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『進撃の巨人』感想〜「虚」の世界を生きていくことによって逆説的に見えてくる「実」、そしてエレンの最期が意味するもの〜

先日書いた通り、『進撃の巨人』を原作漫画・アニメ共に全て視聴し終えたので感想・批評をば。

評価:A(名作)100点満点中85点


戦後日本が作り上げてきた「虚」の世界の終焉

本作を一言で表すなら「戦後日本が作り上げてきた「虚」の世界の終焉」とでもいうべき作品であり、正に「平成の終焉」を司るにふさわしい時代の鏡を表すものであったといえよう。
今風に言えば「地の時代の終焉」ともいえるわけだが、アニメの主題歌にある「虚偽の繁栄」という言葉が皮肉にも本質を言い当てており、本作で描かれているものは全て日本視点で見た現代の戦争のカリカチュアである。
主人公たちエレンが居る世界は一見「実」に見せかけた「虚」の世界であり、最初はハードな路線の軍記物として物語が進んでいくわけだが、後半に進むにつれてそれが全て実体の無いものであるとしてベールが剥がれていく。
その中で主人公・エレンの内面も含めてあらゆるものが全て裏切られていき、何なら「人類VS巨人」という構造すらもなくなり、善悪すらも超えたものとしての「現実」のみが立ちはだかることになる。

その意味で本作の構造は一見『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』が唱えたような「主人公たちが戦うべきは「戦争がある」という世界」であることが示され、更にその奥には「際限なく膨れ上がる個人のエゴ」があった。
そして『新世紀エヴァンゲリオン』では更に「個人の意識がそのまま現実世界に反映される=対象が認識に従う」が反映され、碇シンジの思った方向に世界が動いていくという哲学的・精神的な領域へ突入する。
それら戦後の日本の漫画・アニメ・特撮が示してきたあらゆる「戦い」のフォーマットを悉く脱構築=離していくのが『進撃の巨人』であり、これが平成最後の10年〜令和初期を跨ぐ時期に登場したのも時代の必然であろう。
ある意味ではポスト「エヴァ」と称するに相応しい作品であり、「エヴァ」が最終的に精神世界の嘘を使って逃げてしまった現実に対し、本作は徹底して逃げずに向き合うことを選択した

そういう意味で本作は一見軍記物のフォーマットを丁寧に継承しそれに準じた流れで作っているように思わせておきながら、それすら最後に崩して破壊するための大筋が仕掛けられているというわけだ。
この構造を見てピンと来た人はご存知だと思うが、本作の「一見真っ当な王道路線のようでいて、それすら終盤でどんでん返しにする布石」という特徴自体は決して本作に固有のものでは無い。
日本の伝統芸能である能・狂言や歌舞伎はこういう「手負」や「どんでん返し」は良くやっているし、それこそアニメのシリーズ構成を3期まで務めた小林靖子なんかはこれを得意中の得意としている。
最初にメインを手がけた『星獣戦隊ギンガマン』は王道中の王道を行った作品だから別として、それ以後の『未来戦隊タイムレンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』は正にそういう「裏切り」の構造だ。

しかも原作者の諫山創はネットヘビーユーザーであるサブカルが大好きであることから、ネットにある意見も含めて様々な日本のサブカルの傾向やトレンドを押さえた上で本作に反映しているという。
そこも含めての「時代を映す鏡」であり、2010年代に向けてあらゆる日本のメインカルチャー・サブカルチャーが衰退や終焉を見せていく中で本作も正にその役割を担っていたといえる。
戦後日本の昭和の40年と平成の30年が作り上げた「虚」を中世ヨーロッパの戦記物を表面上は借りつつ、それを日本的な伝統芸能の手法によって裏切り悉く解体していったのだ。
それでは本作には果たしてどのような「虚」が浮き彫りとなり、それを締めくくった主人公エレン=イェーガーの最期が意味するものが何であったかを論じてみよう。

二重に面白い戦闘シーンの「虚」

本作はどうしても世界観・物語・キャラの全てが用意周到に組み込まれているために文芸的な部分ばかりが評価されがちだが、まず本作を評価する上で一番大事なのは戦闘シーンの「虚」である。
漫画・アニメ共に何と言っても戦闘シーンが素晴らしく、何より巨人をあそこまでのど迫力とスピードで動かせたという例は未だかつてなかったのでは無いだろうか。
巨大なものを動かすという意味で個人的に一番高く評価していたのはやはり石川賢の『ゲッターロボ』『虚無戦記』などであり、人間サイズの等身大な戦闘シーンが一番良くできているのは鳥山明の『ドラゴンボール』である。
だが、前者は巨大ロボットの戦闘シーンこそ見事だが等身大戦の躍動感はともかく迫力がイマイチなかったし、後者は逆に等身大戦をスピーディーかつ迫力満点で見せていたものの巨大戦は微妙であった。

