとは思ってる。
「いいよ」
 彼女は軽く言い放った。
「けど、消えない嫌なこともあるんだ」
 何が? え? 何が?
「あなたはここに来た。ということは、良くはないんだよ」
 僕は彼女が言っている意味が理解できなかった。
「目を付けられているから、みんなに」
 彼女は僕の目と自分の目を指さした。
「流石に可哀そう。だから応えたんだよ」
 彼女は後ろを向き、賽銭箱に座り直した。
「また何かあったら来てもいいよ」
 彼女のはにかんだ笑みは、瞼の裏に焼き付いた。いや、焼き付けられた。そんな気がする。

「忘れられないよ。あなたは私にも目を付けられたんだから」

 その言葉を最後に、僕は気を失った。

 目が覚めると、そこは自宅の玄関前だった。
 何をどうやって帰ってきたかはわからないが、とりあえず中に入ることにした。

――――――――――――――――

 それから、僕の日常は特に変わりはなく、凡の中の凡の人生と言えるだろう。
 お金は増えたわけでもない、彼女とか……出来るはずがない。食うに困ったりも、したりしなかったり、幸せと言われれば、幸せなのかもしれない。

 再びあの神社に行こうとしても、場所の記憶が曖昧で、確信のある道を通ってみても、鳥居の一つも見つからない。

 結局、彼女の言葉、「目を付けられている」というのは何なんだろうか。
 そして、僕の人生から嫌な目に会うことは無くなったのだろうか。
 目を瞑れば思い出す彼女は、いったい何者なのだろうか。

 何もわからない。何も変わらない。それでいいのかもしれない。

 部屋の窓を開ければ、心地よい夜風が頬を冷やし、少し伸ばし過ぎた髪の毛を持ち上げる。横にわけていた前髪が視界を軽く塞ぐ。ストレートヘアは風から目を守ってくれているようだ。

 今日買ったコーヒーを飲みながら、ホワイトチョコレートを一欠けら。
 こういう夜も悪くないかもしれない。

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