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日本代表合宿強制退去〜W杯予選アメリカ代表の時の越前リョーマの心理を考察!越前リョーマにとっての徳川カズヤと平等院鳳凰とは?

今回は日本代表合宿強制退去〜W杯予選アメリカ代表の時における越前リョーマについての話だが、この辺りの越前の行動・言動は割と一貫性がなく読者に心情が伝わりにくい
そもそもアニメ・ミュージカルのような他媒体は別として許斐剛先生が描かれる原作ではあまりキャラの心情を細かく掘り下げず読者の想像力に委ねる作品だ。
だからこそ各キャラクターの個性や行動原理に一貫性を持たせる必要があるわけだが、その中でもリョーマの一時期の行動原理は理解し難いものであった。
なぜアメリカ代表としてのびのびテニスをしていた越前をまた日本代表に戻すという異例の展開を取ったのかは原作者のみぞ知るところである。

ファンブック23.5巻のインタビューで許斐先生は「リョーマを敵として出そうとしたが、これがとても難しかった」ということを明らかにしていた。
他ならぬ原作者がこの辺りのストーリー展開に行き詰っていたというのだからそうなのであろうが、ある意味その煽りを一番食らったのが主人公・越前リョーマであろう。
メタ的には確かに「主人公と違った動かし方にうまく転換できなかった」と理解できるが、今回はそこを敢えて「越前リョーマの心理」として考察してみたい。
果たして、越前リョーマがどのような内面の変化を経て再び日本代表に戻るという決意をしたのであろうか?

竜崎桜乃との再会という横槍


まず最初の段階として描かれていたのは竜崎桜乃という「過去の人」との再会という名の横槍が入ったことではないだろうか。
合宿を強制退去になる前にリョーガと再会して「光る打球」について教えてもらったことで越前は日本代表として学べきことを一旦終えている
もちろん徳川カズヤとの再戦や平等院鳳凰という果たすべき目標はあったが、それは何も日本代表でなくとも果たすことができるものだ。
ルールによる強制退去をリョーマは決して知らなかったわけではないし、それを承知の上で徳川を助けるという選択をしたのだから後悔はない。

しかし、自身の目標が失われたリョーマの中に入り込んできたのが竜崎桜乃との再会であり、これが地味に大きな影響を与えたのではないだろうか?
竜崎桜乃という、ある意味「過去の人」と再会したことで越前は「自分がテニスをする意義」と改めて向き合うことになったのかもしれない。
まあ光る打球で施設の公共物を破壊してしまったのは流石に擁護できないが、その後大吉が出るまでおみくじを引き続ける桜乃を見て越前は嬉しそうな顔を見せる。
それまで基本的に塩対応というか、どこか冷たく桜乃をあしらっていた越前が初めて桜乃の芯の強さを認め、また自身にとっての「桜乃」がどんな存在かを理解したのであろう。

竜崎桜乃は決して越前リョーマにとっての「お姫様」でも「恋人」でも「ファンガール」でも「守るべきヒロイン」でもなく「理解者」だったのである。
そう、竜崎桜乃はあくまで「越前リョーマのテニス」、もっと言えば「テニスを楽しんでいる越前リョーマ」が好きなのであって「越前リョーマ個人」が好きな訳ではない。
この事実は決して唐突に新テニで浮き彫りになったものではなく、旧作でも一貫しており、原作終盤では桜乃が天衣無縫のリョーマを「楽しそう」と感慨深く眺めていた。
しかしそんな桜乃の思いを越前が知ることはなかったのだが、それを越前が初めて認識したのが竜崎桜乃と一緒にデートしたこの時だったのかもしれない。

実際この変化は確実に越前リョーマのテニスにも変化をもたらしており、これがプランス・ルドヴィック・シャルダール戦や映画「リョーマ!」の伏線となっている。
許斐先生がここで改めて越前リョーマと竜崎桜乃の関係性を再定義したことによって、テニス一色だった越前の心の隙間に横槍が入ったのではないだろうか。
そしてその横槍は同時に越前リョーマの人生の分岐点でもあり、間違いなくこの時越前は次なるステージの選択をすべき転換期へと差し掛かっていた。
日本代表で一通り学ぶべきことを終えた越前の中に入ったこの横槍で自分自身の存在意義を見直すべき時が来たことが暗示されていたと考えられる。