これは東映特撮・円谷特撮などもそうなのだが、巨大戦と等身大戦を同時展開する上で難しいのは「迫力」と「スピード感」の両立であり、大抵はどちらか一方のみが優れることになる。
例えば東宝怪獣映画(ゴジラ・モスラなど)やその親戚である円谷特撮(ウルトラマンなど)は等身大戦より巨大戦の迫力が売りになるし、東映特撮は逆に等身大戦が売りであった。
スーパー戦隊シリーズを見るとわかるが、スーパー戦隊シリーズで巨大戦に重きを置いている作品はあまりなく、元々等身大のチームバトルの延長線上に巨大ロボ戦がオマケとしてある程度だ。
逆にメカニックを売りとして見せようとすると等身大戦があまり面白くないことになりがちであり、あっちが立てばこっちが立たずというのは長年の課題であった。

もちろん1つの解決策としては、例えば『闘将ダイモス』『機動武闘伝Gガンダム』のように人機一体型のシステムにすることで等身大の迫力を違和感なく巨大戦の魅力へ昇華するという方法もある。
現に『新世紀エヴァンゲリオン』もその人機一体のシステムを推し進めたものだから可能といえば可能だが、『進撃の巨人』の凄いところは通常なら両立し得ない筈の「等身大戦の迫力」と「巨大戦の迫力」を両立したことだ。
巨人の筋肉むき出しのデザインは若干グロテスクなホラー気味なので決して好みでは無いのだが、動くととてつもなくスピーディーでカッコよく、等身大の人間との戦いも可能になるという可能性を見せてくれた。
等身大の人間と怪獣クラスの巨人が対等であるかのように見せるというのはそれ自体がある種の「」なのだが、その「虚」を本作は圧倒的な画力とコマ割りで可能にし、1つの壁を超えたのである。

先人たちがどうしても超えることができなかった「等身大戦と巨大戦の両立」という要素を本作は「作り物」として徹底的に詰めることによってまるで対等に戦っているかのように見せてしまう。
それどころか場面によっては巨人よりも人間の方が強く見えてしまうことさえあるのだが、これはいうまでもなく『ドラゴンボール』で確立された「デカイやつよりも小さいやつの方が強い」という当時は逆張りとして使われた手法の継承だろう。
その上で巨人たちもまたアニメや漫画でスピーディーに動いているように見せており、以前ならばクリアできなかった筈の戦闘シーンの壁を軽々と超えてきたという点において見事だとしか言いようがない。
最終的に全てを裏切り崩していくという脱構築を徹底するためにこそ、それを覆い隠すための大嘘やまやかしを徹底せねばならず、本作は最初の「絵の運動」としての課題を見事にクリアしている。

人類VS巨人という善悪の「虚」

本作における2つ目の「虚」とは人類VS巨人という構図それ自体であり、序盤は恐るべき巨悪ともいうべき敵として立ちはだかる巨人とそれに立ち向かう人類という図式が実体であるかのように示されていた。
意図していたかどうかは別として、巨人はいわゆる平成に入ってなくなったと言われる「巨大な悪」のカリカチュアであり、それに立ち向かう人類は某評論家のいうところの「リトルピープル(小さき人々)」のカリカチュアであろう。
ところが、これ自体も実は真っ赤な嘘であり、物語が進めば進むほど巨人というのは単なる「そういう特徴を持った人種」ということが明らかになり、決して絶対的な悪とは言い切れないという側面が出てくる。
確かに人類を食すことで殺すという野蛮な側面はあるものの、巨人自体は別に人間を食わなくても生きていけることは明らかであり、しかも薬物実験でそれを擬似的に作り上げたり「能力」としてそれを覚醒するものが居た。

