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晴天にグレー #月刊撚り糸


 今すぐに桜の花を見に行かなければ死んでしまうような気がしたことはありますか、と彼女に聞かれた時の衝撃をよく覚えている。そしてその衝撃と同じくらいの速さと深さで、理解したのだった。あたしが1番知りたくなかったこと。三澄が、彼女を選んだわけを。

 それなのに三澄はわたしの隣でのうのうと寝息を立てていた。馬鹿みたいに広いラブホのベッドの上、上半身裸のままの身体が寒そうに真っ白なシーツに包まる。薄く唇を開いた寝顔が幼く、服の上から見るよりもなだらかな肩。同じ部屋であたしよりもずっと若い男が寝ているのだという実感がぐらぐらと湧いてくる。

 事実、三澄は七つも年下の男だった。まだ四年制の大学も卒業していない学生。酒も煙草も馴染まない薄らと肉付きのある手の甲。さすがに、成人はしている。

 三澄とは飲み会で知り合った。大学生の時に所属していたサークルの繋がりで呼ばれた安い居酒屋。懐かしい顔ぶれと、まだ高校生のような顔をした若者たち。映画好きという共通項だけを頼りに会話を繋ぐ。その中に三澄もいた。

 歳が離れている割には話が合った。少々生意気だが、古い名作からB級作品まで本当によく知っている。三澄は本気で映画業界を志していて、監督になるのが夢だと言った。

 彼女がいることはすぐにわかった。幹事役の黄色いワンピース姿の女の子。盛り上げ上手で、色が白くて、口元のほくろがエロい。安易だな、と3杯目のハイボールを飲みながら思う。同時にそれが可愛らしくも、そして眩しくもあった。

 時々やり取りを交わすようになると、三澄はあたしにあっさりと心を許した。周囲との温度差で孤独になりがちな彼には、対立する心配のない、生意気な態度を笑って流してくれる相談役が必要で、それがあたしだった。

 ベッドサイドの常夜灯をつけ、スマホを探す。スカートを脱いだ時に落としたのを思い出して身を乗り出すと、案の定床に落っこちていた。拾い上げて電源を入れると朝の5時だった。三澄が起きる気配はない。

 相談役が必要だった、というだけで、欲求を満たしてくれる相手は別にいた。歳の割にしっかりした、エロい彼女。半ば無理矢理ラブホへ連れ込んだのはあたしだった。飲み会の後で酩酊状態だった三澄は半分眠っているようなものだったが、構いはしなかった。ただ、可哀想にな、とは思っていた。寝不足と疲労感で全身が気怠い。

 そのままだらだらとLINEやSNSを眺めていると、一枚の画像に目が留まった。投稿されたのは2021年の3月。もう一年も前になる。誰かに撮ってもらったのか、写真は後ろ姿で、黒いTシャツに白抜きで「I'll be back」と書かれている。しかし投稿はそこで途絶え、今も敦也は帰ってきていない。

 敦也は大学時代のゼミの同期だった。父親が地元の名士か何からしく、大学生にしてはやけに余裕のある生活をしているやつで、バイトもしていないのにやたらとブランド物を身に着け、頻繁に旅行へ行き、飲み会にはいつも最後までいる。学費は親持ちでも、生活費は自分で稼いでいたあたしには少し憎たらしい存在だった。

 本人は自分の境遇を謙遜して見せることはなく、むしろ嫌味を言われると笑顔でピースサインをするようなやつだった。陰口を陰口として捉えず、鬱陶しいほどにポジティブ。育ちが良いとこういう仕上がりになるのか、と思いながら同期としての時間を過ごした。

 敦也は時々、授業の終わりに一緒になると懐っこい笑顔で缶珈琲を奢ってくれた。差し出された暖かさに、どうせならスタバの新作にしてよ、と図々しく返していた。

 社会人になっても敦也は変わらなかった。新卒で入った会社を5年目に辞め、落ち込んでいるという投稿に添えられていたのは白く泡立った波打ち際に赤い海パン一丁で寝転んでいる写真だった。クソが、と別の同期がコメントしているのを見て笑った。

