いつのまにか終わってた子育ての思い出話
ACIM(A Course In Miracles)は奥が深い。
でも、子育ても奥が深いものです。
今回は、とっくに終わった私の育児の思い出話。
この話じたい”奥が深い”かどうかは、わかりませんけど…
かんの虫って?
この春から社会人になった息子は、発達障害の診断を受けています。
自閉症スペクトラム障害(ASD)と注意欠陥多動性障害(ADHD)。
息子はとても気難しい赤ちゃんでした。夜も3時間以上眠ることはなく、起きている間はほとんど泣いている状態。
発達障害児は睡眠障害を併せ持つことがあるそうです。息子の場合、睡眠に関しては満7歳までこの状態でした。
私は心身ともにへとへとでしたが、それをありのままに理解してくれる人はいませんでした。
「子育てってそうよねー」「男の子は育てにくいから」
ニッコリ笑顔で、そう言われるばかりです。
はぁい…。そうですね…
もう状況を説明する気力もない。
当事者の親あるある。
息子はというと、最大音量で朝から晩まで(というのは比喩で、実際は「朝」も「昼」も「夜」もない24時間営業)この世の終わりのように泣きわめいてばかりです。
なんとかしてやりたいのですが、どうすればいいのか皆目わかりません。
当時の私が手に入れられたアドバイスは、ほとんど試しました。かんの虫封じのお札を飲ませる…なんてのもありました。
(「かんの虫」って、どんな虫なんだろう?)
発達障害の人は、感覚的な刺激に敏感な場合があります。
いま思えば、赤ちゃんのころの息子は様々な刺激の不快感に悩まされていたのかも。
私にはわからないような音や光などが不快で、気持ちよく過ごせなかったのかもしれません。
彼自身も、しんどかったのでしょう。
遠隔操作
ところで、「ママがリラックスして穏やかになれば、赤ちゃんも穏やかになる。ママと赤ちゃんの魂はつながっている」みたいな話。
息子が赤ちゃんだったころに流行(?)してたんですが…
いまもあるのかな?
この話が真実なら、私は完全に不機嫌のカタマリってことですね。
息子があれだけ不機嫌だったということは、親の私がいかにひどい鬼親だったかの動かぬ証拠。
親が悪いから、赤ちゃんが不機嫌になる。
…ということだったんでしょう。
「もっと前向きになりなさい」「もっとリラックスしなくちゃ」「もっと魂を浄化しないとダメ」
そういう「もっと、もっと」のありがた~いアドバイスを、いろんな方からたくさんいただきました。
どんだけ後ろ向きで、穢れた魂の人間なんでしょうか私は?
いやはや、事実じゃないですか。返す言葉がないや。
とはいえ、「ママの気持ち(ママの魂の穢れ?w)」にあまり左右されない赤ちゃんもいると思います。
良くも悪くも、生来他人にあまり影響されないタイプの人っているみたい。
でも「親子の魂がつながっている」みたいな話、夢がありますよね。私自身そういうのキライじゃないです。否定しません。
しかしそれは、「親が子供を遠隔操作できる」という意味ではないと思います。
不良品じゃない
これは発達障害当事者の親としての私の個人的な感想ですが、息子のようなタイプ(ASD)の子供の場合、「自分以外の存在(他人)」に対する実感が薄いのかもしれません。
もしそうなら、最初から周囲の人々とは少し違う感覚で過ごしているのでしょう。
だから他の人との意思疎通(コミュニケーション)への欲求が薄く、自分の意図やニーズを伝える必要性もあまり感じないのかもしれません。
いまの私は、こうしたことをデフォルトOSの違いのようなものかなと思っています。
これは「故障」ではありません。
だから「不良品」「欠陥品」ではない。
「修理する(直してやる)」的な意識で接していると、いずれは混乱や反発を招くでしょう。
「棹させば流される」はず…?
良くも悪くも、他人に左右されない人間がいるらしい。
もうお察しかもしれませんが、息子がまさにそういうタイプ。
これってまさに文字通り「良くも悪くも」で。
良く言えば、我が道を貫く。でもそれは、周囲に無関心ということでもある。
おかげで、年齢が低いうちはトラブル続きでした。
しかし10代になると、それがうまく作用した面もあったようです。
思春期まっさかりの中高生時代って、いろんなことがありますよね。
生活が、徐々に、大人社会の縮図になってくる。かれらなりに、「とかくこの世は住みにくい」感じになるのだと思います。
しかし息子には、そういう悩みは少なかったようでした。
基本的に人づきあいをしないので、いらん摩擦も生じない。
「情に棹させば流される。とかくこの世は住みにくい」。
夏目漱石の「草枕」ですが、「棹をさす情」は人間関係での感情のことなのでしょう。
息子はこの「情の流れ」を、良くも悪くもあまり実感していなかったのだと思います。
環境も良かったのでしょう。
10代以降は、驚くほどトラブルが減りました。
「関係性から得ようとしない」
正直、子供時代の息子は決してつきあいやすくはありませんでした。(大人になったら、けっこう面白い相手です。)
そんな息子との”親子づきあい”の支えになっていたのは、私にとってはやはりACIM(A Course In Miracles) でした。
親子関係に限らず、私たちはつねに人間関係に「なにか」を求めているものです。
ACIMによれば、そうした他者への要求は、どんなに自然で当たり前に見えても実は不当なもの。
相手を利用して、自分を充足させるなにかを獲得しようとする試みだからです。
本来の自分以外のなにか(ACIM風に言えば「偶像」)で自分を満たそうとしていると、最終的に恐れに閉じ込められることになってしまいます。
ー私はいま、これを学んでいるところ。
そう思い出すことで、息子との関係や、彼にまつわるもめごとの対処にずいぶん冷静になれました。
苛立ったり腹を立てたりするのは、相手に「なにか」を要求しているサインです。
その「なにか」が、ごく自然に見える場合も多いでしょう。
たとえば「一緒にいて楽しい」とか、「お互いを理解し合う」とか。
ぱっと見に、有害なものにはまったく思えません。
しかしそれを相手に要求するとき、それはACIMがいう「偶像」になります。
そしてその関係性は、「特別性」と呼ばれるものになるのです。
そう思い出すのが、様々な場面でどれほど役にたったことか。
言葉では表現できないくらいです。
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