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パワーハラスメントを解決するには(その2)~パワーハラスメントについて考える(その6)~

パワーハラスメントの解決とは、なにがどういう状態になることをいうのでしょうか前回はこのことを考えずに、早急にパワーハラスメントの解決(解消)について、語り始めてしまいました。反省しています。

パワーハラスメントの解決は、関係する三者それぞれで違う

パワーハラスメントの解決をどう考えるかは、実はパワーハラスメントに関わる三者によって、まったく異なっています。三者とは、パワーハラスメントの被害者、パワーハラスメントの加害者、パワーハラスメントの解決にあたる人(言わば仲裁者)のことです。

パワーハラスメントの被害者が考える解決

パワーハラスメントの被害者は、加害者が行っている非難や攻撃、嫌がらせを、自分たちよりも上の立場の人(力を持っている人)に、パワーハラスメント(人権侵害)として認定してもらい、加害者を「処罰」してもらうことを、「解決」だと考えます。その「処罰」の具体的内容はいろいろ考えられます。たとえば、初期の場合は加害者が謝罪し、これまでの考え方や行動・態度を改めることなどが考えられます。しかし、パワーハラスメントが本当に深刻なものになった場合は、被害者は「とにかく、あの人にはわたしの目の前から消えてほしい」と思うようになります。

パワーハラスメントの加害者が考える解決

パワーハラスメントの加害者は、相手(被害者)が指導等に従わなかったことを深く反省し、今までの態度、生き方を改めるべきだと最初は考えます。しかし、パワーハラスメントが「怒り」から「憎悪」になってしまうと、「とにかくあの人には一刻も早くわたしの目の前から消えてほしい。見ているだけでがまんならない」と思うようになります。

パワーハラスメントの解決にあたる人はさまざま

パワーハラスメントが起きてしまうと、いろいろな人がその解決(仲裁)にあたることになります。職場では被害者、加害者の近くで働く人(同僚等)がそれにあたることもありますし、被害者、加害者より上の立場の人(上司等)があたることもあります。コンプライアンス委員会とかハラスメント防止委員会などがある場合は、その委員があたることもあります。そのような人たちが共通して目指すことは、基本的にはこの問題の「早期円満解決」です。ひと言で言えば、早くこのトラブルを終わりにして、お互いに仲良くしてもらうことです。

パワーハラスメントの解決にあたる人の考える解決

パワーハラスメントの第三者、つまり「加害ー被害」関係の外にいる人にとっては、パワーハラスメントが起きていること自体が、「きわめて困ったこと」です。ですから、集団(職場等)にとっては、多くの場合、加害者だけでなく、被害者もまた、「きわめて困った人」になっています。ところが、加害者も被害者も自分たちのしていることが、自分たちが属する集団にどれほど悪影響(ダメージ)を与えているかを、ふつうきちんと認識していません。もちろん、周りの人に嫌な思いをさせていることはわかっていますが、それは全部「相手が悪いから」なのであって、「わたしのせいではない」というのが、一般的な受け止め方です。

三者の「正しさ」は交わらない

パワーハラスメントの解決に当たる人(仲裁者)は、被害者と加害者双方の意見を聞いたり、自分の考えを述べたりしているうちに気づくことがあります。それは、被害者の主張する「正しさA(人権の尊重等)」と、加害者の主張する「正しさB(職場のきまり、人としての常識等)」とが絶対に交わらないということです。さらに、加害者と被害者を説得して、それぞれの考えや態度を変えて、集団のつながり・秩序を取り戻そうとする自分の考えもまた、被害者や加害者にとっては、受け入れられないものなのだということです。「互いの立場を理解して、譲り合ってほしい(ひと言で言えば、「仲良くやってほしい」)」という自分(仲裁者)の考えもまた、被害者や加害者にとっては、自分を非難する理不尽な「正しさC(集団の都合等)」だととらえられ、拒否されていることに気づきます。

仲裁者の憂鬱

このようなことは、パワーハラスメントの解決にあたったことのある方なら、誰でも実感していることだと思います。また、そのような経験のない方でも、これまで感情的にぶつかりあっている「けんか」を仲裁しようとしたことのある方なら、想像がつくかと思います。昔から、「夫婦げんかは犬も食わない」と言います。ただ、夫婦げんかは多くの場合、放っておけばまた前のように暮らしている(元の鞘に収まる)ことが多いものですが、パワーハラスメントの場合は、放っておけば、必ず双方の憎しみが深まって、さらにひどいものになる点が違うかもしれません。

三者の「正しさ」がぶつかり合う

パワーハラスメントの解決とはどういうものをいうのでしょうか。被害者が考える「解決A」は、被害者の考える「正しさA」に基づいています。加害者が考える「解決B」は、加害者の考える「正しさB」に基づいています。この二つの考えは、絶対に交わりません。さらに、現実的な解決を図ろうとする第三者(仲裁者)の「正しさC」は、被害者と加害者の双方にとって認めがたい妥協であり、ごまかしであり、自分の持っている「正しさ」を否定するものと感じられます。「正しさA」と「正しさB」と「正しさC」は、言わば空中に引かれた絶対に交わらない三本の直線のようなものです。正しさの基準が、それぞれまったく違うので、比べようもないし、妥協(調整)のしようもないのです。

