結果を求めないで

太宰治「正義と微笑」より

勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記《あんき》している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。

私は、完璧主義ですべてを狙いがち。ひとつひとつの物事を必ず成功として昇華させないといけないと思っている。

昇華させることができない行動なんて、無駄で恥だって。

家では全てに結果が求められた。
私はよく本を読んだ⇒小説家になれ。新聞記者になれ
水泳教室に通っている⇒水泳の選手になれ。オリンピックに出るように
吹奏楽部に入りたい⇒音楽をしていて、将来どうやって食っていけるんだ。そんなことより、スポーツで良い成績を残せば高校入試で有利になる。
医療ドラマをよく見ていた⇒医者か看護師になれ。

お金が発生することには、必ず約束を取り付けられた。
「水泳で褒められた」とママに言うと、「じゃあ次のレッスンに行ったら、おっきな声でコーチを呼び止めて『私を上級クラスに入れてください』って言いなさい」と言われる。
だけど、普通クラスのお金しか払ってないのにコーチは上級クラスに入れてくれるはずない。さらに、上級クラスの子たちにはほぼ親が付きっきり。

そんな上級クラスに入れないよ、と私が言うと
やる前からあかんって言うんだったら、水泳なんて辞めてしまえ
親が必死に働いてお前に水泳をさせてるのに
お前にやる気がないからだろ
そんなことを言われた。後日、上級クラスに入りたいですと言うと、コーチにパンフレットを渡されただけだった。

結果が出ることが嫌いだ。取り掛かる前から嫌いになる。
何の得にもならないことに熱中してしまう。
今思えば、それは逃げる手段だった。

誰も見てないものが好き。だから、絵本や図書館や洋楽が大好きになった。
小学生の頃は、低学年の頃から文庫本を読み漁った。
中学生の頃は、日本の純文学を漁った。
高校生の頃は、学校の帰りに本屋さんで絵本をずっと読んでいた。

当時、私にとって本を読むことは独壇場で誰も結果を求めてこなかった。
なのに歳を重ねれば重ねるほど、大人は「読書」を強要してきた。
そして、この本を読めば、こういうものが手に入るんだ!
今の情勢について考えることができるから、この年頃はこんな本を読んだほうがいいんだ
そんなことを考えれば考えるほど、私にとって読書は苦痛になった

だから最終的に私は絵本を選んだ。誰も「賢くなる」ことや「学ぶ」ことを強要してこない。覚えなきゃいけないものでもない。

中学生の頃は、授業を全く聞かずに塾の教材をたくさん漁った。
やらなきゃ、じゃなくってほぼ好奇心だった。
ここにあるものをなんでも使っていいよと言われて、嬉しくて、たくさん印刷して暇なときには教材を見た。
わからないことがあれば、周りの先生を捕まえて説明させた。
それでもわからなかったり、先生の間で意見が分かれたときには、塾にあったパソコンで自分で調べて最終的な結果を知った。
学校で成績が悪い子扱いされていた子だったが、みるみるうちに「みんなに教えてもらう子」から「みんなに教えてあげられる子」に変わった。

高校生で進学校に入った途端、何の勉強も身に入らなくなった。
私は、親に「医者になること」を条件に高校に入った。
1つ1つの授業に肩の力を入れて取り組んだ。
でも、大好きだった社会や国語の授業さえできなくなっていった。
頑張ろうとすればするほど、授業の内容がわからなくなった。
高校時代に成績を一番伸ばしたのは、資料集を見て進学校の授業を受けずに独学で学んだ現代社会や政経だった。

結果を求められれば求められるほど、嫌になって、自分は「上手くなりたい」と思っているのに、想いと結果は背反していった。

私が結果を求めれば求めるほど、望んでいる場所から遠ざかってしまう

サポートして頂けると、これからも頑張れます。