見出し画像

コンパスプロジェクト進捗#01

希望、夢、安心など、幸福につながったり、置き換えできる言葉がいくつかある。すべてを検証できないが、Well-beingを形づくる一助にはなると思っている。

1.「わたしたちのウェルビーングをつくりあうために」

まだ、全部読めていないですが・・・読んだ部分から感じたこと。

日本及び東アジアは、共感のプロセスを重視する「集産主義」と記載されていることが非常に気なった。集産主義は、経済学でいう個人主義の対比で、社会主義やファシズム(国家社会主義)を意味することばをなぜ使っているのか?集団主義でいいのでは?あえてこの言葉をもってくる意図がわからい。

幸福感の違いについて、「獲得型」と「運命型」ととらえている。そういうたとえ方もできるかと思った。
ここでは、日本は、「運命型」ということであり、他者とのかかわり方の違いであると言っていて、その背景を仏教と位置付けている。

私は、日本の場合において、先の「集団主義」も、「運命型」ととらえることも、仏教より儒教の影響(論語はじめとする儒教の体制側に都合のいいところを”ええとこどり”)が大きく寄与していると思っている。

多くの日本人のWell-beingを考えるうえで、儒教の影響を考えずして、これからの在り方を考えることも難しいと思う。

ここで関連する書籍は、「論語がわかると日本がわかる」(守屋淳)



2.「WE ARE LONLY , BUT NOT ALONE」(佐渡島庸平)

現在社会において、絆ということば安易に使われている。

絆は本来、ほだし・・・「自由を束縛するもの。馬の足にかけて、歩けないようにする縄」のことである。軽はずみに使うべきことばではないと思う。

この絆ということば、参加に使われることになったのは震災等で支援を手を差し伸べようとすることをその人たちの関係性を絆ということばを使っていると思われる。

なぜ、この言葉を使う『絆』はつながる仲間(支援される人たちと支援する人たち)がいることが、「ほったらかしにされていない」「安心感」を共有しているように感じているのか?

つまり、安心がWell-beingにつながるのか?

一方、人は自由を求める。自由と絆は相反するもの(言葉の意味からするとあきらか)。自由であることをWell-beingと感じる人はたくさんいると思う。

これをふたつとも実現したいということが、WE ARE LONLY, BUT NOT ALONE の著者、佐渡島庸平氏のことば、そのためのコミュニティをつくるために自身の会社「コルク」を作ったと。

孤独を考えることと、コミュニティを考えることは似ているとも。

安全なコミュニティは、自由を束縛されることも。また自由なコミュニティは安全ではないかも。
たとえば、SNS上のコミュニティで、誰でもOKであれば炎上して安全なコミュニティではなくなる。しかし、自由に入れないコミュニティは安全だけど面白くない。これはリアルの社会でも同じことだ。

それをインターネット上で実現できるのではないか?という考えが著者の感がである。

これは、なんとなく「わたしたちのウェルビーイングのつくりあうために」にある、「弱いロボット」の発想に近い気がしている。

言葉の語呂的に、「弱いロボット」を読んで、「遅いインターネット」を考えてしまった。これは、これから民主主義とグローバル化を考える上で大切な気がするがまだそこに思考がいったていない。

ここで関連する書籍は、「インターネット的」(糸井重里)、「安心社会から信頼社会」(山岸俊夫)


3.「希望の作り方」(玄田 有史)

「かつては、希望は前提だった」ではじまります。
つまり、いまはそうではないということの裏返し。
ある高校の先生のことばで、生徒たちは、「悩むことを放棄している」と。

現代は「希望」を持ちにく時代ともいわれている。従来、希望は与えられものであったが、こんからは、希望が自分で作っていくものであると。

Hope is Wish for Something to Come True by Action.

「希望は、不安な未来に立ち向かうためには必要な物語を必要です。」
とも言われている。

これは、幸福とかWell-beingにつながるひとつのエレメントと思う。ある人にとっては、Well-being≒Hope かもしれないなと思う。

同じ本のなかに、次の言葉もあります。
「世代を超えた率直な対話ができるようになってはじめて、日本の希望は考えられるようになる気がします。」
対話ということが、この中でも言われています。

この対話の意味はもう少し明確にしないといけないと思う。

「ダイアローグ」(デビット・ホーム)

