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「正しさ(正義)」と「よさ(倫理)」の違い 〜「正義」から「責任」へ(その1)〜

前回、「トロッコ問題」という思考実験を使って、普遍的な絶対的な「正しさ(正義)」というものは「虚構」だ、しかし、だからといってこの世に「よさ(倫理)」がないことにはならないということを述べました。ただ、「正しさ」と「よさ」の区別については、言葉たらずなところがあったと思いますので、少し補足をしたいと思います

「正しさ」は普遍的、絶対的なもの

本来、「正しさ」というものは、相対的なものではありません。「正しいこと(正解)」は、常にひとつだからです。つまり、ある行為が「正しい」かどうかは、○(正しい)でなければ、すなわち×(間違い)なのであって、△(まあまあ正しい)は本来ありません。前回取り上げた「トロッコ問題」が解きがたい問題のように見えるのは、二つの選択肢のどちらを選んでも、それで○(正解)とは、思えないからです。

「よさ(よい)」は相対的なもの

これに対して「よさ(よい)」は、本来、相対的なものです。ああするよりは、こうする方がよいが、しかし、こうすることが最高(唯一の正解(正しいこと))かといえば、そんなことはたぶんありません。もっといいやり方があるかもしれないからです。つまり、「よさ(よい)」の世界は、言わばすべて△(まあまあ正しい)の世界だということになります。「トロッコ問題」は、「正しさ」を行為の選択の判断基準とすること(どちらが○かを決めること)の不可能さ(矛盾(二律背反))を、あらわにする思考実験だといえます。

ちなみに、「Aにくらべれば、Bの方がより正しい」とか、今、わたしも使ったような、「Cもまあまあ正しい」というような言い方を聞くことがありますが、厳密にいうなら、このような相対的な言い方に「正しさ」を使うのは、間違いです。相対的なものには、「よりよい」とか、「まあまあよい」というような「よい」を使うべきでしょう。

『実践理性批判』では、なぜ「神の存在」が必要になるのか

ドイツの哲学者、イマヌエル・カントは『純粋理性批判』の後に『実践理性批判』という本を書きました。『純粋理性批判』が真理(真)を論じた本だとすれば、『実践理性批判』は倫理(善)を論じた本です。前回も述べたように、『純粋理性批判』の中でカントは、「神はあるともないとも言えない(それは理性では判断できない)」と考えました。ところが、『実践理性批判』の中でカントは、この世界で善が成り立つのためには、「神の存在」と「魂の不死」と「人間の自由」が必要不可欠だと書いたのです。『純粋理性批判』では、「神の存在や魂の不死や自由について判断することは、アンチノミー(二律背反)におちいるので不可能だ」と述べたカントが、なぜ、『実践理性批判』の中では、その主張をひっくり返すかのように、人間には「『神の存在』と『魂の不死』と『自由』がどうしても必要だ」などと言い出したのでしょうか。

カントが目指したもの

そもそも、カントにとって、「純粋理性」とは真理(真)に関わる理性、いわば「そうであるかどうか」に関わる理性です。それに対して、「実践理性」とは倫理(善)に関わる理性、いわば「そうすることがよいかどうか」に関わる理性です。この二つの理性は別のものですから、純粋理性にとって「アンチノミー(あるともないとも判断できないもの)」であるものが、実践理性にとって「必要(なければ困るもの)」と考えられても、そのこと自体には論理的に矛盾はないのです。ただ、カントが、『実践理性批判』の中で、『神の存在』などを「あるともないとも言えない」ですましておけなかった理由は、彼が『実践理性批判』の中で、なんとしてでも「普遍的な善」の論理的な根拠づけをしたいと考えたからです。

「よい」行為とは、人のためになる行為なのか

人はなぜ行為に「よさ」を求めるのでしょうか、なぜ、ある行為は「よい」といえるのでしょうか。そう聞かれれば、ほとんどの人は、「その行為が、広い意味でわたし(たち)のためになるから」と答えるでしょう。つまり、人は自分にとって「ためになるもの(「幸せ」を含めた広い意味での「利益」)」を求め、それが実現した時によろこびを感じる。人は当然、そのようなよろこびを求めるから、よろこびをもたらすような行為が「よい」行為と呼ばれるのだ。多くの人は、たぶんこのように考えているのではないでしょうか

