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思った以上に色んなことが言えない | 2024/03/01

私から見ている私の像っていうのは、なんでもかんでもあっけらかん〜としていて、割とオープンな方だと思っていたんだけど。

最近の自分は案外そうでは無いのかも、って思い始めている。

なのに思った以上に私はいろんなことを飲み込んでいて、本当はこんなにもメンタルが弱くて、私だって繊細なんだってことに気がついた。

それらを見せない様に、見せないために、一生必死だっただけで、本当の私の気持ちってなんだろうってことを自分に語りかけて。静かに、ゆっくりと感じ取って。改めて言葉にした時。

その言葉たちが自分にとっては、考えの範疇に及ばず想定外だった言葉が溢れ出してきたとき、改めてそんな自分を受け止めなくてはいけないこと。

そのことに対して私は、「そんな自分と引き続き向き合っていけるのだろうか」「折り合いをつけて生きていけるのだろうか」とか。

そんなことばっかり。考えてしまう。

思った以上に、自分は自分のことをわかっていないことが多いんだなあ。日本語で受け止めようとすると、より映像で、より解像度が非常に高い状態で受け入れていかないとけない。

大きなスクリーンの中に最新の技術をふんだんに詰め込んだ映像。今までだったらぼやかされていた映像のそれぞれが、ハッキリしていてシャープに写っている。手に汗握るような瞬間。右手は必死に状況に耐えながら、片手を握り締めていて、左手には飲み物にいつでもありつけることができるように握っている。周りから聞こえてくる音は、低いベースの音の数々が私の内臓に無遠慮に響いてくる。そんな感覚。

そこに自分も一緒にいるんじゃないか…と、勘違いしてしまいそうになる。

映画館で、新しいアクション映画の新作を見ている時を思い出す。そういう感覚なのだ。

そんな状況だということもあり、少し逃げ道を探しているところ。

大人だって、一言で色んなことを語れないのに。こんだけ色んなことで揺れてしまうんだから、子どもは尚更だよね。

抽象度が高いとされている表現方法でも。
別の言語で表現してみても。
あえて言葉で表現しようとしなくても。

自ら探す、追い求めることをしすぎずに、代わりに語ってくれる人たちは世の中にたくさんいるじゃないか。その人たちの力を借りたっていいじゃん。

自分の心を守るために。
自分のために、色んなことを自分だけで探すんじゃなくて。
たくさん動いてみて、色んな景色を見たっていいんじゃないか。

「誰かのために」
「社会のために」
そんな風に思い続けていると、ガタが来てしまいそう。もっと自分のために、自分の心を守るために学ぶということをしたっていいじゃないか。

そんな風に思える様になって、
そんな風に感じられる様になって、

今までだったらこうやって表現できなかった私。自分の弱さを受け止められるようになった私を、たくさんたくさん褒めてあげよう。


いつも映画はナイターで見て。少し遅い時間に最寄駅まで帰るこの時間も含めて癒しの時間となっている気がする。こうやって景色を見ながらゆっくり歩いて帰る時間がとても好き。


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