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「正しさ」抜きの「よさ」を考える 〜「正義」から「責任」へ(その3)〜

前回、「毒親」に人権の尊重という「正しさ」にもとづいて、反省や謝罪を求めてもむだということを書きました。子どもから、「あなたは間違っているから反省してわたしに謝罪し、今後、わたしへの態度を改めなさい」と言われて、「はい、すみませんでした。わたしが間違っていました」と謝る親は、まずいません。
「正しさ」で相手を動かし、変えるためには、相手に自分の間違いを認めさせなければなりません。しかし、人は例外なく自分の間違いを認めたくはありません。そう考えてくれば、「正しさ」にはそもそも人を動かす力はないのです。では、どうすれば人を動かすことができるのでしょうか。

相手に、自分の「責任」を果たすことを求める

結論を先に書いてしまえば、「正しさ」ではなく、自分の「つらさ」にもとづいて相手に働きかけ、相手に「義務(そうしなければならない)」ではなく、「責任(そうしないではいられない)」を果たすことを求めることから、解決の道が開けるのではないかとわたしは考えます。ただ、ここでいう「責任」は、ふつう考えられている責任とはだいぶ違うものなので、少し説明が必要だと思います。

孟子が語る「よい行い」の原型

ここで、以前、noteで取り上げたことのある中国の戦国時代の思想家、孟子の文章の前半をもう一度取り上げてみます。こんな文章でした。(くわしくは、「人の心は善か悪か ~性善説と性悪説の議論に終止符を打つ~」をご覧ください。)

幼い子が目の前で井戸に落ちようとしているのを見れば、誰でもハッと驚いて憐れみの心から手を差し伸べて助けようとするだろう。その子の両親に取り入りたいと思っているからではないし、周りの人たちにほめられたいからでもない。見殺しにしたと非難されるのが嫌だからでもない。

(『孟子』「公孫丑 上篇」より)

孟子が、「性善説」の根拠として述べた文章です。高校の教科書にもよく載っている漢文の訳なので、内容はご存知の方も多いと思います。

「幼い子が目の前で井戸に落ちようとしているのを見れば、誰でもハッと驚いて手を差し伸べて助けようとする」確かにそのとおりです。そして、この行為はもちろん「善行(よい行い)」と呼べるものでしょう。大事なことは、孟子のいうように、そこには利害打算がないことです。また、その子どもの幸せやその親の幸せを願っての行動でもありませんし、「人の命を助けなければならない」とか、「人を見殺しにしてはならない」というような正義感や倫理的な判断があっての行動でもありません。(そんなことをいろいろ考える前に、「あぶない」と思った瞬間に手が出ているのです。)

わたしはここに「よい行い」の原型があると思うのです。ここでの「よい行い」は、これまで述べたように「正しさ(正義)」とは無関係ですし、誰かの幸せ等を含めた「誰かの利益(誰かのために)」とも無関係に行われるものです。

人はこのような場合、どうして手が出るのでしょうか。それは、ひと言で言えば、心も体もその瞬間に「そうせずにはいられない」からです。このような利害や義務などとは無関係に人の心にわき出す「そうせずにはいられない」思いのことを、わたしは「責任」と呼びたいと思います。(わたしが考える「義務」と「責任」の関係についてのくわしいことは「『義務』から『責任』へ ~人権尊重の観点を変える~」などをご覧ください。)

「よい行い」を生む「責任」とはどんなものか

もちろん、「そうせずにはいられない思い」のすべてが、「よい行い」を生む「責任」ではありません。「よい行い」を生む「責任」には、いくつかの条件づけ(限定)が必要です

1 まず、ここでの「責任(そうせずにはいられない思い)」は、「強い立場の人」が「弱い立場の人」に対して感じる思いに限られます。「同じような立場の人」同士や、「弱い立場の人」には、ここでいうような「責任」は生じません。
 「えっ、そんなはずはないだろう」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。たとえば、職場で考えれば、上司には上司としての責任があり、部下には部下としての責任があるはずだと思われるかもしれません。しかし、一般に部下の責任と考えられているものは、ここでいう「責任」ではありません。それは、職場からその人に課せられている「義務」と呼ぶべきものです。

