《備忘録》バレエなどについての対話

 2024年3月13日、RHさんとの対話より。〔誤解のないように断っておくと、これはあくまで私が再構成した内容であって、以下のような内容が実際に話されたわけではない。〕

インドやメキシコやブラジルに行った日本人は、その国が大きらいになるか、大好きになるかどちらかが多い。〔‥‥〕ぼく自身は大好きになった少数派ですが、きらいになった人の気持ちはよくわかる。きらいになることの理由はよくわかる。しかしどうして自分が好きになったかということは、よくわからない。日本に帰って「どうだった?」と聞かれて、話すことはほとんど、困ったことや不便なこと、ひどいこととか危なかったことです。

見田宗介『社会学入門』

 とある知人が、引退したバレエダンサーにアンケートをとっていた。詳細は覚えていないけれども、バレエ経験をどのように意味づけるかを問うている。面白かったのは、「あなたにとってバレエとは?」という抽象的な質問をすると「私の人生の軸」や「かけがえのないもの」といった答えが返ってくるのに対して、それを具体的に掘り下げる質問をすると「忍耐力」や「礼儀」という答えになってしまうことだった。

 RHさんは、「言葉にならないよ、だから踊るんじゃない?」と語ってくれた。舞台で踊った経験から生まれる、きわめてシンプルな答えである。

 本当に価値あるものは、言葉にならない。吐き出す言葉は、本当に伝えたいことからどこまでもズレていってしまう。最近の若者たちの態度、たとえば政治関心の低さ、とげのない冷たさ、当たり障りのなさは、「言葉」に対する根本的な不信があるのではないか、とも思う。

 人間は、言葉で世界を作っている。一定のルールにしたがって言葉が交わされることで、社会は再生産されている。言葉のルールが変われば社会が変わる。法律はその最たる例だが、もっとソフトな領域も作り変えられる。かつて女性は「クリスマスケーキ」と言われていたが(すなわち結婚は24歳までが勝負で、25歳を過ぎたら売れ残り)、現在からは想像もできない価値観だろう。

 バレエも、日本社会のなかで小さな世界を作っている。その世界では、抑圧にかかわる大量の言葉が、言葉にならない価値を中核にして回っている。バレエを語ろうとすればするほど、頼りない言葉しか使えないことに直面する。小さな世界から外部に向けて発信されたメッセージには、言葉にならないものが抜け落ちたあとの空白がある。

 それは投票用紙のようなものかもしれない。自分の未来を託すのにその紙切れは小さすぎる。具体的な候補者や政権への不信感ではなく、もっと漠然とした根本的な不信感、言葉が相手に届くことを信じきれないような感覚があるのではないか。投票用紙に書きつける言葉が世界を作り変えることを、信じきれないのではなかろうか。

 多くのバレエ経験者は、一度はプロになることを夢見て、それを諦める。プロを諦めるためには、バレエの世界から抜けるだけでは不十分で、新しい世界に踏み入る必要がある。

 RHさんは、高校1年生のときにプロを目指すことをやめた。彼女はディズニーを再発見することで、バレエからのスムーズな離脱を成功させていた。彼女が在籍していた音楽高校でも、K-POPやファッションなどの異世界を媒介にしてバレエから離脱した人がいるそうだ。

「バレエをやめたい」と思うときは、他に好きなことができたときが多い。

RHさんの語り

 裏を返せば、他に世界を確立できなければ、バレエの世界から抜けようと思えないということだろう。バレエというクラシカルな趣味は、作品を味わうための教養が漂白されていく大衆消費社会とは相性が悪い。その大衆消費社会が用意した世界を媒介にしてバレエから離脱するというのは、なんとも皮肉な事態である。

 民主主義が成立するためには、それぞれの「私」が政治とつながっているという感覚が共有されていなければいけない。「私」と国会が、ひとつの社会のなかに共存しているという想像こそが、議会制民主主義の基盤である。

 そして、議会制民主主義が生きるためには、市民や政治家が「言葉」を信じている必要がある。社会を作り変えるものとしての「言葉」が信じられなくなったとき、議会制民主主義は命を失う。

 「私/政治」の分離感覚は、「バレエ/社会」の分離感覚と同型なのかもしれない。政治に関する現実感のなさ、社会に関する現実感のなさ、あるいは、さらに突き詰めて〈他者〉に対する現実感のなさは、〈他者〉と交感するための「言葉」を信じきれない人々の、言葉にならない疎外感の表れなのかもしれない。



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