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高校生のための人権入門(10) 性的少数者の人権について

はじめに

みなさんはLGBTという言葉をどこかで聞いたことがあると思います。LGBTは、現在、性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)を表す言葉として使われています。LGBTのLはレズビアン(女性同性愛者)、Gはゲイ(男性同性愛者)、Bはバイセクシュアル(両性愛者)、Tはトランスジェンダー(戸籍上の自分の性別に違和感を感じる人)を表す頭文字です。LGBTとひとまとめにすることが多いのですが、その内容を考えると、LGB(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル)とT(トランスジェンダー)の二つに分けて考えた方がよいと思います。その理由は、「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル」が、「どういう人にひかれるか(性的指向)」という観点でとらえられた性のありようであるのに対して、「トランスジェンダー」は「自分の性をどう思うか(性自認)」という観点でとらえられた性のありようだからです。

ここ数年間に、LGBTという言い方が性的少数者を表す言葉として、新聞やテレビ等でもよく使われるようになりました。しかし、LGBTという言葉が具体的に指す対象(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)が、性的少数者のすべてではありません。性的少数者の中には、LGBTに含まれない性のありようを持つ方もいます。そのため、最近では、LGBTQとかLGBTQ+という言い方をすることも多くなりました。これはLGBTに含まれない性的少数者を、Q(クエスチョニングやクィア)や+(それ以外)によって表そうとしているわけです。ただ、わたしとしては、これからはLGBTとか、そこに何かをつけ足すような言い方ではなく、SOGI(ソジ)という観点で、性的少数者を理解することが必要だと思っています。その理由は後ほどふれたいと思います。

性的少数者はどのくらいいるのか

性的少数者について考える際、最初に、「性的少数者は、実際にはどのくらいいるのだろうか」という疑問を持つ人も多いと思います。日本におけるもっとも大規模な調査と思われるものは、電通ダイバーシティ・ラボが行った「LGBT調査2018」、「LGBTQ+調査2020」でしょう。その結果によれば、性的少数者と思われる人の割合は、どちらの調査でも8.9%(ちなみに、その前の調査(2015年実施)では、7.6%)でした。また、連合(日本労働組合総連合会)が2016年6~7月に行った「LGBTに関する職場意識調査」では8%となっています。実はわたしは、これらの数字自体には、あまりこだわりすぎない方がよいと思っています。基本的に、性的少数者(セクシュアル・マイノリティ)と性的多数者(セクシュアル・マジョリティ)との間に、明確な境界線を引くことはできないと思うからです。

しかし、仮に性的少数者の比率が8%程度だとすれば、児童・生徒が30人いる教室には、単純に計算すれば2~3人の性的少数者がいる計算になります。左利きの方の割合が、ちょうど8%くらいだそうですので、自分のクラスにいる(いた)左利きの方の人数を思い浮かべてみると、イメージしやすいかもしれません。そこからわかることは、性的少数者は実はきわめて身近な存在であるということです。「いや、そんなに多いはずはない。だって、わたしのクラスには(職場には)性的少数者と思われる人はいなかった(いない)から。」と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、それは、自分が性的少数者であることを公表できないでいる人が、今もなお圧倒的に多いからです。

人の性をどうとらえるか

現在、「人の性」というものは、「1 生物学的な性(体の特徴、染色体等)」、「2 性的指向(誰を好きになるか)」、「3 性自認(自分の性をどう思うか)」、「4 性的表現(どんな服を着たいと思うか、どんな振る舞い(言葉づかい、しぐさ等)をしたいと思うか等)」の4つの観点(4つの要素)でとらえることが基本になっています。前回、ジェンダーというものは、さまざまな性質を持って生まれてくる人間を、体の特徴だけで二つに分け、片方には「女の役」を、もう片方には「男の役」を演じるように強いるものなのだということを書きました。つまり、ジェンダーが問題にする「性」は、最初の「生物学的な性」だけだということになります。しかし、実際には、人は「生物的な性」とは別に(この「別に」というところが大事です)、さまざまな「性的指向」や「性自認」や「性的表現」を持っています。ジェンダーは、「体が女の人は、必ず男の人を好きになり、自分を女だと思い、女らしい服を着たいと思い、女らしい言葉づかいをするものだ」と主張しますが、実際には、そうではない人がたくさんいるのです。性の4つの要素は、それぞれが独立したかたちで、ひとりの人の中に存在するからです。