2 次に、この「責任」は、「責任」を感じる人の利害・損得とは無関係です。違う言い方をすれば、「責任」は、その人の「自己愛(自分への満足欲求)」とは切れていなければならないということです。

3 2の結果として、「責任」にもとづく行為は、お礼や感謝や、まわりからの称賛を必要としません。さらに言えば、自分の行為によって、相手が変わることを必要としません。つまりは、結果を求めないのです。なぜなら、「そうせずにはいられないから、そうする(した)だけ」だからです。

以上のような条件を満たすような「責任」にもとづく行為のことを、わたしは「よい行い(善)」と考えたいと思います。

このように条件づけ(限定)をすると、われわれがふだん考えている「正しい行い(正義の行い)」や「よい行い(善行)」のほとんどは、このような意味での「よい行い」ではありません。

「責任」と「義務」の取り違え

たとえば、自分の子どもが学校に行かなく(行けなく)なり、しばらくすれば行くだろうと思っていた親が、いつまでたっても学校に行こうとしない子どもに向かって「いいかげん、もうそろそろ学校に行きなさい」と強く言ったとします。この時、親は「そうしないではいられない思い」でそう言っているわけですが、これは先ほど述べたような「責任」にもとづく行為ではありません。

親は、自分には子どもを学校に行かせる「責任」があるし、「学校に行くことが子どものためになる」と思って言っているかもしれません。しかし、それは、自分が「親としての責任」を果たしていると周りの人から見られたいという思い、つまりは「自己愛(自分への満足欲求)」から生まれている思いです。そう考えれば、このような親の思いは、「責任」ではなく、むしろ世間から親に与えられている「義務(そうしなければならない)」に応えようとする思いと呼ぶべきです。その証拠に、子どもが自分の言うことに従わなかった時、親はさらに激しく子どもを非難・攻撃することになります。その時、親が考えているのは、親に責め立てられる子どもの「つらさ」ではなく、「自己愛」といっしょになった、世間に対する自分の「義務」です

「義務」は「強制」につながる

この場合、親は自分の中にある「正しさ(こうでなければならない)」にもとづく自分の「義務(子どもを学校に行かせなければならない)」に駆り立てられて、子どもに対して、子どもの「義務(学校に行かねばならない)」を強制しているわけです。人権侵害を含めて、人間関係のトラブルのほとんどは、このような自分の考える「正しさ」が自分の「義務」となり、そこから相手に(相手の)「義務」を強制するという構造を持っています。(これが前回述べた「正しさ」→「義務」→「強制・強要」という連鎖す。)

親の、子どもへの「責任」とは

では、子どもが学校に行かなく(行けなく)なった時の親の「責任」とは、どのようなものになるでしょうか。もちろん、さまざまな子どもがいて、さまざまな家庭があり、さまざまな事情があるので、一概に言うことはできません。ただ、たとえば子どもが「学校に行かなければならない」と思っているのに、いざ、学校に行こうとするとベッドから起き上がれないような状態であれば、親は子どもの抱えているつらさがわかるはずです。子どものつらさを目の前にありありと感じた時、親が思わず「無理をして学校に行かなくてもいいんだよ」と言わずにはいられなくなって、子どもにそう言えば、それがわたしの考える「責任(そうせずにはいられない)」にもとづく行為(「よい行い」)です

ただ、親にそう言われて、実際に子どもがなんと言うかはわかりません。「ありがとう」と言うかもしれませんし、「そんな無責任なこと言わないでよ」と言い返すかもしれません。しかし、子どもの反応がどうであろうと、その親の行為は「よい行い」です

「よい行い」は結果を求めない

「よい行い」とは、「強い立場」にいる人の「責任(そうせずにはいられない)」にもとづく行為であり、本来は、誰かの利益(○○のため)も結果(相手の感謝や変化)も求めません。「そうせずにはいられないから、そうする(した)だけ」だからです。

「責任」は思いやりではない

こういうことを言うと、「あなたの言う『責任』は、結局、思いやりとかやさしさのことでしょ」と言われそうですが、そうではありません。わたしの考える「責任(そうせずにはいられない)」は、思いやりや憐れみや同情や愛とは似てはいますが、別のものです。相手がかわいそうだから、そうしてあげるのではありません。相手の様子を見て、放ってはおけず、そうせずにはいられないからそうするのです。小さな違いに思えるかもしれませんが、この違いは重要です

