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時代性で見るスーパー戦隊シリーズの思想・信条の変遷

そろそろ本腰を入れて「ギンガマン」の黒騎士ヒュウガとリョウマの「炎の兄弟」のドラマに関する記事を書きたかったが、その前に大事なポイントを無視していた。
昨日書いた記事で私が書いた「メガレンジャーはカーレンジャーと並んで歴代最弱とファンからは言われている」という話にまさかのツッコミが来るとは思っていなかったのだ。
だが、そのコメントが来たお陰で、実は私自身もスーパー戦隊シリーズにおける思想・信条の変遷に関して、とても大事な部分を長年言語化できていなかったことに気づいた。
ただなあ、こんな抽象的な思想の話をしたところで、私はともかく今の若いファンの人たちはピンと来るのかなあ?という疑問もある。

私が書いているスーパー戦隊シリーズの場合、読者として想定しているのは簡単で私の話について来られるごく一部の少数派の人たちだ。
具体的に言えば10年来の親友である黒羽翔氏であり、私と対等に同じ思考の次元で特撮・漫画・アニメを語れる人がなかなか居ない。
だから今回の記事もぶっちゃけ彼に向けて、あるいは自分自身の思考の整理として書いているので、スーパー戦隊シリーズをしっかり見てない人にはさっぱりわからない文章になっている。
それでもいいという人にだけ今回の文章を書くが、なぜ「カーレンジャー」「メガレンジャー」が最弱と言われがちなのは歴代戦隊の通史を押さえておかなければならない。

冷戦と高度経済成長期のメンタリティー(『秘密戦隊ゴレンジャー』〜『地球戦隊ファイブマン』)


まず、初代スーパー戦隊シリーズの『秘密戦隊ゴレンジャー』〜『地球戦隊ファイブマン』までの15作、即ち上原正三と曽田博久がメインライターを担当していた時代の戦隊について押さえておこう。
この時代のスーパー戦隊は以前にも書いたように原義の意味での「戦隊」、即ち「軍隊」という設定やその雰囲気が強かった時代であり、戦いのモデルになったのは「冷戦」と「学生運動」である。
具体的にわけると上原正三が担当した『秘密戦隊ゴレンジャー』〜『太陽戦隊サンバルカン』の5作が冷戦というか軍事戦争の雰囲気がとても色濃くあった。
戦士たちはプロフェッショナル・アマチュアを問わず戦いが始まったら即座に召集をかけられ、「お前今日から戦え」「イエッサー!」という方式である。

それは『大戦隊ゴーグルファイブ』〜『地球戦隊ファイブマン』まで9作担当した曽田博久も大差はないが、曽田博久の場合は上原正三とは逆で「全共闘」のメンタリティーだった。
上から一方的に言われて「イエッサー!」ではなく、その前に「よし!なら俺たちがやろう!」という風に戦う決意を自分たちで固めるという方式である。
例えば「チェンジマン」の第一話では戦士たちに任命される前にチェンジマンに選ばれた5人がゴズマの襲撃を見て「よーし、俺はやるぞ!伊吹長官!」「俺もだ!」というシーンがあった。
普通の軍隊ならこんなノリは有り得ないのだが、学生運動のような「自発的な闘争」を上原正三が作った軍人戦隊の中に持ち込んだという意味では他に類を見ないものである。

もちろん戦士としての使命を拒否するデンジピンク/桃井あきらやイエローフォー/小泉ミカのようなタイプもいたが、それが物語全体の中で大きな影響を及ぼすことはなかった。
この時代の戦隊は高度経済成長のメンタリティーで作られており、とにかく経済力を発展させ生活水準を上げることが国の豊かさと発展を実現することになると信じられている。
そして冷戦という世界全体を覆う危機が存在している以上、いつ世界は滅んでもおかしくない訳であり、有事の際には己の全てを投げ打ってでも戦いに赴くことに誰も疑問を持たない。
つまり「お国の為なら喜んで戦いに行きましょう」がこの時代の戦隊の正義だったわけであり、今見ると若干ファシズムじみていて怖くも映るのではないだろうか。

