見出し画像

窓を開ける風を通す(「線」と「ヴァルター・トリーア」と「高野文子」)

季節は秋真っ只中。絵を描いていると、少しだけ開けた窓から風が入り込んできた。肌寒い気もするが、残暑の湿気を風がさらっていくようで心地よい。開けた窓の向い側のドアが開いている。風が一直線に吹き抜けていく。そこに手をさらせば風を掴むことができる。それは例えるなら、夏場に声の絡みついた扇風機の感覚とでも言えばいいだろうか。人間の方じゃなくて扇風機側の感覚ってことが重要だ。

では扇風機からコンセントを伸ばすように話を広げていこう。(足を引っ掛けないように。)

「風通しの良い」線でできた絵というものがある。ここで言う「風通しが良い」というのは技法書などでよく教えられるような主線や背景線の使い分け、線の隙間を空ける等の話ではなく、線のみで書かれ(または線のみにした際)、実にシンプルだが特徴的でユーモアに溢れている含みのある絵のことを指している。

「ヴァルター・トリーア」を紹介したいと思う。馴染み深い主な作品を上げると、岩波少年文庫のケストナー作品「飛ぶ教室」や「エーミールと探偵たち」の表紙を務めており、その柔らかすぎる線や独特のパース感で印象に残っている人も多いのではないかと思う。

例えば、線の自由さについて考えるとき、一本の線程自由なものもないと言える。一本の線から想像できるものは人間や木、数字等上げていけばキリがないだろう。しかし、それはあくまで線自体の力である。線の力を最大限活かしながら、最低限に近いディティールを付与することで、モチーフの魅力を最大限引き出し想像させるのが「ヴァルター・トリーア」の作品なのである。

私の手元には「Lilliput」という「ヴァルター・トリーア」の作品集がある。「Lilliput」という雑誌の表紙を集めたものなのだが、どのページでも老若男女、動物達がいきいきと息づいている。そのモチーフ達のシルエットは一筆書きの様なとても軽やかな線で紡がれ、本のページを撫でれば綿毛のように飛んで行ってしまいそうである。この感覚は「呼吸する線」と評された「パウル・クレー」の作品を見たときの感覚と似ている。しかし、私がこちらを「風」と例えるのは「パウル・クレー」の作品から溢れ出る、緊張感の中における自由、か細く消え入りそうなイメージを「呼吸」というのであれば、こちらは、緊張感から解放され、ドーンと佇み生命力に溢れていたからである。

この流れで「高野文子」さんの絵についても触れていきたい。「おともだち」や「黄色い本」から始まり「ドミトリーともきんす」や最近の本の挿絵で描かれている、流れる様な線で描かれている物や人物達。

元々デザインとして見てもとても素晴らしい絵柄であったが、最近はそれがますます顕著になり(線がだんだんと減り)洗練されてきている気がする。一つ例をとれば、女性が座っているポーズ。それを人物を囲ったシルエットと必要最低限の線で、もののみごとにその女性の雰囲気やその場の空気を表現してしまうのである。それは例えば、線と自身が調和していると言った表現になるだろうか。高野文子さんの絵を見ていると、時に、何故これだけの線でここまで詳細が伝わるんだと震える事がある。それこそ風通しが良すぎて部屋の中で飛ばされてしまった様な気分だ。

さて、二人の話を終えたところで、そろそろ部屋の空気も入れ替えられたことだろう。開けていた窓を閉めていく。ふと手元に目をやると、先程書いた線が二、三本無くなっている気がする。風が湿気と一緒にさらっていったのかも知れない。傍に置いてある本がパラパラとめくれた。「ふふっ」と本に笑われている気がして、私は少し悲しくなった。
「風さんのいじわる!」ここからの少女漫画展開を期待したい。

2022/10/10 一井 重点

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?