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映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が微塵も面白くない理由〜外に対する攻撃力を完全に失ってしまった庵野秀明〜

ちょうど漫画版『ゲッターロボ』を批評したついで、というわけでもないが、なぜかふと思い立って映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』というか、庵野秀明という作家について語ってみたくなったので感想・批評をば。

評価:F(駄作)100点中10点

以前から述べたように、そもそも私にとって庵野秀明という作家なんてどうでもいいわけであるが、なぜか日本ではオタク作家代表みたいな妙な神格化をされている気がしてならない。
オタク上がりの作家が別段嫌いというわけではないし、彼(というか当時のガイナックス初期メン)が作った『愛國戰隊大日本』『トップをねらえ!』は普通に好きである。
いってみれば洋画でいうクエンティン・タランティーノ流というか、B級作家であることに対して自覚的であり、その倒錯した先達へのリスペクトを惜しみなく作品の中で出していく滑稽な面白さが好きだ。
しかしいつからか、おそらくはテレビアニメ版『新世紀エヴァンゲリオン』から庵野の語り口や作家性がどんどんキザな感じというか、センチメンタルな抒情を前面に押し出してきた。

私がなぜ「エヴァ」を根本の部分から好きになれないのかというと、「オタクのこじらせ」のような麻疹じみた何かが後半から生の形でキャラを通して表出していくからである。
それでもきちんと立派なエンタメに仕上がっていれば文句はないのだが、旧作にしろリメイクにしろ、庵野秀明という作家の根底にあるものは「オタクであることの自己嫌悪」であった。
テレビ版の最終回は当時ファンからもアンチからも非難轟々だったが、その理由はいじけまくりのシンジが最後周囲に認められて終わりというのを本当にそのままやってしまったからだ
あれを最初に見た時、私は唖然としてしまったが、それでは飽き足らず庵野監督は旧劇場版『AIR』『まごころを君に』で、とにかくアニメオタクが嫌悪しそうな表現を意図的にやっている。

要するに「お前らいつまでもアニメなんか見てないでさっさと卒業して、もっと素晴らしいものを見るべきだ」という、どこぞの禿頭ロボアニメ作家と言いたいことは同じのようだ。
それを25年越しに完結したことでファンは「エヴァの呪縛から解放された」と能天気に喜んでいるらしいが、この反応が出た時点で庵野はもはや何の影響力も世間に対して持っていないのだと思えてならない
旧劇を作った頃は決して優れた作家ではなかったが、少なくとも「影響力」はそれなりにあったし、前半の12話辺りまでは自身が大好きな特撮・ロボットアニメの基礎基本がきっちり抑えられていた。
まあ流石にロボアクションの斬新さや表現力では石川賢が漫画で描いた『ゲッターロボ號』後半に出てくる真ゲッターロボの足下にも及ばないが、それでもまあ及第点くらいは与えて差し支えないだろう。

ところが、あれから時間が経って何を思ったのか再び「新訳」という形でリメイクされた「ヱヴァ」なる旧作のキャラと世界観だけを継承した別人28号を作るわけだが、その頃には庵野の影響力はさほどなかった。
元々そんなに世間一般に迎合されていた作家でもないから、私みたいな特別なファンでもないごく普通の人たちは「また何か庵野がバカやってるらしいわ」としか思っていない。
したがって新訳を熱心に見ていたのは中田敦彦やまぐ辺りに代表される狂信者、すなわち古参ファンの中でも特に「庵野秀明が作るものなら毒でも食らいます!」くらいの訓練されたドM信者のみであろう。
私は間違ってもそのような信者では決してないのであるが、だからこそ中田敦彦が懇切丁寧に解説してくれている以下の動画があまりにも必死すぎて滑稽にすら思えてきた。

ただ、流石に熱が入っているだけあるのと、中田の分析力と言語化能力は相当に高いので、これを見ると「エヴァ」がいかなる物語かがわかるので、気になる方は見てみるといいだろう。
話を戻すが、そういう意味で私の新訳「エヴァ」に対する評価は富野がやった新訳「Z」と同じで「後出しジャンケンで余計なことをした結果、原典のテイストが全部損なわれたゴミクズ」でしかない。
後出しジャンケンなら後出しジャンケンで、もっと新規のカットやロボアクションなどを追加すればいいのに、新訳で出てきた印象に残るカットは精々「破」のラストに出てくる覚醒のシーンくらいか。