だがその正義の形も『超獣戦隊ライブマン』で初めて負ける瞬間を迎えるのだが、あの作品は表面上はヒーローの勝ちだが事実上はヒーローの敗北であった。
確かに頭脳軍ボルトとの戦いには勝利したが、それでも勇介たちはかつての学友を救済ないし復讐するという本来の目的は果たし得ないまま終わりを迎える。
だから『高速戦隊ターボレンジャー』『地球戦隊ファイブマン』はそれを受けて、新たな正義の形を模索すべきだったのだが、両者ともそれは失敗に終わった。
特に「ターボレンジャー」は5人とも市井の高校生であるはずなのに、なぜあんなに超人のように戦えるかということに説得力がない。

だから冷戦終結・昭和天皇の崩御・バブル崩壊と80年代末に昭和時代の象徴が音を立てて崩れた時、スーパー戦隊シリーズの価値観自体もまた崩れていったのである。

冷戦時の正義の解体と再構築(『鳥人戦隊ジェットマン』)


上記の歴史の変遷を受けて井上敏樹をメインライターに据えた『鳥人戦隊ジェットマン』は歴代屈指のエポックメイキングな作品として今日に至っても評価されている。
だがそれは戦隊内恋愛を描いたからとかトレンディードラマを戦隊という枠でやったからとか、そんな表層的なことではなくもっと奥深い部分でのパラダイムシフトを起こしたからだ。
「ジェットマン」という作品はスカイフォースという軍隊の設定でありながら、そこに属する者たちが誰一人として旧来のヒーローが持っていた正義を持ち得ていないことである。
一般人から偶然に選ばれた凱たち一般人もさることながら、唯一の正規戦士である天堂竜と彼らをまとめ上げる小田切長官ですらも絶対的な正しさというものを持たない。

竜が軍人であろうとするのは恋人の葵リエを失った悲しみがあったからだし、小田切長官も研修上がりの新人であり部下をまともに指導したことがないブライト艦長のような人である。
つまり「ジェットマン」は「チェンジマン」までの軍人戦隊の設定を借りつつ、それらのヒーローが持っていた無自覚の「ヒーロー性」という建前を取っ払うことに成功した。
彼らがなぜ人間関係であれだけの修羅場を繰り広げ、恋愛ごっこなんてものに浮かれていられるかというと、彼らにはそもそも冷戦時のメンタリティーがないからだ。
でもそれが悪いわけではなく、むしろポスト冷戦の平和ボケした当時の日本において若者がそのような燃え滾る正義感を持ち得ている方がおかしい。

もう7年半ほど前になるが、ブラックコンドル/結城凱役を演じた若松俊秀氏も「変にヒーローしていないから、若松俊秀という人間的なものを役に入れやすかった」と述懐している。
それは若松氏に限らず他の役者たちもそうだったに違いなく、ヒーローとは真逆のところにいる人たちが1年をかけて「真のヒーロー」になるまでの過程を描いたのが本作の神髄である。
そしてまた本作は高寺Pが『激走戦隊カーレンジャー』〜『星獣戦隊ギンガマン』で打ち出す「等身大の正義」、即ち「ヒーローの強さとは「力」ではなく「心」にある」というのを打ち出していた。
わかりやすい例が40・41話のネオジェットマン編であり、あそこで「ジェットマンが素人でダメだからそれより強いプロの軍人に戦わせればいいのではないか」という実例を描いている。

