愛とは鏡である

世の中には愛のない人というのがいます。
愛がないと言っても多くの場合は極悪人というわけではありません。
ただ愛する事を知らない、愛された事がない、あるいは成熟した愛を受け取った事がない人というだけの話です。
成熟していない愛というのは偏った愛(=偏愛) の事です。
良かれと思って行われた過保護や過干渉、あるいはスパルタ教育などが良い例でしょう。
※偏愛についてはこちらの記事で書いています。

愛のない人というのは愛のない人に落ち着きを覚える事が多いです。
愛のない人にとっては愛のない人の方が慣れ親しんでいるという事でしょう。
愛のない人は自分の心をちゃんと見ようとしません。
それは自分が好きじゃないから、自己嫌悪のような感情を持っているからです。

そして自分の心を見ていない人は相手の心を見る事も難しいでしょう。
自分の心を見ていない人は自分の心を見られないように必死なので、相手の心を見る余裕がないのです。
このような愛のない人同士で繋がるとお互いに自分の見られたくない部分を見られる心配がなく利害が一致するのです。

恋愛においていわゆるクズと呼ばれるような人に引っかかって振り回されたり傷つけられる人というのがいます。
クズを追いかける人というのは基本的には自尊心が低い傾向にあります。
というのも彼らは低い自尊心が理由で自分自身をどこかでクズとして認識しているため、クズの方が安心するという心理が働くのでしょう。

ところが何度も何度もクズを追いかけては傷ついているとさすがにバカらしくなって同じような人を選ばなくなる人も多いでしょう。
(中には恋愛する事自体が無駄であると考えて恋愛すから離れてしまうような人もいるかもしれませんが)

しかしクズから離れる事ができるというのは最初のステップとして非常に大切です。
そしてこの最初のステップにおいてよく起こるのが他責になります。
他責というのはつまり相手がクズだから恋愛がうまくいかないんだという風に相手を責める流れが生じるという事です。
確かに相手がクズである事は恋愛がうまくいかない理由として大きいでしょう。
しかし原因はそれだけではないはずです。
※こちらについては以前書いたこの記事が参考になるかと思います。

何故クズと付き合っていたのか。
何故クズに振り回されていたのか。
何故クズに執着してしまっていたのか。
付き合ったのも振り回されていたのも執着していたのも全て自分です。

しかしながらこういう時に多くの場合はクズ側にだけ原因を求めて自分に原因を求めない事がほとんどです。
なぜ自分はクズを選んでしまうのかという問題は無視されてしまうという事です。
この段階においてクズを選んでしまう自分の精神性に目を向ける人というのは少ないのでないでしょうか。

彼らは自分の事が好きではないので、自分の人生であるにも関わらず自分が主体となって生きるという事に消極的です。
自分が主体となって生きる事に積極的な人は、自分と向き合う事を自然とやっているものですが、彼らにはそれが難しいのでしょう。
そしてこのような人はいざクズから離れて愛のある相手と出会えたとしてもなかなか上手くいかないというのがよくあるパターンでしょう。

なぜ愛のない人は愛のある人と関係がうまくいかないのでしょうか。
それは成熟した愛には鏡のような作用があるからではないかと考えています。
つまり愛を受け取る側というのは相手の愛を通じて自分の姿を見る事になるという事です。
相手の愛を通じて自分には愛がないという事を痛感させられて居心地が悪くなるのです。
何故ならば成熟した愛は相手の心を見ようとするからです。

愛のない人というのは嫌いな自分を見ないようにする事で自己嫌悪から逃れようとする傾向にあります。
中には自分を愛しているつもりになっている人というのがいるので非常に紛らわしいのですが、そのような人も心の奥底では自分に価値がないという気持ちを抱えている場合が多いです。
自尊心が低く自信がない、自分を無価値であるとかクズであると認識している。

弱い自分を相手に悟られたくない。
弱い自分を見られたらきっと嫌われてしまう。
相手に自分の心を見られたくない。
そして何よりも自分が嫌いな自分自身の姿を見る事が苦痛なのでしょう。
愛のない人は愛のある人が自分の心を見ようとしてくるのが怖くて仕方がないのです。