しかし、このような考え方には致命的な欠点があります。現実には、わたし(たち)にとって「よい」ことが、他の誰かにとって「わるい(よくない)」ということが、必ず起きてくるからです。利害の対立です。つまり、このような「よさ(善)」は、普遍性(すべての人にとって、それがいいと思えるような「よさ」)を持っていないのです。カントはこのような普遍性のない「よさ(善)」を批判し、すべての人が「よい」と思えるような普遍的な「よさ(善)」を、なんとか論理的に根拠づけたいと考えたのです

カントが考えた「よさ(善)」とは

その苦心の結果として、彼が考えた結論は、どんな人間も「道徳法則(人が従うべき究極の行動のルール、わかりやすく言えば「良心の声」)」を持っており、それにもとづいて生きることが「よさ(善)」なのだということでした。ただ、この考えには大きな難点があります。たとえ、すべての人の中に「道徳法則」があっても、人はそれに従って生きることも、それに従わずに自分の利益のために、人を裏切って生きることも、たぶんどちらでもできるからです。

「道徳法則」に従う「意味(理由)」としての「神の存在」

そこで、カントはすべての人が道徳法則に従って生きようと思うためには、(彼自身が『純粋理性批判』で、その証明が不可能であるとした)『神の存在』と『魂の不死』が、どうしても必要になると考えたのです。もし、神が存在せず、この世の人生だけで自分が終わる(命とともに、魂も滅びる)のであれば、人は「この世でいい思いをすれば、それでいい」と考え、「道徳法則」に従う「意味(理由)」を感じないからです。だから、カントは「神の存在は証明できないが、神の存在は人間が『よく』生きるためには必須だ」と考えたのです。このことを、彼は「神の存在は、要請される」と言い表しました。「魂の不死」についても同じです。

普遍的な「道徳法則」などはない

しかし、残念ながらカントの考えは今のわれわれを納得させません。彼がいうような普遍的な「道徳法則」などというものは、そもそも人の中には存在しないとわれわれは思うからです。「道徳法則(いわば、「良心の声」)」が、人の中にあるように思えるのは、人が成長する中で、家族や社会の「正しさ」「よさ」を(逆に言えば、「禁止」や「禁忌」を)、自分の中に無意識に取り込んでおとなになるからです。そのため、「道徳法則(「良心の声」)」は時代によって、民族によって少しずつ違ってきます。

カントは「善」を、「〜すべし」「〜しなければならない」という「道徳法則(いわば、「良心の声)」の命令に応える行為としたために、結果として「善」を、虚構としての「正しさ(正義)」にきわめて近いものにしてしまいました。そのため、カントのいう「善(道徳法則に基づく行為)」では、「トロッコ問題」を解決することはできません。

ロールズの考えた「正義」

カントは1804年になくなりましたが、20世紀の「正義論」として、代表的なものに、アメリカの哲学者ジョン・ロールズが書いた『正義論』(1971年)があります。その中で、ロールズはこんなことを言っています。

「社会的および経済的不平等は、2 つの条件を満たす必要があります。第 1 に、公平な機会均等の条件の下で、すべての人に開かれた地位および役職が与えられることです。 第2に、社会で最も恵まれない人々に最大の利益をもたらすことです。」     (Google翻訳による)

「利益」にもとづく「正しさ」や「よさ」がもたらすもの

このロールズの考えについて、書きたいことはいろいろあるのですが、ただ一点に絞れば、このような「利益」にもとづく「正しさ」や「よさ」の論は、書き手を含めてすべての人を裏切るものになるということです。その典型的な例が、ジェレミー・ベンサムの有名な「社会は、最大多数の最大幸福を目指すべきだ」という主張です。「最大多数の最大幸福」と言いながら、ベンサム以降、実際にイギリスにおける民主主義と市場社会がもたらしたものは、世界中(植民地など)からの富の収奪と国内における格差の拡大でした。そしてそれは、そっくりそのまま今の「民主主義国家」アメリカに引き継がれています。結果としてもたらされるものは、「きわめて少数の者の最大幸福」です