 その数日後、今度は突然「転職する前に東海道五十三次を歩き通す」という投稿が流れた。意味がわからない、と友人たちと言い合いながらも、週に一度のペースでタイムラインに表示される写真を楽しみにしていた。だが薩埵峠を超えたところで敦也の投稿は途絶えた。誰が連絡を取ってみても返事はなかった。

 もう一眠りして目を覚ますと、常夜灯が消え、代わりにバスルームの明かりがついていた。隣はもぬけの殻。いなくなった三澄の代わりにたぐまったシーツが緩く盛り上がる。それを指先だけでそっと撫でる。

「浅霧さん」

 はっとして振り返ると、隅にあったひとりがけのソファーに三澄が座っていた。肩にタオルをかけ、髪からは雫が滴る。

 意外だった。三澄なら、あたしを残したままひとりで帰るかもしれないと思っていた。生意気さの裏にどうしようもない臆病さを滲ませるのが彼だった。しかし三澄はソファに座り、所在なさげな目をしている。あたしは黄色いワンピースの彼女のことを思い出す。

 『変な酔い方はしないけど、代わりに記憶をなくすタイプだから心配なんですよね』。何度目かの飲み会の帰り、三澄を迎えに来た彼女が言った。その日はあたしと、映像関係に勤めているOBと、三澄の3人で飲んでいた。三澄は珍しく生意気な口を閉じ、子供のように素直な顔で話を聞いて、そしていつも以上によく飲んだ。

 彼女にはあたしが連絡した。酔っていたからか、それとも気を許しているからかわからないが、板ガムでも手渡すみたいな調子で三澄がロックの解除された自分のスマホを渡し、連絡を取ってほしいと言った。甘えるような視線が酔いの回った肩先により掛かる。ずっと見ないふりをしてきた気持ちに、はじめて衝動的な感覚が伴った。

 三澄は今どうして自分がここにいるのか、それもあたしの隣で眠っていたのか、覚えていないのだろう。居心地の悪そうな顔が説明してくれと言っている。そうなるように仕向けたのだから当たり前だった。

「あの、すみません、俺、昨日のことよく覚えてなくて」

「いいよ、お互い酔ってたし」

 白々しい、と悪態をつく自分をかき消すようにわざと大きめに手を振る。すると三澄は露骨にほっとした顔で「すみません」と繰り返した。

 むしろ逃げなかったことを褒めてあげたいくらいだった。三澄の柔らかい髪の感触が指と指の間をくすぐるが、頭を撫でられるような距離に彼はいない。代わりに裸のままの自分が急にみっともなく思えて、散らばった服を拾い上げる。

「終電逃してファミレスで潰れてたってことにしておくから。昨日のことは忘れよ」

 集めた服をシーツの中に引き寄せたが、部屋が明るいせいでうまく身に付けられない。おそらく昨夜はあたしも相当に酔っていた。でなければ三澄に肌を見せようなんて勇気はとても持てなかった。そして『心配なんですよね』とこぼすコーラルベージュの唇の誘惑さえなければ。

 あの言葉に牽制する意味も、目的も、きっとなかった。若さと容姿と、その他彼女を構成する全てが、あたしを敵と見做していなかった。悔しくはない代わりに、空いた隙間に無理矢理自分を捻じ込んだ。ギリギリと軋んだのは彼女でも、三澄でもなく、あたしだった。

 三澄はなかなか次の言葉を発さなかった。水気を含んだ髪をがしがしと拭きながら険しい表情になる。静けさが耳鳴りになってずるずると床を這う。衣擦れも、肌のかさつきも、下手な言い訳も、何もかもが煩かった。みな最後にはあたしの心臓へ収束し、皮の下で騒ぎ立てる。どうかこのまま引き下がってくれ、と強く思う。

