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『その男、凶暴につき』(1989)感想〜刑事ドラマの理屈・建前を全て取っ払った純粋かつドライな暴力が画面を支配する傑作〜

さて、そろそろ北野武監督の最新作『首』が公開になるので満を持してというわけでもないのだが、久々に北野武監督のデビュー作『その男、凶暴につき』(1989)の感想・批評をば。

評価:S(傑作)100点満点中95点


刑事ドラマ・映画に対する徹底した脱構築

本作は言うなれば「刑事ドラマ・映画に対する徹底した脱構築」であり、以後の北野武監督作品でより突き詰められていくあらゆるエッセンスが本作に詰まっている。
それこそ昨日・一昨日と「ヒーローと公権力」に関する記事を書いたので本記事を読む前に併せて読んでおくといいだろう。

なぜかというと、本作はいわゆる「ヒーローと公権力」というテーマに対して北野監督独自のアプローチで切り崩し、公権力ではどうにもならない世界の残酷さを露呈させた作品だからである。
しかもそれがいわゆる子供向けの「ヒーロー作品」という大枠がついたものではなく、社会の中に埋没している刑事の日常の一環として淡々と、しかし凄まじい情念をフィルムに込めてみせた。

よく「処女作には作家の全てが詰まっている」というが、北野武監督の作家性はそれが時代劇にしろ任侠映画にしろ恋愛映画にしろ青春映画にしろ、「既存の枠組みの脱構築」が特徴となっている。
よく語られる乾いた暴力のサッと出てきてサッと引く瞬時性と贅沢さの感覚や誰が善で誰が悪かもわからない空回り気味の権謀術数などのあらゆる要素が結局はここに集約されうる。
本作にいわゆる形而上学的なテーマ・思想性のような実存批評めいたものを持ち込むのだとするならば、正に刑事ドラマ・映画のフォーマットをどう切り崩すかが本作最大の特徴だ。
大枠の部分で刑事=ヒーロー、犯罪者=ヴィランというありがちなフォーマットを卑近な観点から崩し、その上でどこまで本筋から逸脱することで映画の表現の幅を拡張できるかに挑んでいる。

その意味で本作は東映特撮をはじめとする多くの刑事ヒーロー作品に対するカウンターであると同時に、以後の作品でもここまでの表現はできていないという唯一無二の独自性を獲得したのではないか。
それこそ「超越的な力を持ったヒーローは公権力の元に管理されるべきだ」などと宣う方々にとっては特に格好の材料として見るべきであると私なんかは思えてならない。
公権力がどうにもならない瞬間を画面の運動としてことごとく裏切っていきながら、しかしそれでも何も現実は変わらないという無念さをも突きつける皮肉めいた作風はヒーロー作品アンチには御誂え向きだろう。
そういうわけで今回は「世界の北野」と評される彼が深作欣二監督に代わりどうやって「北野映画」のカラーに染めていったのかを代表的なシーンを列挙しつつ語る。

私人逮捕系YouTuberの比ではない狂犬刑事・我妻諒介

本作はまず冒頭のシーンからして度肝を抜かれる、なぜならばいきなり浮浪者を集団リンチした男子中学生を狂犬型の切れ者刑事・我妻諒介がフルボッコにやっつけるシークエンスから始まるからだ。
いきなり家に入ってきて無許可で家に入り、二階の部屋でビンタの連発と強烈な頭突きという、幾ら「悪に対する正義の鉄槌」であるにしてもやり過ぎである。
しかもこれでさえまだほんの序の口であり、我妻は私人逮捕系YouTuberの比ではないくらい自身が警察であることすら忘れるほどの凄まじい狂気を剥き出しにしていく。
相手が誰であろうが御構い無しであり、同じ刑事の同僚であろうが妹と肉体関係に及んだセフレであろうが悪徳実業家であろうが、そして殺し屋であろうが一切の建前も忖度もない

