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少しだけ、機械的

「子供を産むと母親になる」

子供を産む事を子供から、母親から「産んだ事象」として切り離してしまうと、どうもこの「事象」は一人歩きが得意なようで、赤児よりも遥か大きな声で泣き、「対照」に覆いをかける。

本来は母親というものは常に存在していなくて、子供を産んだという事象だけがそこにあり、元からある「対象」は「対象」である。

これは生まれたばかりの子供も同様で、「対象」と「対象」の間で起きた「事象」がそれぞれの「対象」に「役割」を与えたに過ぎない。

常に「事象」は先んじて我々「対象」に「役割」を与える。

「家族」「父親」「友人」「恋人」「個人」「加害者」「被害者」

このように「事象」が先行して「役割」を与えることを「対価」や「報酬」の様に捉えてしまって良いのだろうか。

貪るように「事象」を望むことは好ましい事なのだろうか。

「事象」によって「役割」づけられた関係性は果たして本当の関係性なのだろうか。

我々「対象」は「役割」を担わされすぎている。すでに「時間」によっていくつもの「役割」を担わされているというのに、それらを忘れてしまうぐらいに。

内省も「事象」だと捉えて。距離を置き「役割」を付与される「対象」から「我々」へと帰ることをしたい。

そう、少しだけ機械的に。

決して精密ではなく。

少しだけ機械的に。


なんて。

カッコつけてみたりなんかして。

2024年 3月23日 一井重点

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