アメリカ代表自体がリョーマの自由意志で選んだ場所ではなかった


そんな越前にとっての第二の横槍が竜崎桜乃と同じ「過去の人」である越前リョーガによってアメリカ代表へなし崩しに導かれたことだ。
どちらにしろ日本でもう学ぶべきことを終えたリョーマは実家に帰っても南次郎から教わることはなくなり、そこにリョーガが現れ次のステージへリョーマを導く。
その次のステージがリョーマにとっての心の故郷であるアメリカだったわけだが、この時期のリョーマはまるで解放されたかのように伸び伸びと楽しくテニスをしていた。
アメリカ代表参加への枠を手にするために次々と天衣無縫で倒していくリョーマは日本にいる時とは打って変わって本当に楽しそうである。

ここでリョーマは次の指導者としてラルフ・ラインハートという人格者と出会い、次第にアメリカ代表の若きエースとして認知されるようになっていく。
リョーガも一緒であったとはいえ、この時のリョーマは本当に楽しそうにテニスをしていて、日本代表の時に見せていた陰りのようなものが一切ない
元々日本代表合宿に入るまではアメリカで活動していたのだし、将来的に見ても越前リョーマがテニスの活動拠点とするのは間違いなくアメリカであろう。
自由闊達にテニスを楽しむ彼にとって日本という場所は余りにも狭すぎたし、青学に入ったのも自分の父親・南次郎の強さのルーツを知るためであった。

しかしここで大事なポイントがあって、それはこのアメリカ代表が越前リョーマの自由意志で選んだ場所ではなかった、ということである。
最初に述べたように、今回のアメリカ代表に越前が入れたのはあくまでも越前リョーガの正体と口利きがあってのことであり、リョーマ自身が選んだわけではない
これは許斐先生としてはトランスアーツが作ったオリジナルアニメ終盤の全米OPに参加する越前の逆輸入というかセルフオマージュだったのかもしれない。
いずれにしても、半分出来レースのような形で入ったアメリカ代表はこの時点ではリョーマにとって納得して参加できる居場所ではなかったのだろう。

ここが後述する手塚国光との違いでもあるのだが、手塚国光は自分自身の意思でドイツ代表という居場所を選択したから後悔も迷いもない。
その点越前リョーマはそうではなく、次の目標やテニスをする意義をこの時は見失っていて、誰と戦うべきなのかも明確ではなかったのであろう。
だが手塚と越前にはもうかつての先輩後輩という関係ではなくなり、各々が違うステージへと行き始めた以上手塚に頼るわけにもいかない。
そこでリョーマは改めて予選の日本代表を外から応援していたわけだが、次の心理の変化はここで明らかとなる。

徳川カズヤと平等院鳳凰が「倒すべき悪人」に思えなくなった


W杯予選で越前リョーマは日本代表の観戦・応援に行ったわけだが、この時彼は初めて「外側」から日本代表を俯瞰する側になったのではないだろうか。
特にドイツ代表とエキシビションで戦った時のD1がそうだったが、リョーマは敵でありながらボルクに苦戦を強いられる徳川と幸村に「諦めんな」と喝を入れていた
敵に塩を送るような行為であるのは間違いないが、この時リョーマの中で徳川が無様に諦めてしまうのは見るに耐えなかったのだと思う、何せ自分を倒した3人目の相手なのだから。
父親の南次郎と部長だった手塚の次に実力で自分を破った徳川カズヤをリョーマが時に助けたり鼓舞したりする中でもはや一種の仲間意識が芽生えていたのだろう。

そしてスイス戦では亜久津仁が光る打球と無没識を開花させて平等院鳳凰との縁を結んでいき、日本代表を外側から見ていくうちに越前リョーマの心理にも変化が訪れる。
それは「今自分が倒すべき相手は徳川カズヤと平等院鳳凰なのか?」という疑問、すなわちリョーマの中で徳川と平等院が倒すべき悪人に見えなくなってきたということだろう。
この認識の変化がまた大きく中一でこんなところまで辿り着くだけでも凄いのだが、客観的に日本代表を見ることで日本代表にいた時には見えなかったものが見えてきたのだ。
日本代表にいる時には単なる憎むべき敵にして悪人でしかなかった彼らこそが実はリョーマにとっての次の指導者であるという風に心から思えたのかもしれない。

これは師弟関係を経験しないとわからないことであり、自分に優しくしてくれる人よりも自分に厳しくしてくれる人の方が案外為になる師匠になり得るものだ。
越前リョーマにとって確かにラインハートは尊敬すべき人物であり恩師であろうが、それでも今の彼に本当に必要な指導者だったかというとそこには大きな疑問符がつく。
確かに将来的にリョーマは徳川も平等院も倒したいライバルには認定されたが、「悪人」というほどに憎むべき宿敵という相手ではなかったように思われる。
少なくとも徳川も平等院も同じように「阿修羅の神道」という苦しき修羅の道を歩んできた「仲間」であり、むしろリョーマが倒すべき相手は別にいたのだ。