「そうはいかないです」

 年相応に茶色い髪を覆ったタオルの隙間から視線が走る。一語目の強さが正面からぶつかってくる。小さく息を呑んだ。

 ソファが軋んだ音を立てる。大きな薔薇の模様が歪んで、また元に戻る。皺の寄ったTシャツを着た三澄がわたしを見下ろして言う。

「そういうわけにはいかないです。俺、昨日のこと、あいつに話します」

 白いシーツの中の足が震えた。背筋を冷やすような肌寒い空気が引き摺ったままの夜を掻き消していく。

「やめなよ、別れなきゃいけなくなるよ。一回間違っただけじゃない、これからも浮気しようってわけじゃないんだから」

「それはそうですけど、」

 自分で言い出したくせに、三澄の頷きに胸を刺される。あたしはただの相談役で、欲求を満たしてくれる相手は別にいるとわかっていたのに。欲求どころか、心ごと満たしてくれる黄色いワンピースのあの子はしっかり者で、ちょっとエロくて、心配性で、少し夢見がちで。きっと三澄を許さない。

「良いじゃん、黙ってなよ。それに同じ仲間うちなんだよ、バラされたらあたしだって無傷じゃ済まないし」

 三澄が口をつぐむ。暗に迷惑だと言われれば、自らの繊細さが三澄を萎縮させる。生意気だけど、根がいい子なことはよくわかっている。

「でもやっぱり、俺、黙ってらんないです」

 わかっているだけに、見くびっていたのかもしれない。光の差さない部屋に三澄の明るい茶髪が浮かぶ。彼はあたしを選んだわけではない。

「浅霧さん、ごめんなさい」

 今度はあたしが口をつぐむ番だった。


 ホテルを出ると、街はまだ火にかけたばかりの水のように静かだった。少し歩いたところにあった自販機で缶珈琲を買って飲む。三澄は一足先に帰らせた。

 スマホの電源を入れてロック画面を解除すると、敦也の後ろ姿が表示されたままだった。切り立った崖の上。加工されていない空の青。彼以外誰もいない景色。希望よりも絶望を多く含んだ、白抜きの文字。

 敦也なら大丈夫だと思っていた。無用な心配だと、みな信じていた。敦也はそういうやつだから、そのうちひょっこり顔出すさ。振り絞るように誰かが言った。しかし1年経った今も敦也は帰ってこない。

 敦也が缶珈琲を奢ってくれるのは、ゼミの発表で失敗した時や、それ以外の何かしらで落ち込んでいる時だった。人懐っこい目尻につられてほころぶ。それに気がついたのは随分あとになってからだった。

 心のどこかで頼りにしていたものが崩れる音は、飲み終わった缶を捨てる時と同じくらい軽く、そして甲高い。痛みだけが鈍く重い遠吠えのように、繰り返しあたしの中をぶつかって跳ねた。

 どんなに計算高くいるつもりでも、そう都合良くはいかない。酩酊した三澄に彼女と別れてくれと懇願したところで、彼が決して覚えていないように。人生は大抵願わない方へ転がるし、とんと動ないこともある。

 足元に桜の花が散っていた。歩道橋を渡った反対側から風で運ばれてくるようだった。朝日が眩しい。目を細める。カラスが鳴く。自転車が脇をすり抜ける。細いタイヤが凶暴に薄紅色の花びらを砕く。

 今すぐに桜の花を見に行かなければ死んでしまうような気がしたことなんて、いくらだってあった。あったのに、それこそ死んでしまいたいくらいあったはずなのに、素直に「あるよ」と言えなかった。そしてこの先も、あたしはそれを誰にも言わずにいる。

 駅とは反対側の歩道橋を上がる。打ちっぱなしの階段は泥のように重くなった足腰には長過ぎたが、どうにか登り切る。今、28歳の身体じゃなかったらきっともう駄目だった。これまでも幾度となくそう思ってきたし、三十路になっても、四十になってもそうして登っていくのかもしれない。

 体力も、スマホの充電も底をつき、ただ遠くの方を眺める。東の空から差し込む光は黄色く、そして青い灰色をしていた。




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