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藤岡弘、と宮内洋の対談にあった「今まではヒーローは一人だった」という嘘

スーパー戦隊論のため、現在過去に遡ってヒーローものの歴史を色々と探っているのだが、その中で2011年の藤岡弘、と宮内洋の対談動画を見つけた。
動画自体は何度か見たことがあるのだが、どういう内容か気になる人は以下にリンクを貼っておくので見てみるといいだろう。

で、この動画の問題が何だったのかというと、後半で宮内洋が『秘密戦隊ゴレンジャー』について語った時のことである。

今まではヒーローというものは1人だった、それが「ゴレンジャー」で5人一辺に……これはヒーロー分散するんではないかという
(中略)最後は怪人1人に対して5人が立ち向かうわけですが、そうすると当然「弱いものいじめ」になってしまう
我々はみんな弱いんだけども、チームワークで連携すれば、どんな強敵にも立ち向かえるんだというんで、1つのサッカーボールを蹴ってフィニッシュ

うーむ、間違ってはいないのだが、実態が物凄くねじ曲げられた印象論を植え付けられているのは気のせいか?

何が言いたいかというと「嘘をつくな」ということだ、『秘密戦隊ゴレンジャー』以前にも日本の集団ヒーローは沢山存在していた
それこそ世界の黒澤が1954年に社運を賭けて作った『七人の侍』は戦後日本のチームヒーロー作品の雛型であり、「ゴレンジャー」も当然これがなければ生まれていない。
アニメで見ても1972年の『科学忍者隊ガッチャマン』があったし、ロボアニメでも『マジンガーZ』『グレートマジンガー』『ゲッターロボ』『ゲッターロボG』はチームヒーローだ。
それに宮内洋が演じていた『仮面ライダーV3』なんて初回は1号・2号が出てきているし、少年ライダー隊からライダーマンまで出てくるのでちっとも孤独ではない

それこそ『仮面ライダー』だって本当に孤独だったのは旧1号だけで、旧2号編に路線変更してからはレギュラーキャラを大量に増やして女子供が普通にショッカー相手に戦う場面もある。
しかも桜島編をきっかけにダブルライダー回もしょっちゅう入っているし、それこそ「ストロンガー」は元々から「5人ライダー」みたいなものを作ろうとしていたのは有名な話だ。
あとは「ウルトラマン」にしたって、まるで単独ヒーローみたいに言われているが、あれも勝手にセコムしているだけで真の主役は科学特捜隊なのだからチームヒーローである。
それこそ「帰ってきたウルトラマン」「ウルトラマンA」「ウルトラマンタロウ」にしたってライダーと同じようにウルトラ兄弟とか言って共闘する回はザラにあった。

あれ?「ゴレンジャー」以前のヒーローは一人なんじゃなかったっけ?

そう、実は宮内氏が言っていることは真っ赤な嘘であり、「ゴレンジャー」以前も以後も日本発のヒーローで単独ものは意外に少ないのである。
現在配信中の『イナズマンF』もライフルを持って主人公のイナズマンをサポートしてくれる相棒キャラがいるし、『仮面ライダー555』だってもう現段階でファイズとカイザが出ているのだ。
仮面ライダーが孤独なヒーローで戦隊が5人をベースとしたチームヒーローなどというのは対外的な宣伝文句のために上辺を取り繕った印象論でしかなく、実態は全く違うのである。
それに「我々はみんな弱いんだけども、チームワークで連携すれば、どんな強敵にも立ち向かえる」というのも戦隊シリーズの全てではない。

よく、スーパー戦隊シリーズは「一人一人は小さいけれど1つになれば無敵」というキャッチフレーズを売りにしているが、シリーズ作品ではそれが絶対のルールというわけではない
それこそ「チェンジマン」なんて終盤ではチェンジドラゴン1人で宇宙海賊ブーバをやっつけているし、「ジェットマン」でもブラックコンドルとグレイの一騎打ちは完全なる個人戦だ。
「ギンガマン」だって4人の幹部の内2人はギンガレッドが単独で倒しているし、他の作品でもメンバーが単独で倒す回は普通にある。
戦隊シリーズの本質がチームワークであるというのは間違いではないが、それが全てではないし例外なんていくらだってあるのだ。

以前の記事で「ウルトラマン・仮面ライダー・スーパー戦隊は「ヒーローがヒーローする」という点において大差はない」という趣旨のことを書いた。
それは宇野や切通ら批評家連中が述べていることが事実とは違ったことをさも真実であるかのように(思想面も交えて)流布しているからだ。
だが、批評家連中だけならともかくヒーローを演じた役者さんまでが誤った対外的イメージを植え付けているのはどういうことなのか?
ポジショントークなのか本気なのかは区別がつかないが、どちらにしても公式側が出している見解が常に正しいとは限らないのである。

そもそも「戦隊とは何か?」「仮面ライダーとは何か?」「ウルトラマンとは何か?」ということに関して、作り手も受け手も実はきちんと前提を見直していない気がする
実際のところは制作会社や商標・物語上の設定といった枝葉の部分が異なっているだけで、もっと本質的な部分では意外と大差はないのかもしれないということを誰も疑わない。
だが、こういう誰も疑わないところを疑っていき、作品そのものが何を映しているのかということから前提を捉え直すことをやるのが本当の批評の意義ではないか?

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