一見無駄に思える遠回りだがこれは決してそうではない、越前リョーマがもう一度自分のテニスをさらなる高みへ昇華させる為に一度日本から離れる必要があったのである。
越前リョーマはアメリカ代表として一度世界を相手に戦ったことで「世界代表の中の自分」を見つけたわけであり、その居場所こそがアメリカではなく日本だったのであろう、少なくともこの時は。
紆余曲折を経たことは決して無駄な経験ではなかったし、元々リョーマはテニスができれば所属にこだわりがある方ではないから結果的に日本が一周回って第二の故郷となったのではないだろうか。
ここで迷いが晴れて決勝トーナメントで吹っ切れた越前リョーマが真に倒すべき悪人は皮肉にも自分の身近に居たのである。

最大の敵は己の内側にいるもう1人の自分・越前リョーガ


越前リョーマが倒すべき真の悪人は己の内側にいるもう1人の自分ともいうべき肉親の越前リョーガだったということが決勝トーナメントを控えた現時点で明らかにされたことである。
この構想は許斐先生の中で決して最初からあったものではなかったであろうし、先生はリョーガのことも最初は平等院にまで危険視されるほどの極悪人として描くつもりはなかったであろう。
リョーガが帰国して最初にリョーマに光る打球を教えて居た時は飄々としているものの、あくまでも「優しいお兄さん」であったしリョーガの本質は間違いなく善人だ。
しかし、彼の場合は「能力剥奪」という自身にもコントロールしようがない忌むべき先天性の高い能力があり、そのせいで表日向で活躍しにくくなっている。

だからこそ越前リョーマにとって越前リョーガを倒すのはある意味「自分の影」と向き合うことと同じであり、以前にも考察したように中国の「陰陽思想」のようなものではないだろうか。
属性の問題でリョーマとリョーガは対消滅の関係性にあり、天衣無縫や光る打球を極めた越前リョーマがテニスの「陽」だとすれば、兄のリョーガはテニスの「陰」である。
真田が使っているような技としての「陰」ではなく、もっと漠然とした抽象概念としてのテニスの「陰」が越前リョーガであり、リョーマはそれと戦うことになった。
これはなんとも皮肉なものであるが、元々「テニスの王子様」は「悪人がさらなる悪人を倒す物語」であり、越前リョーマに与えられた役割は「悪人の救済」にある。

これまで越前リョーマはテニスを通してあらゆる悪人を救済してきたわけだが(特に立海はその影響が大きい)、その果てに辿り着いたのが自分の肉親というのは興味深い。
もちろん「二人のサムライ」を今度は許斐先生が独自に作り直そうという目論見があるのはわかるが、奇しくも紆余曲折の物語が変な形で整合性を取れてしまったわけである。
つまり単なる偶然かに思われた越前リョーマの物語が新テニの最後でまさか「自分の兄を倒すため」というところへ帰結しようとしていることを誰が想像したであろうか?
だが、逆に言えばリョーガを超えなければ手塚も徳川も平等院も、そしてボルクも超えることができないというのは落とし所として納得度の高いものとなった。

ただ、こうなってくるとリョーガに散々能力を奪われてきた人たちが居た堪れなくなってくるのだが、許斐先生が改めてテニプリにおける「悪人」がどんなものかを示したと言える。
徳川・平等院・ボルク・アマデウスのような一見悪人ぶっている人が実はそこまで悪人ではなく、セダ・メダノレ・リョーガのような一見して善人に思える人こそが実は悪人度が高い
そしてその悪人とは「もう1人の自分」という鏡面であるというのが許斐先生が改めて決勝戦に向けて提示している新テニ最大のテーマではないだろうか。

まとめ


こうしてまとめて見ると、越前リョーマは結局のところ「自分が倒すべき悪人」を見定めるためにアメリカ代表を経て日本に戻ってきたことが窺える。
プロ入りという前向きな目標を持っている手塚国光とは違い、越前リョーマには「プロになる」ということに対するこだわりはないが故にその時々の目標と壁が必要だ。
それを一度日本代表を強制退去になったことで見失い、再び自分のテニスを天衣無縫から先へ進めるために一度外側から日本代表を俯瞰する必要があったのかもしれない。
越前リョーマにとっての「真剣勝負」と「楽しむテニス」は常に倒すべき悪人がいてこそ成り立つものであるということが明らかになった展開だと私は思う。


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