特に後者が大きな問題であり、薬物実験で作り上げられた巨人とはいわば人造人間やガンダムシリーズでいう強化人間(人工型ニュータイプ)のそれであるし、主人公エレンが覚醒によって巨人になるのは「ONE PIECE」のゾオン系の悪魔の実のオマージュであろう。
このように本作では「どこかで見たことある既存の表現」が意図的かつ露悪的に盛り込まれており、このように戦後日本のバトル漫画・アニメ・特撮が用いてきた様々なアイディアを用いているわけだが、その中でエレンたちも「巨人」が悪ではない事実と向き合う
てっきり主人公たちが敵だと信じ切っていたものが実は全て所属する組織によって植え付けられた価値観にすぎず、一歩外に出て実戦として戦っていくうちにその教えは崩されていき、当然ながらその中で戦うことの意味合いも変わってくる。
これは即ち何を意味するかというと、いかに平成までの戦後日本の70年間が「仮想敵」なるものを作り上げて画一的な勧善懲悪という図式の元に戦う作品を作ってきたのかという事実を示しているだろう。

こんなことを言うと「いやその図式は「ガンダム」以降で大きく変わったじゃないか」とでもいう反論が飛んでくるだろうが、確かに『機動戦士ガンダム』を1つの分岐点としてロボットアニメを含むバトルもののあり方は変わったように見える。
『マジンガーZ』〜『ダイターン3』までのロボットアニメは「侵略する敵が悪である」という認識だったが、これが「ガンダム」以降の作品だと「戦争そのものが悪である」という価値観へとパラダイムシフトを起こす。
その意味で確かに「エポックメイキング」と評されるに相応しいであろうが、これもより俯瞰して見ると結局のところは「悪」となるものの対象が「侵略」から「戦争」に変わっただけで、本質的な勧善懲悪の図式は変わらないのではないか?
実際、フィクションとして「戦い」をテーマにする以上は主人公たちこそが正義=善でそれと敵対する者たちが悪であるという根本的な図式は何も変わっていないわけであり、平成までを見ても結局は大同小異の変化でしかない。

平成に入ると今度は「敵には敵なりの正義がある」とかいって歪んだ正義を拗らせた善も悪もないといった作品が増えてくるが、これらでも結局は何者かを悪と見定めなければ話が成り立たないのである。
つまり何が言いたいか、昭和であろうが平成であろうが戦後日本のバトルアニメは奥底で「仮想敵=悪」と定めてそいつらを憎まなければ倒せないという根底があって、大枠でそれに逆らうことができなかった。
その逆らえなかったはずの「仮想敵」の図式に真正面切って崩しにかかったのが本作であり、結局のところエレンもミカサも巨人それ自体が悪だと言えず、かといって戦争自体を悪だと断言することもできないのである。
社会の外側に悪を求めようとしたところで空回りするだけであり、正義感だの使命感だのが全ては「思い込み=虚」であることを本作は後半にかけて露呈させていき、戦いの動機を問うことすらなくなってきた。

主人公の意識が現実世界を変えていくという「虚」

そしてこれが最も大切だが、「進撃」は最終的に「エヴァ」が示した「個人の認識が対象を従わせる」という「セカイ系」と呼ばれ00年代にかけて台頭した内面に問うあり方すらも「」だとして否定する。
私が「エヴァ」に対して懐疑的だったことの1つは正にそれであり、主人公のシンジ君が望めば世界が彼の思う方向に変わっていくという図式は旧作のテレビ版も新薬の劇場版でも変わっていない。
それは言い換えれば作品の世界が結局は主人公にとって都合のいいものとして存在しているのではないかという、正の御都合主義とは正反対の負の御都合主義であるという見方もできよう。
本当に主人公の意識の在り方が現実世界を変えていくのかと言えばそういうことはない、それは「自分の選択」でどうにかなるものに関してだけをいえば自分の意識と行動で変えることはできる。

しかし、「人間万事塞翁が馬」という諺があるように人生などいつどうなるかわからず、人々にとって全てのものが都合よく存在し思うように事が進んでいくことなどほぼないであろう。
個人の力ではどんなに頑張っても限界があるわけであり、シンジ君の選択1つでどうにかなるほど世界は甘くないわけであり、それもあって私は「シン・エヴァ」の陳腐極まりない結末は容認しがたい。
本作では正にその「エヴァ」が超えられなかった壁、すなわち「主人公の意識が現実世界を変えていく」という甘い御都合主義に向き合い、終盤でエレンは戦えば戦うほど深みにはまり抜け出せないことに気づく。