その結果どうなったかというと、ネオジェットマンは確かにジェットマンよりも強い力を持っているが、それは所詮訓練で得た力でしかなく、実戦の中で磨き上げたものではない。
そして力に溺れてそれを抑制する精神性を持たなかったネオジェットマンは自分たちのバードニックエネルギーをジェットマン5人に託すのだが、中々示唆に富んだ展開である。
確かに急造で出来上がったジェットマン5人は当初に構想されていたものとは全く違うものだが、それは必ずしも戦士として、そしてチームとして劣っているとは限らない。
竜たちには竜たちなりに築き上げてきた友情や正義というものがあって、それが旧来ヒーローたちが提唱してきたものと劣っているとはいえないというのを示している。

だが、「ジェットマン」はその点に関してはあくまでも「示唆」「懐疑」という範囲に留めており、まずは徹底して80年代までの曽田戦隊の神話的構造を解体した。
その上で「自己犠牲」ではなく「未来を生きるため」に戦うのだと最終回で打ち出し、長年行き詰まっていたスーパー戦隊シリーズの壁を1つクリアした瞬間である。

権威主義とポスト冷戦の鬩ぎ合い(『恐竜戦隊ジュウレンジャー』〜『忍者戦隊カクレンジャー』)


「ジェットマン」の変革を受け、「軍人戦隊」に取って代わるものとして台頭してきたのが「ファンタジー」であり、それが「ジュウレンジャー」〜「カクレンジャー」までの3年間である。
杉村升がメインライターを担当した3作であるが、この時代の戦隊の特徴としては宗教的な権威主義とポスト冷戦の価値観が鬩ぎ合っていることがわかるだろう。
大きな特徴としては、この戦隊には「神」あるいは「神に相当するカリスマ」が出てくるという点で一見80年代までのヒーローものの図式に回帰したように思われる。
だが、肝心の戦士たちは必ずしもその神の命に心から納得して動いているわけではなく、どこか平和ボケしている「今時の若者」の性格も反映されているのだ。

古代の戦士がそのまま現代に復活した『恐竜戦隊ジュウレンジャー』のゲキたちだって指導者である大獣神のいうことに必ずしも納得していたわけではない。
そしてそれは『五星戦隊ダイレンジャー』『忍者戦隊カクレンジャー』でより視聴者にわかりやすい形で提示されている。
例えば「ダイレンジャー」の5人は初期は本当にやる気がなく問題行動を起こしていたし、「カクレンジャー」だって忍者の末裔であるものの、普段はクレープ屋を営んでいる今時の若者だ。
そんな彼らが常々上の言うことに納得していたわけではない、しかしだからと言って自分たちの判断で戦局を判断しながら動くだけの自主性や精神性を持ち合わせているわけでもない。

要するに高度経済成長期のような権威主義的正義とポスト冷戦の現代の若者の持つ等身大の正義のどちらが正しいのか、作品の中で鬩ぎ合いを繰り返しているのである。
しかし、杉村升先生をはじめ作り手にその答えを出すことはできず、それが作品の持つ結末として示されているのではないだろうか。
「ジュウレンジャー」「カクレンジャー」は敵を封印して終わり、「ダイレンジャー」は永遠に戦いが続くという無限ループで終わっている。
これが何を示しているかというと、戦士たちも指導者である神たちも自分たちの戦いが本当に正しいのかどうかを決める判断力がないということだ。

最終的には神たる存在に戦士たちが屈してしまうわけだが、その神たる者たちが常々最適解をもたらしてくれるわけでも、戦士たちに味方してくれるわけでもない。
特に「ダイレンジャー」の導師は自身の選択を誤ってしまったばかりに墓穴を掘ってしまい、物語の最終回を迎える前に戦死というあり得ない結末になっている。
そして「カクレンジャー」ではついに「封印の扉」自体の定義が物語当初と最終回で変わってしまうことになり、結局「人間の心に悪がある限り妖怪は倒せない」という結末になった。
つまり「ヒーローとは何か?」「正義とは何か?」を描こうとすればするほど深みにはまり、最終的に自家撞着に陥ってしまうのがこの時期のスーパー戦隊である。

