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115/* お前はいいよな、と言い張る人へ

僕の両親が放任だったのか、僕が奔放すぎたのか、いづれにせよ僕は、僕自身の選択について、ある程度の自由さを与えられて生きてきた。自分の目で見て体感したものしか心底信じることはできない節があって、成功も失敗も、自分で体感したものは信じていなかった。今でもその名残はあるかもしれないが、昔に比べれば随分と聞き分けはよくなったという自負がある。

何より僕は、自身の決断を人に委ねて上手くいかなかったとき、心のどこかで人のせいにしてしまうことが嫌いだった。人生のとある選択を、人に委ねて失敗し、全ての責任を他人に求めようとしてしまった経験があるからだ。責任転嫁というのは失敗をゼロどころか、マイナスの要因に落とし込むものだ。そこから何も生まれないし、自身を落とし込むことにもなる。

だから僕は、自身の選択については、自分自身で決断することにこだわりをもっていた。あれやりたい、という欲望には最大限忠実でありたかった。翻ってそれが、自由に生きてきた、という実感に繋がっているのかもしれない。

こうやって僕が、選択の自由について話すと、決まって一定数、お前はいいな、というリアクションが帰ってくることがある。能天気でいいよな、と。その次には決まって、自分がどれだけ大変か、苦労自慢が始まる。こんなことは言いたくないが、僕だって何の柵もないわけではない。そもそも、他の意見を押し切って決断を通すということ自体、決断したからにはやり抜く責任や、弱音をはけないリスクを背負うことだから。もっといえば、能天気でいいよな、とあしらう人と僕とでは、意識の持ちかたが違うだけであって、やっていることは変わらんじゃないか、とすら思う。

ようするに何か物事に対峙するときに、「やりたいこと」としてむきあうか、「やるべきこと」としてむきあうか、ただそれだけの違いなのである。

「やりたいこと」と「やるべきこと」には順序がある。やるべきこと、というのは、あくまで欲望を満たすための手段であって目的ではない。たとえば、豪邸に住みたい、の次に、お金を稼がなきゃ、と使命が生まれるのとおんなじだ。欲望があるから、使命を全うしようとすることができるのであって、使命は単体で考えるべきではない。

自由に生きようとしている人に、お前はいいよな、と言い切ってしまう人は、欲望が圧倒的に足りていない。その先にあるべきものがないから、あれしなきゃ、これしなきゃ、と後ろめたさに苛まれてしまう。なんだって欲望を一つ持って、そのために今の自分を見直して見たのなら、少なくとも、お前はいいよな、とは言わなくなるんじゃないだろうか。

まさしく、ほんの気持ちの問題なのに、行き着く先は全く違ってきてしまう。

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