ロールズにとって「社会的および経済的不平等(格差など)」は、すべての人の平等という「正しさ(正義)」の反対側にあるもの(よくないもの)と考えられます。しかし、彼はそのような「不平等(格差など)」も、「機会均等」が保証され、かつ社会的に恵まれない人々への大きな「利益」につながるものである限りにおいて、容認できる(「正しい」)と考えました。

利益を得るのは、「力を持っている者」だけ

ロールズの考えは、共同体を「善」の基盤と考える人たち(マイケル・サンデルたち)からも、逆に自由競争を社会の基盤と考えるリバタリアン(自由至上主義者)たちからも批判されましたが、歴史の流れの中で見れば、「新自由主義(ネオ・リベラリズム)」の流れに飲み込まれたように見えます。(もちろん、新自由主義が、リバタリアンの考えにきわめて近いものであることは、言うまでもありません。)

彼の言っていることはその主張だけを見れば、社会的正義を守ろうとしているように見えます。にも関わらず、なぜ、彼の主張は新自由主義に飲み込まれてしまったのでしょうか。それは、「正しさ」や「よさ」の基準に、「利益」を置いたからです。「正しさ」や「よさ」の基準に、「利益」を置く限り、どんな条件(「恵まれない人々に最大の利益」等)をつけようと、実際には、建て前としての「すべての人の利益」は、必ずその社会でもっとも「力を持っている者(つまり、すでに社会から利益を人一倍受けている者)」のさらなる「利益」にすり替えられてしまいます。これが現実に起きたことであり、今も起きていることです。

「トリクルダウン」という嘘っぱち

日本のバブル崩壊(1990年)以降、ひたすらわれわれが自分に言い続けてきた「(日本の)企業がもうかれば、(日本の)国民も豊かになる。逆に、(日本の)企業が倒れれば、(日本人は)みんな終わりだ。」という考え方が、この30年間にもたらしたものは、発展途上国での人権を無視した労働、国内の格差の拡大、中流階級(ミドルクラス)の貧困化です。日本に新自由主義が政策として導入された頃(2001年以降)に、しきりに言われた「トリクルダウン(金持ちがもうかれば、おすそ分けが庶民にもいく)」という理論が、まったくの嘘っぱちであったことを、われわれはこの20年間で身にしみて思い知らされました。

カントのすばらしさと間違い

その点で、カントが「よさ(善)」を考えるにあたって、「(幸せを含めた)利益」と「よさ(善)」を厳しく切り離したことは適切でした。さらに、純粋理性(真理(真))と実践理性(倫理(善))を分けて考えたカントの考え方にも賛成できます。しかし、カントが普遍的な「よさ(善)」がある(なければならない)と考え、自分が考える「よさ(善)」を、人にとって普遍的な「正しさ(そうすべきもの)」にしようとしたのは、間違いですこの人間の世界における「よさ(善)」は、どこまでいっても人がみな「そうしなければならないこと(義務=正しさ=正義)」にはなりえないし、そうしてはいけないのです。「そうしなければならないこと(義務=正しさ=正義)」の不可能さをわからせてくれるのが、前回取り上げた「トロッコ問題」でした。

「正しさ」や「利益」と切り離しても「よさ」は成り立つ

では、この世には「そうしなければならないこと(義務=正しさ=正義)」などない(「虚構」だ)ということになってしまえば、よりよい生き方、よりよいあり方を目指すことは無意味になるのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。ただ、「そうしなければならないこと(義務=正しさ=正義)」や幸せも含めた広い意味での「利益」と切り離して「よさ(善)」を考えるためには、大きな発想の転換が必要です。そのためのキーワードが「責任(そうしないではいられない)」です。

次回は、このことについて書いてみようと思います。

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