これにしたって、何だか孫悟飯の超サイヤ人2やうずまきナルトの九尾の力発動と同じで、取り敢えず追い込まれたらブチ切れて覚醒し神に等しい力を手にするという程度のことだ。
親友Fも「これ完全にナルトじゃん」ってドン引きしてて私も苦笑まじりに「そうだね」と頷いたのだが、逆にいえばこんなレベルのものしか思いつかないほどの二流のセンスしか庵野は持ち合わせていない
そんな状態で、作画やカットなどの技術面は確かに上がっているものの、それでも作品全体としての完成度や「こんなのみたこと無い!」という衝撃・驚きといえるものはテレビ版に比べて皆無だった。
ただ、私が「シン・エヴァ」という完結作を見に行ったのは「庵野監督は「エヴァ」という作品をどうやってまとめるの?」という一点のみであり、それがなければもっと早い段階で損切りしているだろう。

庵野監督が出した答えは「エヴァの要らない世界=事件も何も起こらないごく普通の平和な日常」であり、こんなクソしょうもない陳腐な結末にするなら最初からエヴァに乗って戦う必要はどこにもなかった
シンジは確かに最後の選択で「戦いのない世界」を望む、それ自体は何ら悪いことではないが、決して自身も無関係とは言えない一連の事件に対してそんな雑な答えの出し方でいいのか?と思えてならない。
確かにファンをあれだけ衒学的な胡散臭い展開で振り回しておいて最終的に「救いはありません」みたいなことになる旧劇よりはハッピーエンドである分マシではあるし、それこそファンが見たかったものなのだろう。
だが、あれだけ使徒だの何だのと世界観や設定をでっち上げておきながら、最後の最後で「壮大な父親の拗らせだったんで謝罪させて撤退させます」というオチにするなら、何のためのエヴァだったのか?

こんなもののどこが「エヴァからの卒業」「エヴァの呪縛からの解放」なのか、私にはさっぱり理解も共感もできないのだが、要するに庵野は尖らず平和な世界を選んで真っ当に人として生きる道を選んだのであろう。
しかし、皮肉にも奥さんと結婚し家庭を手にすることで穏やかにはなれたのだろうが、それと引き換えに自身が持っていた作家性=内面を拗らせたオタクの外への攻撃力も失ってしまった
別言すれば「つまらなくなった」のであり、それ以降嬉々としてウルトラマンや仮面ライダーをリメイクという名の安直なエピゴーネンしか作れなくなったことで、余計にその事実が誤魔化しようがない形で露呈している。
そもそも私は「大日本」の頃から庵野監督なんて「そこそこ味のある同人上がりの作家」としか見ておらず、それこそランク付をするなら中の下二流のCという評価になってしまう。

庵野氏の何が不幸だったといって、そこそこ二次創作のセンスを持った同人上がりが「トップ」「カレカノ」「エヴァ」辺りで世間から賞賛されることで、自身も一流の作家だと錯覚してしまったことにあるのではないか?
特に「エヴァ」のヒットは富野監督にとっての「ガンダム」と同じで、時の運によって作品が特権化されたことによって、それが作家性だという過大評価をされてしまったことにある。
「シン・仮面ライダー」ではその化けの皮が剝がれて酷評の方が多くなっているが、私に言わせれば「何を今更」という話であり、庵野秀明なんてどこまで行こうと二次創作しかできない同人作家だ
それが「シン・ゴジラ」のまぐれ当たりによって「特撮もイケる」と変な評価をされ、そうして作れば作るほど質が低下していって、「エヴァ」の時と同じ縮小再生産の末の衰退を繰り返す。

「シン・エヴァ」の評価というよりは庵野監督個人への攻撃みたいになってしまったが、そんな彼の作家性の悪いところが全部凝縮されているのがこの「シン・エヴァ」という完結作である。
なんども言うが、罷り間違ってもスーパー戦隊シリーズにだけは手を出すなよということだけは釘を刺しておこう、庵野が作る戦隊なんて「大日本」で十分だ。

私は「エヴァ」なんかよりも断然男らしく永遠に戦い続ける「ゲッター」を支持する。

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