しかしながら成熟した愛のある関係においての尊重とはお互いに心を開示してお互いがお互いの心をちゃんと見ようとする事です。
よく「歩み寄る」なんて言葉が使われるのはそういう事ではないでしょうか。

愛のない人は「歩み寄り」という概念を勘違いしており大抵の場合は自分の気持ちを押し殺して我慢するという事になりがちです。
自己開示への恐怖が強く、相手と意見が一致しない時や相手の言葉に傷ついた時に迎合して誤魔化す事が「歩み寄り」であると考えているのです。
そして自分はこんなに我慢しているんだからと鬱憤を溜まらせながら相手にも同じような我慢を求めがちになるのです。
必要のない責任を勝手に負って、相手にも同じような責任を求めて叶わないと不満に思う。

愛のない人は恋愛関係において一方的に迎合や抑圧をするか、相手に一方的に迎合や抑圧を求めるかのどちらかに偏りがちです。
それは彼らがそれ以外の方法を知らないからです。
しかしこんなやり方を「歩み寄り」と認識している限りはまともに愛情を育む事などまず難しいでしょう。

これは自分が嫌われる事への恐怖ばかりで自己防衛にほとんどのエネルギーを注いでいる状態です。
彼らとしては相手を思いやっているつもりなのかもしれませんが、実際には非常に独りよがりで自己中心的なのです。
こんな状態で相手の心など見る余裕などあるはずもないのです。
そして知らぬ間に自分の本心を抑圧している。
これは感情のセルフネグレクトと言えるでしょう。

ここで必要になってくるのが自己受容の精神です。
これについては複数の記事で散々話している事ではありますが、自己受容の精神を持っているか持っていないかはあらゆる心理的なトラブルにおいて最も関係している核となる部分になります。
自分の弱みを含めて丸ごと受け入れる事ができているか、自分自身を愛せているのか、その土台の有無が問われているのです。
※自己受容についてはこちらの記事が参考になります。

愛のない人というのは自己受容ができていない人とイコールに近いように思います。
愛を生み出すための最も根源的土台が自己受容の精神と言えるのではないでしょうか。

愛のない人にとって愛のない人から学べる事は少ないですが、愛のある人から学べる事はたくさんあるはずです。
何故ならば愛のある人は愛するという事がどういう事なのかを知っているからです。
愛する能力がある。
ところが彼らは愛を誰よりも欲しているはずなのに愛のある人に対して居心地の悪さを感じてしまう。
このような厄介な悪循環に陥りがちなのです。

この場合まずは自分自身を受け入れる事が1番大切です。
ここで1番辛い現実というのは「自分には愛がない」という事かもしれません。
しかしながら自分には愛がないという事に気がつかない限りは愛がある状態を探る事もできないものです。
愛がないのに愛があると思い込んでいる限りは擬似愛に依存してしまい、成熟した愛からはおそらく遠ざかってしまうでしょう。

擬似愛というのは例えば自分が愛される為に迎合する等です。
例えば相手に尽くして尽くして相手が自分に感謝をして自分を尊い存在として認識してもらえるように神経症的に頑張るメサイアコンプレックスなどがまさにそうです。
※メサイアコンプレックスについては過去に記事でも取り扱っています。


相手から愛されようと必死になる人というのは何よりもまず自分で自分を愛していないという事を認めて受け入れる必要があります。
誰かに褒めて欲しい分かって欲しい認めて欲しいと強く願う気持ちの原動力は全てそこから生まれているのです。
そして自分で自分を愛していない事が誰かの愛情を遠ざけてしまっているという事に気づく事が必要なのです。

愛には鏡の作用があります。
愛のない人には鏡の作用がない。
愛のない人同士であればお互いに何も見えない。
愛のない人は愛のある人の鏡の作用に苦しむ。
愛のない人は鏡に映る己の愛のなさに苦しむ。
愛のある人は相手を見ようとする。
愛のある人同士であればお互いが鮮明に見える。
愛のある人は鏡に映る自分を尊いと感じる。

愛を育むというのはお互いの鏡でお互いを映しあって高めあう事なのではないでしょうか。
自分が好き、その上でこの人を好きな自分が好き、そしてこの感覚をお互いに持っていれば関係は継続的に良好なまま続く可能性が高いのではないでしょうか。

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