一方で、希望を描きにくい、社会の現実はあると思う。それに対して、自ら声をあげることを段々としなくなったきてる世の中があるような気がする。

SNSの一部で半ばあきらめが入った愚痴をいいあったり、フェイク情報を流してみたりは増えているかもしれないけれど。
駅前で署名活動したり、集会が開かれたり、デモに参加したりが少なくなってきている。海外ではMe Too運動などがあり、積極的にいわゆる社会運動に参加している。これも、行動を起こさない。起こしにくい社会構造に固まってしまっている気がする。

この点、もっと気軽に社会運動を推進することで見えてくるものもあるかもしれないなと思うこともある。

「みんなのわがまま入門」(富永京子)

ここで関連する書籍は、文中の2冊。


4.「エンデの遺言」「シルビオ・ゲゼル入門」

本来は、モノが動くこと(市場)で、利益が発生する。しかし、お金はもっていることで金利という利益を生む。
結果、お金を貯めようとあくせく働くことになり、必要以上のものを作り、市場をもとめて植民地を広げていく。これが資本主義。
しかし、資本主義イコール市場経済?
答えはノー。

資本主義は産業革命以降に発展したシステムである。それ以前にも市場経済は存在していました。人は、必要なものを作り、採取して生活していた。自分たちが作ったり、採取したりできないものは、物々交換を代表とする市場で取引されていた。つまり市場経済である。

資本主義は、ブルジョアとプロレタリアを作り出す。
生産したものは、付加価値を含み販売され、その利益の大半はブルジョア(生産する手段をもつ人にお金を提供した人:株主)が獲得する。つまり利益の大半が株(出資したお金)に対する配当金して使われます。
プロレタリアは、いつまでたっても蓄えを持つことができず、その日暮らしを続ける。

その結果として生まれたのが、プロレタリアート革命による計画経済の社会主義(共産主義)である。はじめての革命がロシアでおこり、ソビエト連邦が成立する。しかし、これは市場経済ではない。

これは、株主が個人から国に変わっただけの資本主義であることにはかわりはなかった。これがマルクスの限界でもあった。

現在は、資本主義におけるブルジョアは、グローバル主義へ発展し、世界中をバーチャルなお金が飛び交い、お金がお金を生む、マネーゲームを繰り返している。これに参加してるのは、ほんの数パーセントの人間たちである。

それ以外は、いままでどおりプロレタリア、格差が広がる下層(人数的には圧倒的多数)がいる社会システムになっている。

こんな中で、市場経済であるが、資本主義でない社会を実現しようとしてるのが、この「エンデの遺言」と「シルビオ・ゲゼル入門」に書かれているゲゼルの著書「自然的経済秩序」にある。

その中で、減価する貨幣のしくみが描かれている。

私は、大学院で、管理会計とファイナンスを勉強した。投資計算をするとき、現在価値は将来価値より低いが当たり前であり、その計算は市場金利を使うのが一般的だった。
現在、預金金利はほとんどゼロですが、貸出のは金利が付きます。
お金を借りると利子を払います。つまり、お金をもっている人はお金が儲かるのです。

減価する貨幣とは、お金を使わずにため込むと段々と価値が減ってくる貨幣であり、現在、スイスやドイツの一部の地域では、地域通貨として使われている。

この通貨を使うことにより、地域の産業(個人、小規模事業者)が中心となって、地域内経済を活性化させている。大量生産+開発途上国の市場開発(昔の植民地化政策と同じ)ではない、経済を循環を目指しています。

必要以上のものを作らない、必要以上に働かない、貯めるためのお金を稼ぐことをしないので、時間的な余裕ができる。結果、人として楽しく暮らせることにもなるのではないか?と理論とその実践例である。

私自身まだ、十分にゲゼルの理論を理解できていないのでこれからもう少し理解を深めたい。

経済の形態として、次の本も気になっています。文化人類学の書籍ですが、
「その日暮らし」の人類学~もう一つの資本主義経済~」(小川さやか)

タンザニアの都市経済(いわゆるアングラ経済)にまつわる人たちの暮らしとそれでしか生きていけない社会の現実を表して、日本だけなく、開発途上国のWell-beingを考えることも必要ではないかという意識からの選択です。


ひとまず、ここまで・・・

色々な過去に読んだ本や新しく読もうとしている本で、なんとなくつながっている感が自分のなかで生まれていて、これをちゃんと言語化しないと、もごもごで終わってしまうので、最後には何らかの言語化にもっていきたい。

でも、まだまだ自分の中が混沌とした状態で、なかなか先の見ない迷い道に自ら飛び込んで、彷徨っている感が強し。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?