もはやその様は「鬼に金棒」というよりは「気違いに刃物」という他はなく、従来の刑事ドラマの主人公にここまで荒々しい奴は以前にも以後にもいなかったのではなかろうか。
そういう勤務態度により警察署内でも彼は嫌われており上層部は頭を抱えており、数少ない理解者が平泉成演じる岩城と下っ端感出まくりの青臭い新米刑事の菊地くらいである。
しかし、その数少ない理解者である2人も決して我妻との間に強い絆のようなものはなく、あくまでもドライな仕事仲間でしかなく、いわゆる「相棒」のような信頼関係はない。
通常の刑事ドラマでいう「バディもの」の構図すらも崩し、あらゆるタイミングにおいて様々な形の暴力を振るう我妻の姿にはある種の怖さと同時に妙な快楽を見ている側は覚えるだろう。

そんな我妻には精神薄弱でうまく意思疎通がしづらい妹・灯がいるわけだが、彼女の存在がある意味で我妻にとっての「優しさ」であり「人間性」を辛うじて感じさせる存在である。
基本的にどんな場面においても終始徹底した野蛮な性格を崩さない我妻は妹の前でだけ不器用な優しさを見せるのでる、一緒にお祭りに行ったり海にドライブに行ったりしていた。
彼が刑事として四面楚歌状態にならずに済んでおりギリギリのところで踏み止まっていたのも大切な妹がいたからであるが、それですらも彼は物語の最後で失ってしまうことになる。
麻薬事件の犯人を追いかけていく中で我妻はどんどん狂気のみが目立ちながら人間性を喪失していき、そして最後の撃ち合いでは「人間としての情」すらも残らない、ただの生物兵器と化す。

当時の北野武はとにかく凄まじい狂気をその身に纏っており他者を寄せ付けない怖さを見せつけているのだが、一面的に見れば彼も「ヒーロー」「正義の味方」といえなくもないのである。
なぜならば集団リンチを働いた中学生やバットを持って逃げ回る塩田をはじめとする悪党という悪党を全員私刑に処し、しかも公権力である警察の組織内に所属しているのだから。
これが先日言っていた「公権力の元に管理されている超越的な力を持ったヒーロー」という風に見做すこともできるが、では視聴後の印象としてそんな好感を誰が持つであろうか?
いくらヒーロー作品アンチの方々であっても我妻の無軌道な手に負えない狂気を見せつけられては「公権力がヒーローを管轄に置くべきだ」などとは安易にいえないはずである。

公権力ですらも手に負えない凄まじい圧倒的な狂気と力を宿した公人兼私人、それこそが我妻という刑事の姿なのだから。

我妻と本質的に似た狂気を持った殺し屋・清弘

そんな狂犬刑事・我妻の対になるヴィランとして出てくるのが白竜演じる殺し屋の清弘であり、彼もまた我妻に匹敵する凄まじい冷徹な狂気を物語の中で遺憾無く発揮している。
それが最初に印象付けられたのが麻薬売人・柄本を殺したシーンなのだが、我妻と同じように清弘も暴力を振るうのに良心の呵責が一切なく、その暴力は徹底してドライかつ突発的だ
強いていうなら我妻との最大の違いは「人間としての情」の有無であり、我妻は刑事の建前や忖度なしに暴力を振るうが、かと言って無闇矢鱈と無辜の者を傷つけたりしない。
しかし、清弘は徹底してその真逆を行くように私利私欲で無辜の者がどうなろうが知ったことではなく、手下の者たちであろうが自分の意に反する存在は容赦無く消して行く。

そんな清弘は我妻と表面的にこそ対照的な存在のように描かれているが、本質的な部分でこの2人の狂気は通底しており、だからこそ強く惹かれ合う因縁の間柄なのだ。
同性愛者であることは脇に置いておくとしても、2人が本質的に同一の存在であることが如実に現れたのは我妻への報復で拳銃を出したのを足で払った時に側にいた女性が流れ弾を喰らうシーンである。
普通の刑事ドラマなら真っ先に流れ弾に当たった女性の元に駆け寄り「犯罪者から無実の者を守れなかった!」と良心の呵責に駆られたりあるいは「逃げろ!」と非難を呼びかけるであろう。
しかし、あろうことか我妻は我が身可愛さに死んだ女を放置して逃げ出し自らが生き延びることを選択してしまった、これは本来ならば刑事として絶対にやってはいけないことである。