エレンは外の世界を見れば見るほど立ちはだかる現実の残酷さに打ちのめされ絶望していき、かといって自身の中に世界そのものを変えるほどの圧倒的な力を持っているわけでもない。
上記で説明したように、エレンが後半で覚醒させていく巨人化能力は決して超サイヤ人や明鏡止水のような人知を超越した神秘的な超パワーでもなければ、悪魔の実のような都合のいい便利能力でもない。
どれだけの戦闘スキルを手にしたところでエレンは決して孫悟空のような戦闘狂でもなければ海賊王を目指す人にもなれないし、ましてや火影を目指すナルトのように誰かにとっての英雄にもなれないのだ。
碇シンジは最後の最後で「エヴァが必要ない世界」を選択することで最終的に「ネオンジェネシス」を発動させることで、ある意味救世主のようになれたが、本作のエレンはその他大勢ワンオブゼムから出られないのだ。

時系列を飛ばすが、最終的にエレンはミカサに殺されることを選択することによって悲劇の運命からは逃れたが、ラストのコマで上空に多数の戦闘機が出てきたカットでそれすらも無常に飲み込んでしまう。
そう、エレンが死のうが死ぬまいが現実に影響はなく、愚かな人類は今度は現代的な科学の戦闘機を使っての戦争を繰り返しているわけであり、この辺りに北野武にも近いニヒリズムが見て取れる。
北野映画では主人公が自害しようがどうなろうが現実への影響はないというのをデビュー作の『その男、凶暴につき』の結末で示しているのだが、本作も詰まる所はこの構造に近い。
だから本作はどこまで行こうと徹底してエレン・イエーガーを特別な存在として描かずに「戦いの果てに非業の死を遂げた傭兵」という厳しい現実のみを示した。

では、そんなエレンの最期は果たして何を意味していたというのか?

エレンの最期は果たして自己犠牲なのか?

エレンの最期に関して一番の疑問は「自己犠牲」なのか?であるが、答えはもちろん「No」であり、本当に自己犠牲として描くのであればもっと華々しいカチコミとして描くであろう。
それこそ自己犠牲の代表といえば漫画版『ゲッターロボ』の巴武蔵の最期だが、あれは武蔵がゲッター1ごと犠牲になるしか活路を見出す方法は存在しなかった。
しかし、本作のエレンに関しては最終的にミカサに首を刎ねられ、かつその最期が決してミカサ以外には大きな影響を及ぼさなかった辺りを見るに、これはむしろエレンの自由意思の表れに思える。
もがけばもがくほど傷を負い現実の戦争の無残さに打ちのめされるほかはないエレンは追い込まれた末に「仲間を守り他を滅ぼす」か「他を守るために仲間を殺す」の二択を迫られた。

そしてどちらの選択を選んだとしてもエレンにとって望む「自由」の実現には至らないわけであり、それならばせめて最愛のミカサに自分を撃たせることで戦いの業から解き放たれたかったのだろう。
それが不幸中の幸いであり、エレンの最期はどちらかといえば『ONE PIECE』でいうところのポートガス・D・エースの最期に近く、いわゆる「殉教者」として理想に殉じた死に方すら避けている
エースはあのまま行けば無抵抗で処刑されて終わるところだったが、そこでルフィに救われることで父親と同じ処刑の輪からは逃れて最期に赤ザルからルフィを守ることで願いを果たした。
ある意味エレンもその意味ではエースと似たところがあり、最期は最愛の人の側で死ぬという、せめてもの「救い」をそこに残す形で描いたということではないだろうか。

本作はその意味で徹底した「虚」を剥がしてどんどん「実」が浮き彫りになっていく中で、エレンが最期にミカサに打たれる形を取ることである意味では戦場における男女の「愛」の極みに達したのかもしれない。
またこの結末は男女の「愛」ですらも戦場では成り立たず、かといって無理心中という形を選ぶこともできず、だからミカサをあえて従来のおとなしいヒロインとは違う男性性が強いクールビューティーとして描いたのだろう。
私自身は決してこの結末自体は好みではない、なぜならばヒーローフィクションのあり方を根こそぎ否定するようなやり方は悪手であるし、作者もそう批判されるのを承知の上で敢えてやったことが透けて見える。
だが、それをもってしてもなお平成時代に別れを告げる「終焉」を担ったA(名作)であることに間違いはないし、この作品がなければ戦後日本のバトルもののの歴史を上手く完結させることはできなかったであろう。

好みではないが、間違いなくここ10年で一番の力作であり、長きにわたって評価されるべき逸品である。

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