「金の煙草入れ」-- 原始共同体の時間と世界

アイヌの伝承から覗き見る異世界

ある晩、私の枕上に金の小袖を重ね着した、黒髪に白髪の同じくらい混ざったカムイがいて、私に向かって次のように述べる――「私はこの家を守るカムイ(チセコㇿカムイ)です。最初は私も犬が吠えているのを気に留めていなかったのですが、火のカムイのおばあさんに事の次第を聞かせられ、見てみました。すると、大昔に村造りのカムイ(コタンカㇻカムイ)がアイヌの村を造り終え、天に戻った際に、自分の煙草入れを忘れてきたことに気づいたのです。そう簡単に忘れ物を取りに戻ってよい存在でもないので、心の良いアイヌに贈ろうと考え、念じて木の梢に引っ掛けたのでした。しかし、誰も気づかないので、犬たちに吠えさせたのですが、今度は人間たちが怖がってしまい、何もしなくなってしまいました。村造りのカムイは、これをおかしがっていましたが、あなたはとても利口で、カムイも感心しています。これからもこの煙草入れがあなたを守護し、酒宴でも狩猟でも交易でも、あなたはたいへんな長者となるでしょう」と述べる。

アイヌ伝承「金の煙草入れ」:藤田護 (2020) による梗概から抜粋

村造りのカムイが村を造ったのは遥か昔のことと物語では語られるが、しかし同時に、この村造りのカムイは、犬を操り、今の村人たちや主人公の様子を知り、それをおかしがっている。すなわち、村造りのカムイの人間からの関係という意味での遠さが、時間としての前あるいは昔へと重ね合わされているかのようである。そして同時に、(この場合は煙草入れの)起源譚も、常に話の中の「いま」において、その「いま」の問題に対処し、応答しようとするなかで、形成されていくものであるらしいことが伺える。

藤田護 (2020) による「金の煙草入れ」の解釈


「現存する過去」という時間意識

 我々のような近代人、すなわちレヴィ=ストロースの言うような「熱い社会」に生きる人びとは、現在を中心にして「抽象化された無限の過去」と「抽象化された無限の未来」からなる直線的な時間意識を持っている。そして、その直線的な時間の中で、エリアーデの言う「聖なる時間」すなわちハレの日がたまに現れる。聖なる時間は、俗なる時間と交代するように現れ、そしてまた俗なる時間に交代する。現存するのはどちらかの時間のみであり、聖なる時間が俗なる時間を支えているわけではない。時間そのものに意味はなく、意味があるのはその中で生じる出来事である。俗なる時間が意味の基盤を持たないことによって近代のニヒリズムが発生したわけだが、それについては割愛。

 原始共同体の時間意識は、我々のそれとは決定的に異なる。聖なる時間すなわち神話は、確かに遠い過去の出来事ではあるが、現在の俗なる時間の裏に常に潜在していて、それを支えているのである。過去とは過ぎ去っていくものではなく、常に現存し、俗なる時間に生きる人びとに意味の根拠を与える。聖なる時間は、いわば「無時間的」であり、あらゆる俗なる時間からの参照点として機能する。流れていく俗なる時間と、その裏で恒久的に潜在する聖なる時間。この二つの時間は、たびたび混ざり合い、現実に神話が登場するとともに、現実が神話化する。神話が不動の参照点となって俗なる時間を支えつづけること、これこそが原始共同体が「進歩/変化」を嫌う理由であり、「冷たい社会」となる理由である。

 藤田が指摘するように、「金の煙草入れ」では、はるか昔の出来事が、まるでつい最近の出来事かのように語られる。神話は、このようにして俗なる時間に現れ、意味の基盤となっているのである。ここには世界中の原始共同体に共通する、「現存する過去」という時間意識が見られる。アイヌにとって社会とは、変化する俗なる時間と不変の聖なる時間の総合であって、何か意味のある出来事が発生する舞台ではなく、それ自体が意味に満ちているのである。


参考文献


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