このシーンは日常の中で無関係に殺されてしまう突発的な暴力の恐怖を知らしめていると同時に、2人の狂気を抱えし存在が実は同じ穴のムジナであることが示されているだろう。
後半に入るともはや我妻は刑事としての行動からどんどん離れていくのだが、一方で清弘も殺し屋としての理性やスマートさが剥がれて我妻を宿敵と見做し情念のみで動くようになる。
そして2人とも共通しているのは組織の上司の手に負えない存在として描かれているということであり、清弘も実業家の仁藤には頭が上がらず逆らえないのだ。
警察署内の上層部に何だかんだ逆らえない我妻と実業家の仁藤のカリスマ性を恐れている仁藤はどちらも本質的に似た者同士なのである。

ここにヒーローとヴィランの関係を当てはめるのならば「ヒーローとヴィランは本質的に同じ存在」といえるが、よくありがちなヒーロー作品の主人公と対等のライバル関係を皮肉っているともいえるだろう。
それぞれに「正義・善」と「不正義・悪」という大枠の理屈によって糊塗されているだけであって、それを取っ払ってしまえばヒーローもヴィランも、善も悪も本質的には変わらないのである。
東映特撮をはじめとするほとんどのヒーローものは結局その建前の部分で理屈をこねくり回して必死に正しくあらんと踏み止まっているだけで、それを取っ払ってしまえば単なる生物兵器だ。
個人が持つにはあまりにも強大すぎる圧倒的な狂気と力を持ち合わせた我妻と清弘は物語の終盤で孤立していき、それが終盤のあの壮絶な最終決戦へと繋がっていく。

「刑事」でも「殺し屋」でもなくなった2人の最終決戦

そんな本質的に同一の我妻と清弘は決して分かり合えないながらも孤立していき、最終的には撃ち合いの果てに無残な死を遂げてしまうという、それに相応しい末路を辿った。
最終的には刑事すら辞めたことで武器屋にコルトガバメントを依頼して購入した我妻、そしてその我妻の妹・灯を仲間内で輪姦した挙句にその手下たちすら手にかけた清弘。
あの倉庫での一騎打ちのシーンはカメラワーク・ライティング・構図・演出・被写体の距離感の全てにおいて間違いなく映画史に残る伝説のシーンとなった。
「北野ブルー」と呼ばれる演出の元祖がここで開花するわけだが、ただ歩いてきて撃ち合うだけのシーンなのにもかかわらず、凄まじい濃密な情念と緊張感がフィルムに宿っている。

満身創痍となりながらも最期まで悪を貫き通し我妻を撃たんと銃を乱射し続けた清弘、そしてその清弘の弾を一切恐れず明確な殺意を持って至近距離まで徐に迫って確実に射殺する我妻のカットは珠玉の逸品だ。
何が素晴らしいといって、この2人にはもはや狂気以外は何も残されていないということであり、因縁の対決でありながら「復讐」「正義」といったものが画面上には一切ない
それこそヒーローが建前を取っ払って私闘に走った作品というと『仮面ライダークウガ』の35話「愛憎」や『鳥人戦隊ジェットマン』の51話「それぞれの死闘」、『侍戦隊シンケンジャー』の四十六幕「激突大勝負」がそれに該当する。
しかし、それらの作品群にはやはり「復讐」「怨念」「欲望」といったどこかウェットな情念があるものだが、我妻と清弘の撃ち合いにはその「情念」すら全くないのが今見ても驚き足り得るのだ。