こういうふうに説明すると、「性のあり方は4つの要素で決まり、それぞれに『女』と『男』の2パターンがあるというのなら、性のあり方は、結局、2の4乗、つまり16パターンということか」と思う人がいるかもしれませんが、それは勘違いです。それぞれの要素は、「女/男」の2つに分けられるものではなく、さまざまなグラデーション(程度、度合い、連続的な違い)を持っているのです。例えば、性自認にしても、「自分を女と思う度合い」と「自分を男と思う度合い」との比率は、人によって微妙に違い、さらに「どちらとも思えない」とか「どちらとも思いたくない」と感じる人もいます。さらには、トランスジェンダーの方にお聞きした話では、時間とともにその「度合い」も微妙に変わるそうです。性とは、4つの要素のそれぞれについて、デジタル(0か1か)ではなく、アナログ(0と1の間に無限の中間的値があるもの、グラデーション)としてとらえるべきです。

性的少数者は「特別な人」ではない

わたしが数年前に性的少数者の方の講演を聴いていて、印象に残った言葉があります。それは、「わたしたち性的少数者から見ると、性的多数者の人たちは、自分の性についてあまり考えていないように見える。」という意味の言葉です。この言葉は、わたしには、「性的多数者は、ジェンダーに疑問を持たずに生きていられるから、自分の性をしっかり考えたり、見つめたりしようと思わない。われわれ性的少数者は、ジェンダーに違和感を感じないではいられないから、自分の性についていろいろ考えたり、見つめたりせざるをえないのだ。」と言っているように思えました。そして、そのような目で、改めて自分の性に向き合い、自分の性を見つめ直してみると、確かに自分の性のありようと、ジェンダーが強いてくる性のありようはズレていることに気づきました。おそらく同じようなことは、誰にも言えることなのではないでしょうか。たとえば、同性となかよくしたいという思いの中には、どこか同性愛的なものがないでしょうか。だとすれば、相当数の人が、多少は両性愛の傾向を持っていることになります。また、異性のような服やしぐさや言葉づかいをしてみたいという気持ちを、まったく持ったことがないという人もめずらしい気がします。つまり、現実には、100%の女性も、100%の男性もいないし、100%の性的少数者(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)もいないと考えた方がよいのではないのでしょうか。一言で言えば、絵に描いたような「女性」もいないし、絵に描いたような「レズビアン」もいないのです。実際にはひとりひとりの性は、すべて、微妙に(または大きく)違うのです。ひとりひとりの性がみな違う、これが「性の多様性」ということの本当の意味なのではないかとわたしは思います。

そう考えれば、現在、性的少数者と呼ばれる人たちは、決して「特別な人」ではないことになります。そもそもが、性的多数者と性的少数者を切り分けること自体が原理的に不可能だとわたしは思います。(性的少数者の比率が何%かという数字に、あまり意味がないとわたしが思うのは、そういう理由からです。)性的少数者とは、わたしの隣にいるかもしれない「ふつうの人」です。なぜなら、すべての人ひとりひとりが、人とは大きく(または、小さく)違う「その人の性」を持っているからです。

LGBTからSOGIに

最初にちょっとふれた「SOGI(ソジ、ソギ)」というのは、「Sexual-Orientation(性的指向)」と「Gender-Identity(性自認)」の英語の頭文字(SOとGI)を組み合わせたものです。「性的指向」とは、自分が(性的に)どのような人に心を引かれるかということであり、「性自認」とは自分を(性的に)どのように思っているかということです。ここで重要なことは、どちらも「どのような」、「どのように」であって、「女性と男性のどちらか(0か1)に」ではないということです。さらに、性的指向も性自認の中身もあくまで「程度(グラデーション)」の問題であるということです。100%の女性も、100%の男性もいませんし、性のありようは、4要素の各2パターンの組み合わせ(つまり2の4乗=16パターン)ではないということに、ご注意ください。

LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)ではなく、SOGI(ソジ)という観点で性的少数者を理解しようとする必要があるということを最初に言いました。LGBTとSOGIとは、一見、似たようなことを言い表しているように見えるかもしれませんが、まったく違います。LGBTが「人」を指すのに対して、SOGIは人が持つ「傾向」を指しています。つまり、LGBTやLGBTQ+等の言い表し方が、特定の「人」をくくり出す働きをするのに対して、SOGIは、すべての人について、ひとりひとりがどんな「傾向」を持つかを表しているのです。「LGBTに関わる人権問題」と言えば、特定の人の人権の問題になりますが、「SOGIに関わる人権問題」と言えば、すべての人が持つ多様な性的傾向に関わる問題となります。性的少数者を考える場合に、LGBTからSOGIに観点を変える必要があると書いたのはそういう意味です。