自分の思いどおりになる解決は、ふつうはありえない

人にとっての問題の解決とは、ふつう目の前の問題が、最終的に自分の考えに近い形におさまった場合をいうのでしょう。しかし、実際には、われわれは誰もが自分とは違った考え方や行動をする人といっしょに生活しているのですから、完全に自分の考えどおりの形で、ものごとがおさまることはまずありえません。(そんなことは、相当強力な力(理不尽な力=暴力)を使ったりしなければ、まず不可能でしょう。)もしも、そんなことが仮に起きたら、わたしが100パーセント満足している分だけ、相手は100パーセント不満や苦痛を感じているはずです。それを「解決」と呼べるのでしょうか。わたしにはそうは思えません。逆の立場になった場合はなおさらです。

加害者も被害者も深く苦しんでいる

パワーハラスメントにおいては加害者も被害者も、ものごとが自分の思いどおりにならないことに、深く苦しんでいます。自分としては、誰が見ても「正しい」と思うはずだと考えている「自分の正しさ」が、相手に、そして自分の属する集団では「正しいこと」として認められないこと(踏みにじられていること)に屈辱と怒りを感じています。もし、パワーハラスメントにおいて、なんらかの「解決」があるとすれば、それはたぶん被害者と加害者のこの「屈辱と怒り」、「苦しみ」をなくす(減らす)ことだろうとわたしは思います。たぶん、それが現実に可能なパワーハラスメントの「解決」なのだろうとわたしは考えます。第三者(仲裁者)が、どういう手順を踏めば、それは実現するのでしょうか。

まず、被害者の声に耳を傾ける

そのためには、第三者が被害者(弱い立場)の思いをよく聴くところから始めるべきです。加害者(強い立場)よりも、弱い立場の思いを優先するべきです。それは、被害者の言っていること(「人権は尊重されるべきだ」等)の方が正しそうだからというのとは、ちょっと違います。また、被害者への「思いやり」とか、被害者は「気の毒だから」ということとも違います。パワーハラスメントがこれからどうなるか、その今後のあり方を決定する力を持っているのは、実は「弱い立場」の人の方だからです。(被害者が、自分はパワーハラスメントを受けていると思っている限り、パワーハラスメントは終わっていないのです。)パワーハラスメントの解決の鍵(キー)になるのは、被害者です。だから、被害者から聴き取りを始めます。(パワーハラスメントがこれからどうなるかを決めるのは、「弱い立場」の方であるという点については、「高校生のための人権入門 第21回『力の関係としての人間関係』」の中の「『弱い立場』の人が、最終的な決定権をもっている」の部分をご覧ください。)

次に、「強い立場(加害者)」のやり方を変える

しかし、具体的な方策を進めるのは、逆に加害者の方からになります。つまり、解決に向けて、最初にやり方(行動)を変えるのは、「強い立場」の人の方になります。この順番は変えることはできません。なぜ、やり方(行動)を変えるのは強い立場(力を持つ方)からなのでしょうか。それは、強い立場(=力)には、必ず常に責任が伴うからです。責任の伴わない力というものは、ありません。人を自分の意のままに動かそうとすること(=力)には、そのことについての責任が必ず発生します。(このことに気づかない「力を持つ者」がなんと多いことでしょう。)

聴き取りは弱い立場から、方策は強い立場から

つまり、聴き取りは弱い立場から、方策は強い立場から行うことになります。この順番で行わない限り、パワーハラスメントが生んでいる被害者と加害者の「苦しみ」を減らすことはできません。(前回は、このような考えに基づいて、パワーハラスメントの解決の(と言うよりは、悪化を防ぐ)方法について考えました。)

両者への「処分」としての人事は、なにも解決しない

そうは言っても、これは実際には「絵に描いた餅」にすぎません。「弱い立場」の人の思いや事情の聴き取りができても、それに基づいて「強い立場」の人の具体的なやり方(行動)を変えるところで、ほぼ間違いなくつまずいてしまいます。「なぜ、わたしがあの人のためにそんなことをしなければならないんですか。悪いのは、おかしいのは、あの人の方じゃないですか」と「強い立場」の人(加害者)は必ず言い出すからです。パワーハラスメントを解決しようとする人の努力は水の泡になり、結局、職場でのパワーハラスメントの処理は、「あの人をわたしの前から消してくれ、いなくしてくれ」という双方に共通する主張を生かして、両方を別の課などに移すことで、「解決」としてしまうことになります。そして、そのような人事は両者への「処分」として行われることも多いのです。これが何の解決にもならないことは、今まで何度か書いてきたとおりです。

パワーハラスメントを解決することの困難

結果として、パワーハラスメントの解決は、ほとんど不可能ということになります。こうして人間関係の問題を解決することのむずかしさにぶち当たりますが、それでももう少し、パワーハラスメントの解決について考えていきたいと思います。

終わりに

御米(およね:宗助の妻)は障子の硝子(ガラス)に映る麗(うらら)かな日影をすかして見て、
「本当にありがたいわね。ようやくの事(こと)春になって」と云って、晴れ晴れしい眉(まゆ)を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を剪(き)りながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏(はさみ)を動かしていた。(夏目漱石『門』末尾)

かつて夏目漱石の『門』のこの部分を読んだ時、「この世に解決することなどなにもない」と、漱石は主人公の宗助に言わせているような感じがしました。確かに、「問題が完全に解決することなどありえない」のかもしれません。ようやく訪れた「麗(うらら)かな」日は、しかし、いつまでもは続かない。そのとおりだと思います。しかし、考え方を180度変えてみれば、「この世に解決しないことなどなにもない」とも、言えるのではないかと最近は考えるようにもなりました。この世がこの世として、ひとつの形で存在する(し続ける)ということ自体が、ひとつの「解決」なのではないかと考えるようになったからです。このことについては、またいつか書いてみたいと思います。


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