モチーフとしては新しいものを導入しながらも、肝心要の思想・信条といったところでパラダイムシフトを起こせなかったその悲劇が次の作品で露呈してしまう。

通用しなくなった冷戦時代の正義(『超力戦隊オーレンジャー』)


『超力戦隊オーレンジャー』は「ゴレンジャー」20周年という文脈を意図的に持ち込んでいるが、それが逆説的に当時のスーパー戦隊が孕んでいた問題を露呈させた。
それは何かというと、もはや冷戦時代の世界観や正義の構図が通用しないものとなっていたということであり、もう「チェンジマン」までの構図には逆戻りできないということである。
というか、既に『鳥人戦隊ジェットマン』が旧来の戦隊ヒーロー像を解体してしまった以上、本作の第1話を見た時点で失敗作であることは明々白々だった。
私が本作を「時代遅れのオンボロ遊園地」と評価で書いているのもそれが理由であり、私たちが本作で見ていたのは「ヒーロー」ではなく「石碑」である。

オーレッド/星野吾郎をはじめ本作に出てくる軍人たちは選ばれしエリートたちだが、冷戦のような世界の危機があるわけでもない平成の日本でこの設定には無理があった。
戦時教育を受けいているわけでもない彼らがなぜ「チェンジマン」までのヒーローたちが持っていた正義感を持つに至ったか、そのバックボーンが全く描かれていない。
かのレッドホーク/天堂竜を通して軍隊所属の人間でも絶対的な正しさなんて誰も持っていないというのを示した後で単なる手抜きとしか受け取られないだろう。
しかも後半では古代から蘇ったキングレンジャー/リキが出てくるのだが、この古代戦士だってあくまでもドリンへの忠誠心で戦っているに過ぎないのである。

そのような冷戦時代の価値観を引きずって戦い続けた彼らがどうなっていたかは終盤で明らかだが、超力を喪失した彼らは世界の覇権をバラノイアに明け渡してしまう。
そしてそこからの打開策も自分たちで考えて編み出したものではなく、ドリンの忠告に従っただけであり、最後まで上の者の指示に従うだけの戦闘マシンであった。
何度もいうが、「熱い血流れぬ鋼のマシン」とは敵組織であるバラノイアではなくヒーローであるはずのオーレンジャーのことだったのではないかと思えてならない。
実際ラストの結末も残された敵組織の赤ん坊を自分たちで預かるのではなく、ガンマジンというわけのわからない第三勢力の奴に明け渡してしまっているのだから。

本作は歴代の中でファンの人もファンでない人も「失敗作」という烙印を押しているが、その理由は奥深い思想・信条の部分に問題があったからである。
旧来ヒーローの価値観が通用しないのは「ジェットマン」で証明されたわけであり、問題はここからどうやってヒーローの「正義」や「善悪」を組み立て直すかにあった。
ファンタジックな設定やビジュアルは受け入れつつも、改めてどうやって平成なりの「正義」を戦隊ヒーローの枠で組み立て直すかと向き合わなければならない。
それこそが正に本作が克服しきれなかった課題であり、同時に本作にサブプロデューサーとして参加していた高寺Pも思っていた部分である。

「オーレンジャー」で見えにくくなったヒーローの本質に関して高寺Pは「等身大の正義」をテーマに掲げて向き合うこととなった。

平和ボケした若者たちが「正義」を手にする物語(『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』)


ここまで見ていって、ようやく高寺Pが『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』の2作で取り組んだ「等身大の正義」の真意が見えることになる。
私がこの2作を「最弱」と書き、またファンからもそう言われがちなのは決して批判や悪口としてディスっているわけではない。
むしろ「弱さ」に焦点を当て、「ヒーロー性」という仮面を極限まで取っ払うことによって「ジェットマン」が示した物語の先を開拓することが可能になったのだ。
この2作が何を描いた本質とは「ヒーローの強さは「力」ではなく「心」にある」ということであり、「カーレン」がギャグとして、「メガレン」がシリアスとして提示している。

