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高校生のための人権入門(9) ジェンダーについて

前回、「同和問題(部落差別)」の後は「女性の人権」について書く予定だと記しましたが、その前に今回は、「ジェンダー」について書いて、次回以降に「性的少数者の人権」や「女性の人権」について書くことにしました。

はじめに

もう何十年も前に、岸田秀という心理学者が、「人間は本能の壊れた動物である。」と言いました(『ものぐさ精神分析』(青土社、1977年)など)。確かに、人間は本能が壊れていて、本能に支配されない生き物であるからこそ、文化をつくり歴史をつくることができるのです。(もし、そうでなければ、人間は他の動物と同じように、何百年経っても同じ生活の仕方を繰り返すことになります。)そして、「人間の本能が壊れている」とするならば、性愛においても、人間は生まれつき持っている性質(本能)に基づいて、「自然に」性愛に関わる行動を行っているわけではないということになります。

前回、ジェンダーとは、「社会的、文化的な男女の性的役割(分担)」のことで、どの社会、文化もジェンダーを持っていること、ジェンダーとはわかりやすく言ってしまえば、その社会、文化が考える「女らしさ/男らしさ」のことだと書きました。そして、ジェンダー(「女らしさ/男らしさ」)の中身は、社会や時代によって違うにも関わらず、その時、そこに生きている人にとっては、ジェンダーは常に理屈抜きで、「そうであるのが当たり前、そうでなければおかしい。」ものと感じられているということも述べました。

ジェンダーという視点の問題点

しかし、ここに問題があります。ジェンダーという視点は、「女性の人権」や「男性の人権」を考える上ではとても役に立つのですが、「性的少数者の人権」や「性の多様性」を考える上では、実はあまり役に立たないのです。それどころか、むしろ邪魔になることさえある気がします。(どうしてそうなのかは、次回、ふれたいと思います。)そのため、今書いたような、通り一遍のジェンダーの説明では、この後、「性的少数者の人権」、「女性の人権」について書いていくのには、どうも不都合な気がしてきました。それでこれから、ジェンダーについてのわたしなりの考えを、書いてみようと思います。

社会的、文化的につくり上げられた「性的役割(分担)」というもの(ジェンダー)は、物心つく前からわれわれの中にすり込まれたものなので、ふだんはあまりにも「当たり前で、自然なこと」のように思われています。そのため、ジェンダーが、「無意識の思い込み」としてわれわれの行動や判断を強く支配していると言われた時、わかる人は一瞬でわかるのですが、わからない人はいくら説明されてもわからない(納得できない)ということが起きます。できればそんな方にもわかっていただきたいと思って、わたしなりにジェンダーが、どのようにして人を支配するようになるかをこれから説明してみたいと思います。わかりやすくするために、多少、比喩なども使って、人間が生まれた時から時間を追って物語風に説明します。

われわれは「女という役」と「男という役」を演じている

人は、ひとりひとりが、ほかの人とは違う「さまざまな性質」を持って生まれてきますが、生まれるとすぐに身体的特徴から「女性」と「男性」のふたつに分けられます。これがその人の性別(セックス)となり、戸籍にはその性別が記載されます。それ以降、「女性」に分類された人は「女という役」を、「男性」に分類された人は「男という役」を割り振られ、周りの人々からはその役を一生演じ続けることを求められます。生まれた途端に人間に与えられる、このたった2種類しかない「役」がジェンダーだと考えるとわかりやすいと思います。

役が与えられた後は、周りのおとなから、例えば男の子は活発に行動するとほめられ、女の子は活発に行動すると、「やめなさい。(女の子なんだから)」と叱られるようなことが、絶え間なく行われます。結果として、男の子は時間とともに、より「男の子らしく」なり、女の子は時間とともに、より「女の子らしく」なるということが起きます。さらには、女の子は女の子とつき合い、男の子は男の子とつき合う中で、男女の違いはさらに強まっていきます。