本懐を遂げて生き残った我妻は最後の最後で既に薬物中毒によって冒され兄の姿すら認識できなくなっている妹をもその手にかけてしまう、あの虚ろな表情が全てを物語っているだろう。
妹を射殺したというトラウマを植え付けないように敢えて引きで我妻を柱で隠して見せないようにするカットも素晴らしいのだが、もう我妻はこの瞬間に何もかもを失ってしまった。
だからこそ最後は今まで散々狂気を働いてきた因果応報と言わんばかりに新開によって射殺されてしまい、「全員キチガイだ」という絶妙なセリフとともに全てが締めくくられる。
これはもはや刑事ドラマなのか何なのか、見ている側すらも思わず忘れてしまう、もっと言えば本筋には関係ないはずの過剰な細部が本作全体を支配するのだが、逆に言えばだからこそ本作は面白いのだ。

北野武監督作品ではそれがどんな作品であろうが「絶対的な善人と悪人」が出ることはないし、逆に「善人と思っていた奴こそが実はとんでもない悪人だった」というどんでん返しが良くある。
それこそ「座頭市」(2003)の親分たちもそうだったし、本作でいえば仁藤と裏で繋がっていた岩城やラストでまさかの大出世をしてしまう菊地などもその典型だといえるだろう。
公権力と呼ばれる側の人間が必ずしも善人であるとは限らず、裏では何をしでかすかもわからないという事例はごまんとあるわけで、本作はその部分を包み隠さず露悪的に描く。
だから我妻も清弘も圧倒的な力を持ちながらもそれが決して絶対的な善とも悪とも断定はされておらず、ただその生々しい現実のみが淡々と粛々と一定のリズムで露呈する様が魅力的なのである。

絶対的な正義と悪の崩壊と終焉

本作は卑近な観点からある意味では絶対的な正義と悪が崩壊し終焉を迎える瞬間を担ったということもできる、その意味では1989年という時代の変わり目に生まれたことは必然だったのであろう。
我妻も清弘も最終的には大枠としての「善と悪」を超越した存在として描かれ、圧倒的な強さを持った2人の狂気のみが暴走していくという画面の運動のみが色んな形で描かれている。
だからこそ「ヒーローは公権力によって管理されるべきだ」などとは断定できないのである、身にあまる力を持った存在は法や権力では制御不可能な異質の存在だ
「無所属ヒーローは権力側にコントロールされるべきだ」というようなことを言う人は、それが肯定的な立場であろうが否定的な立場であろうがわかっていないと言わざるを得ない。

何の力も持たない大衆にとって圧倒的な力の持ち主であるという点においてはヒーローもヴィランも同じくらい怖い存在であり、そのヒーローが明日には悪人にならないという保証はないだろう。
現に最初はそれなりに刑事らしい正義感のようなものがあった我妻でさえ最終的に刑事を辞めて単なる戦う生物兵器に成り下がってしまい、非業の死を遂げてしまったのだ。
実際これに関しては脚本家の井上敏樹もインタビューなどで似たようなことを述べており、理不尽ではあるがヒーローは決して国家の管轄に下手におくべき存在ではないのである。
北野武は多くの刑事ドラマをはじめとした暴力によって事件を解決するヒーロー作品に対する冷めた目線を持っているからこそ、このような作品を作ることができたのではなかろうか。

結局は正義のために振るう暴力も悪のために振るわれる暴力も同じ「暴力」であって、話し合いが通用しない最終手段として出てくる選択肢が「戦争」「殺し合い」の世界なのである。
それを法によって管理・規制しろなどというのは戦場において「命は大切です!」と何の効力も持たない綺麗事を唱えるのも同然なのである、法ではどうにもならない非日常の世界なのだから。
本作はその点において、後の北野武監督作品で開花することになる作家性のエッセンスが詰まっているというだけではなく、「ヒーローと公権力」についてもある意味では考えさせる一作ではある。
是非とも公権力の手に負えない圧倒的な力を持った2人の凶暴な殺し合いの世界を目に焼き付け、あらゆる綺麗事が取っ払われてどうにもならなくなる瞬間を体感してみるがよい。

そんな時代の変わり目に生まれながら、今尚見るものの感性を揺さぶり過剰な暴力と画面の運動で翻弄するS(傑作)が私にとっての『その男、凶暴につき』に対する評価である。

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