かつてフェミニストがトランスジェンダーを攻撃した

性的少数者の人権は、実は、女性の人権と深く関わるところがあります。しかも、歴史的には、この二つの人権を尊重する考え方が、ぶつかり合ったことがあります。具体的な例としては、1970年代のアメリカにおいて、女性の人権活動家(フェミニスト)たちが、トランスジェンダーを、フェミニズムの敵として攻撃したことがありました。トランスジェンダー(特に、遺伝子的には男性だが性自認は女性の人たち)は、女性らしさを身につけようとしている点で、女性らしさの呪縛から逃れようとするフェミニズム運動の方向に逆行するものであると考えられたのです。また、遺伝子的に男性であるにも関わらず、そういうトランスジェンダーがフェミニズム運動に加われば、「本物の女性」の活動の足を引っ張ってしまうだろうと考えられたのです。(『LGBTを読み解くーークィア・スタディーズ入門』ちくま新書、森山至貴、93~94ページ)

このような主張が行われたことは、今から考えれば信じられないようなことですが、実はこのような問題は今後もどこかで起きる可能性があります。社会的に女性とされている人たちが、人間(の性)には「女性か男性かの2つしかない」と考え、「女性である」とは、「生物学的に女性であり、性的志向が男性であり、性自認が女性であり、性的表現が女性である」ということだ(これがまさにジェンダーです)と考えるならば、今後も同じような問題が姿を変えてまた起きる可能性があります。

前回、「ジェンダーという視点は、『性的少数者の人権』や『性の多様性』を考える上では、むしろ邪魔になることさえある」と書いたのは、このことと関係があります。結論から言ってしまえば、ジェンダーは「異性愛主義(ヘテロセクシズム)」と切り離せません。「異性愛主義」とは、「人の性は男と女の二つだけで、男は女に、女は男にひかれるものだ」という考え方です。フェミニズム運動は当然ジェンダーを批判しますが、ジェンダーの根底にあるこのような「異性愛主義」自体を批判しなかった場合、先ほどのような「異性愛主義」をおびやかす存在である性的少数者への攻撃が起きてしまうのです。同じように、ジェンダーの視点から性的少数者を論じる場合も、ジェンダーの根底にある「異性愛主義」まで批判した視点で論じないと、論が成り立たないし、性的少数者を暗黙のうちに批判するような論になってしまう可能性があります。わたしが今回、「ジェンダー」、「性的少数者」、「女性」の順番で話を進めようと思ったのは、こういう理由があったからです。

ジェンダーは性的少数者も支配している

わたしは、性的少数者の中で、われわれが人間の性愛について論じる上でもっとも重要な存在になるかもしれないと考えるのは、ノンセクシャル(無性愛)とか、アセクシャル(非性愛)と呼ばれる人々です。性的多数者である人たちはもちろんのこと、実はレズビアン、ゲイ、バイセクシュアルとトランスジェンダーの人たちも、みんなジェンダーの強い支配を受けて性愛の世界に住んでいます。たとえば、トランスジェンダーの人は、当然のことながら、性的多数者の何十倍も自分の性(女か男か)にこだわらざるをえません。また、同性愛のカップルの関係は、どこかでジェンダーの示す男女の関係をなぞっているところがあるように思います。これに対して、ノンセクシャル(無性愛)とか、アセクシャル(非性愛)と呼ばれる人たちのあり方は、ジェンダーの支配をあまり受けていない(のではないか)という点で、性的少数者と呼ばれる人の中でも、さらに少数派の、異質な存在ということになるのではないかと思います。もちろん、実際の性愛のあり方はすべてグラデーションですので、ノンセクシャル(無性愛)、またはアセクシャル(非性愛)的な要素は、わたしを含めて、実は誰の中にも大なり小なりあるわけです。しかし、その一方で、ノンセクシャル(無性愛)、アセクシャル(非性愛)な人の存在を、どう考えるかは、性愛を考える上では相当、根本的な意味を持つことになります。違う言い方をすれば、性的少数者を含めて、人に対するジェンダーの支配はそれくらい圧倒的に強いと思うのです。次回は、そんなジェンダーの支配の中にある「女性の人権」について考えてみたいと思います。

今回、「性的少数者の人権」について考える中で、本当は、アウティングとかアライについても書きたかったのですが、もうだいぶ長くなってしまったので、別の機会にしたいと思います。


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