赤ん坊に、「性格」と呼べるものがどの程度あるかは疑問です。しかし、よく観察すれば、ひとりひとりの赤ん坊の動きや反応が、大なり小なりすべて違うのは、誰でも感じることです。生まれたばかりの赤ん坊は、まだ心と体も分離していない、言わばひとつの「混沌としたエネルギーの塊(カオス)」のような存在ですが、そのカオスの性質はあきらかに個々に違っています。この個々に大なり小なり違うすべての赤ん坊を、体の特徴でたった2種類の役に振り分け、その子は一生その役を生きることになります。

たとえば、人はみなある程度の「積極性」とその逆の性質である「消極性」の両方を持って生まれてきます。二つの比率は人によって違うでしょう。ところが、ジェンダーは、身体的特徴が男性である幼児には、「積極性(例えば、活発さ)」を前面に出した生き方を、逆に身体的特徴が女性である幼児には、「消極性(例えば、おとなしさ)」を前面に出した生き方(振る舞い、演技)を、当然のこととして求めるのです。これが、「男という役」、「女という役」を割り振るという言葉で先ほど表現したことです。

ジェンダーはわたしの中から出てきたものではない

おとなになってから、われわれは生活している中で、時々、目の前の女性に「男性的なところ」(例えば、「大胆さ」)を感じたり、逆に目の前の男性に「女性的なところ(例えば、「受け身な姿勢」)」を感じたりすることがあります。これは、言わば、「役を演じているうちに、思わずその人の『地』(持って生まれた性質)が出た」のが見えた場合と言えるのではないでしょうか。

また、スイスの心理学者、ユングの言う「アニマとアニムス」ではありませんが、どんな人も自分の心の中をのぞき込んでみると、自分の中に「女性的なところ」と「男性的なところ」の両方が潜んでいるのを見ることができると思います。このようなわたしたちの実際の経験からわかることは、「女らしさ」、「男らしさ」というものが、人が生まれる前から持っていたものではなく、人が生まれた「後から」、その人の「外(文化、社会、人間関係等)から」、その人に「与えられた(押しつけられ、要求された)」ものだということです。ジェンダーは、人間に「外から」与えられたものであって、自分の中から生まれてきたものではないので、程度の差はあれ、自分に与えられた(押しつけられ、要求されている)ジェンダーという「役」に、時としてなんらかの「違和感(生きづらさ)」を感じる方が、むしろ当たり前なのだとわたしなどは思います。

その人の性質(性格や行動等)は、染色体(女性はXX、男性はXY)では決まりません。もし、染色体で決まるものならば、人の性質(性格や行動等)は2種類しかないことになります。しかし、実際には、女と男という大きな傾向はありながら(それは、ジェンダーがつくり上げたものです)、個々の人の性質はすべて違います。つまり、染色体や遺伝子は、人間の性質を部分的にしか支配していないということです。特に人間の「社会的、文化的行動」や「性愛の行動」への支配力は、どうもあまりなさそうです。最初に述べた「人間は本能の壊れた動物である。」というのは、そういう意味です。(本能の支配力が一切ないという意味ではありません。)そして、人間において、染色体や遺伝子の支配力の足りない部分を補っているもののひとつが、ジェンダーの支配力だということになります。

ジェンダーの支配がもたらす二つのこと

以上、ジェンダーについて、わたしなりの考えを述べてきました。今述べたことから、ジェンダーの支配がもたらすこととして、重要なことを二つ引き出すことができます。ひとつは、「ジェンダーは、われわれに『人間には、女と男しかいない』と思わせる。」ということです。多様な性質をもって生まれてくる人間をジェンダーは、「女」と「男」の二種類だけに分けてしまいます。この世に、性は「女」と「男」の二種類しかないことにしてしまうのです。このことは、たぶん次回お話しする「性的少数者の人権」や「性の多様性」と深く関連します。

もうひとつは、「ジェンダーは、われわれに『女は女らしく、男は男らしく生きること』を、あたかも『自然で、当然のこと』と思い込ませ、そうでない生き方をする人は『おかしい』と思わせる。」ということです。これは、たぶん次々回にお話しする「女性の人権」と関連します。

これで、なんとか「性的少数者の人権」と「女性の人権」についてお話しする準備ができました。


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