例えば「カーレンジャー」の1話では恭介たち5人が挙って給料を自己申告しカーレンジャーになるのを拒もうとし、恭介に至ってはそのせいでメンバーたちを危険な目に遭わせた。
ギャグだからある程度緩和されているものの、ヒーローとして明らかに失格とさえ思えるような態度が特に初期は目立ったが、これは彼らが「一般人」だからに過ぎない。
自動車の零細企業で働くしがない若者たちがいきなり偶然にヒーローとしての使命を押し付けられたら誰だって断るだろうという崩しを最初に入れた。
そして戦い始めると意外や意外に真面目っぽいのだが、これも所詮はカーレンジャーというヒーローを演じているだけで、変身しなければ普段は緩いノリの若者たちだ。

同じようなことは「メガレン」にもいえて、彼らは確かに人並みかそれ以上の精神性とパソコンスキルを持ち合わせているのだが、それでも戦士としては全くの荒削りだ。
特に2話の冒頭で橘助手が5人の高校生をメガレンジャーに選んだことを危惧していたし、健太たち5人も自分たちにやれるのか実は不安で自信がないといった様子だった。
それでも久保田博士は決してその5人が当初想定していた正規戦士としてのメガレンジャーに劣るとは思っておらず「若さの可能性に賭ける」と断言している。
そう、何の正しさも持たない普通の若者たちの中にこそこれからの未来を切り開く可能性があり、久保田博士も高校生たちから教えてもらうことが多かった。

この2作に共通していることは司令官のダップや久保田博士が決して偉い存在として高みにいるわけではなく、より近しい双方的な関係性になっていることである。
そして終盤に至り戦いが激化していく中で彼らは自分たちなりの形での「ヒーロー性」を獲得していく物語として描かれているのだ。
しかもその結果としてカーレンジャーもメガレンジャーも終盤で自分たちが大切にしていたプライベートを根こそぎ失うという経験もしている。
これは「オーレンジャー」以前の作品では見受けられなかった描写であり、戦士としての覚悟や圧倒的な強さを持たない一般人という設定だからできることだ。

つまり本当の意味での「平成戦隊」はこの「カーレンジャー」「メガレンジャー」の2作を通して初めてできたといっても過言ではないだろう。

厳密な意味での「等身大の正義」とは


まとめに入るが、岸祐二氏がこちらのインタビューで語っておられるように、「等身大の正義」とは「誰にでもある正義感」のことだと述べている。
自分が勇気1つあれば、誰だって本当はヒーローになれるのではないかと述べており、これが「カー」「メガ」で描いていたヒーロー像の本質だ。
彼らはスーツをその身に纏わなければ単なる一般人でしかなく、社会や学校といった日常の中に埋没している存在だろう。
しかし、市民の中に溶け込んでいる彼らだからこそ、弱い彼らだからこそ理不尽に悪者に虐げられているひ人たちの気持ちがわかるのである。

そこをスタート地点として、彼らは最終的に「宇宙の平和」「人類の価値」といった哲学的な難題とも向き合って行くことになった。
だから厳密にいうと彼らは「一般人」ではなく、やはりどこかで「ヒーローの資質を秘めた一般人」であるといえるかも知れない。
本当にただの一般人でしかないのであれば、どこかでそのプレッシャーに押しつぶされるかもらった力を悪事に使ってもおかしくないから。
それをきちんと地球や人々を守るための力として使えるという点で、カーレンジャーもメガレンジャーも素人ではあっても立派なヒーローである。

この2作を通して出てきたヒーロー像の本質を今度は『星獣戦隊ギンガマン』という「強いヒーロー」において描くことになるのだが、それはまた別の話。
ここまで通史として振り返ることで、ようやくスーパー戦隊シリーズの正義と悪の思想・信条の変遷が見えてくるので、次回はこれを踏まえて「ギンガマン」後半について述べていこう。

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