純粋な「責任」というものは理念

もちろん、今まで述べてきたのは純粋な意味での「責任」にもとづく「よい行い」のことです。いわば、理想的なモデル(理念型)の話です。実際に行われる「よい行い」には、思いやりや憐れみや同情や愛が混じっていることの方が圧倒的に多いでしょう。そして、もちろん人間が生きるということは、常に複雑な要素がからんでいますから、今まで述べてきたような純粋な「責任」だけにもとづく行為というものは、ふつうは存在しません。そして、それでよいのです

ただ、「責任(そうせずにはいられない)」にもとづく行為に、思いやりや憐れみや同情や愛が混じっていればいるほど、結果(相手の感謝や変化)が得られなかった時の、行為者の不満や怒りはそれだけ大きくなります。「こんなにしてあげているのに、その態度はなんだ」という思いが必ず沸くのです。だからこそ、本来の「責任」は、思いやりや憐れみや同情や愛とは別のものだと考えることが重要になります。

思いやりや愛を、人の「義務」としないために

本来の「責任」と、思いやりなどが別のものだと考えることが、重要な理由はほかにもあります。思いやりや憐れみや同情や愛が、「よい行い」の理由や必須条件にされてしまうと、とんでもないことが起きるからです。本来、思いやりや憐れみや同情や愛は、困っている人やつらい思いをしている人を目の前にした時の「そう感じずにはいられない」感情です。しかし、逆に、そういう人たちを目の前にした時に、思いやりなどを感じるのが、あたりまえとされてしまうと、今度は思いやりなどを感じることが人の「義務」になってしまいます。思いやりや憐れみや同情や愛が、人の「義務」となってしまったら、その先にあるのは、思いやりなどを感じない人への「強制・強要」です。思いやりや憐れみや同情や愛が「強制・強要」される時、人は間違いなく不幸になります

孟子の論理の間違い

最初に引用した孟子の文章に戻ってみます。孟子は、「幼い子が目の前で井戸に落ちようとしているのを見れば、誰でもハッと驚いてーー憐れみの心からーー手を差し伸べて助けようとするだろう。」と述べていました。しかし、わたしはこの文章の中の「憐れみの心から」という部分が不要だと思っています。孟子はここで「憐れみの心から」と述べ、引用した文章に続く部分で、「このことから考えれば、憐れみの心がないのは人間ではない。」だから、「人間なら必ず憐れみの心を持っている」と述べ、そこから自分の「性善説(人間は誰もが、生まれながらに善の心(憐れみの心など)を持つという考え)」を展開していきます。そして、当然のことながら、この孟子の論理では憐れみの心を行動に生かすことが、人の「義務」となっていきます

しかし、ここで孟子は間違っていると思います。わたしの考えでは、「ハッと驚いて手を差し伸べて助けようとする」のは、「責任(そうせずにはいられない)」から起きる行為であって、すべての人の中に「憐れみの心(思いやりの心など)」があるからではありません。ささいな違いに思えますが、この違いは重大です。

「道徳法則」や「善なる性質」など人にはない

以前書いたように、カントはすべての人の中に「道徳法則(人が従うべき究極の行動のルール(わかりやすく言えば「良心の声」」)があると考え、それに従って行動することで普遍的な「善」が可能になると考えました。(くわしくは、「『正しさ(正義)』と『よさ(倫理)』の違い〜『正義』から『責任』へ(その1)〜」をご覧ください。)

しかし、カントがいう「道徳法則」や、孟子がいう「善なる性質(誰もが生まれながらに持っている善の心(憐れみの心など)」が、人の中にあるわけではありません。そのようなものにもとづく「正しさ(正義)」もありませんし、「よい行為(善)をしなければならない義務」も人にはないのです。

「責任」を果たすことを求めることの重要性

「正しさ」で人は動きません。人を動かすには、その人に自分が「強い立場」にあることを思い出させ、その人に「責任」を果たすことを求めることが必要です「強い立場」、「力」には必ず「責任」がともなうからです。このことを次回、書きたいと思います。


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