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【短編】月面に根は張れるか(前編)

あなたの恋人はどんな人ですか?


五分程度で読める短編小説です。
以下本編です。


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当日の手荷物はできるだけ少ない方がいいだろうと、妻が邪魔にならないくらいの小さなリュックを買ってきてくれた。どこかのブランドのアウトレット製品らしいが、僕にはよくわからなかった。

その小さなリュックは下着の替えとハンカチ、歯ブラシと顔を洗う用のタオルだけ入れたらすぐにいっぱいになった。

僕は妻の綾子に聞く。

「月に着くまで少し時間もあるけど、本当に着替えの服持っていかなくて大丈夫かな」

部屋の隅のクローゼットで同じく荷物をまとめていた妻は、少し振り返って答える。

「大丈夫だって。この前の説明会でも聞いたじゃん、宇宙船の中では一時的に体の活動が弱くなるから汗もかかないし汚れないって。最低限の替えがあれば良いよ」

彼女は僕のリュックよりも少しだけ大きな鞄に、詰めきれないほどの荷物を並べてどれを持って行こうか吟味していた。その中にはTシャツやジーンズなど着替えも入っている。なるほど、説得力がない。

僕はこっそりともう一つ手持ち用のトートバッグを引っ張り出して、そちらに少しだけ着替えと彼女が好きなお菓子を詰めておいた。これはご機嫌とり用だ。

荷物を用意し終わって手持ち無沙汰になった僕は彼女の背中を眺める。この線の細い体にどれだけのパワーが詰まっているんだろう。彼女が一年前の月面移住の抽選に応募していなかったら、そしてそれが見事当選していなかったら、僕は一生涯地球から足を離すことなんてなかっただろう。活動的な人といると自分まで活動的になった気持ちがする。

思えば僕の人生はほとんど東京都の下町で完結していた。大学卒業に至るまで家を出なかったし、一人暮らしを始めたのも親が「あんたみたいなのほほんとしたやつは苦労した方がいい」と追い出されたからだ。確かに僕は三人の兄弟の中でも一番とろくて、何事にも慌てるということをしなかった。

そういう性格が彼女の何かしらの琴線に触れたのか、僕と綾子は二年前に結婚した。綾子はそれまで海外でバックパッカーをしたり、日本の被災地でボランティア活動をしたりとアクティブに世界を飛び回っていたらしい。綾子曰く、彼女は「根無し草」というやつらしい。どこにも居つかず、知らない場所を転々とするのだ。その話を聞いた時はもちろん僕だって驚いたが、いかんせんのほほんとした性格なのでびっくりが伝わらなかったらしく、綾子には「器の大きい人」としてインプットされたらしい。人生何があるかわからないものだ。

それから時々は綾子をイライラさせながらも、お気に入りのお菓子と得意の話題逸らしで円満な結婚生活を送っていた。僕らの結婚には両親も大喜びしていて、月に引っ越すと報告した時にはさすがに目を丸くしていたけど「旅行に行ったら泊めて頂戴」とのほほんとしたことを言っていた。ちなみに彼女の両親は僕と出会う前に事故で亡くなっていて、私は天涯孤独な根無し草なの、と綾子は自嘲気味に笑っていた。

そんな二年間のことを思い出していると、とても入りきらない荷物をぎゅうぎゅうに詰め込もうとしている綾子が寝室にかけてある時計を見た。

「明後日の今頃にはもう、宇宙船の中なんだね」

「そうだね、無重力空間で遊んでいるか、機内食でも食べてる時間だね」

「無重力かぁ、一ヶ月前に訓練受けたけど、あんなにずっと体が軽かったら太りそうだよね。あなたのぽっちゃりお腹も無重力でたぷんたぷん揺れてたもん」

「良いんだよ、月に行ったら無重力ダイエットにでも励むから。でも最後にムーン・サルトのモーニングは食べておきたいね」

そういうと綾子はクスクス笑った。「ムーン・サルト」は僕らの家のすぐそばにある古いパン屋さんで、そこで出しているモーニングセットがお気に入りだった。休日は大抵そこで朝ごはんを済ませて、公園や町を散歩した。散歩するたびに僕が歩きながら地元の町を紹介するので、彼女は「それ何度も聞いたよ」と呆れながらも相槌を打ってくれた。その度にショートカットの髪の後ろ側が楽しそうに跳ねるので、僕は嬉しくなって繰り返し話してしまう。

「地球って、宇宙から見たらどんな色なんだろうね」

「うーん、想像もできないな」

「あなたはこの町以外想像もできないんでしょ」

根無し草の私とは違ってね、と綾子は言った。嫌味ではなく、むしろ褒められているのだとわかるから僕はそれ以上何も言わなかった。

結局綾子はバッグに荷物を詰めきれず、放り出したまま髪を切りに出かけた。月にはまだお洒落な美容室がないらしく、行く直前に手入れをしておくのだと言っていた。それに習って僕も出掛けようかと思ったが、対して髪も伸びていなかったしいざとなればバリカンで彼女に刈ってもらえば良いのだと思ってやめた。本当は単に面倒臭かったのだけど。

月へは宇宙船に乗って丸一日。朝一で乗り込み、飛行機のエコノミーに毛が生えた程度の席で綾子と話しながら暇を潰して、次の日の朝には月に降りられるらしい。

全く実感は湧かなかったけれど、綾子が楽しそうだからそれでいい。

僕は少し前に図書館で借りた「月世界旅行」のことを思い出した。まだ読みかけの一冊で、月への出発日が決まってからすっかり忘れていた。天文学者たちが月面で月の人類と出会い、追い追われた末にコウモリ傘で応戦し、命からがら地球へ逃げ帰る話だ。今や月はだだっ広い無機物地帯として地球の領地になってしまったが、別の進化を遂げた生命体っていうのもなかなか面白い。

そう話すと友人たちにはまた「相変わらずのほほんとしたやつだな」と笑われたが、僕にとって月は面白そうなことの方が多くって、地球を出ることで失われるものがあまり思いつかなかった。

地球を離れたら何が変わるだろうか。僕はいつものほほんとしているから、きっと何も変わらないだろうねと綾子が少し前に言っていた。さすがにそんなこともないだろうと思ったけれど、彼女が言うのならそうかもしれないとも思う。

僕は小腹が空いたのでお菓子の袋を開けたが、綾子が楽しみにしていたとっておきだと思い出してそっと閉じ直した。食べ物の恨みは怖いから、いくら月に行ったとしてもそれは対して変わりないだろう。

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お読みいただきありがとうございました!

後編に続きます。


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